インターネット公開への序文
2000.11.10.
本書は私の最初の単行本である。「処女作」という表現もあるが、この明治時代からの中古品の熟語は、まさに英語の翻訳の丸出しでもあり、男性の初出版の表現としては相応しくない。私のワープロ冗談表現によれば、一発変換のできない「じょだん(女男)」差別である。
しかも、訳語としても原語の意味の一部のみを取っているので、偏っていると言わざるをえない。駄洒落の戒めに「語訳は誤訳」と言うが、その一例である。原語のvirginには「女性」の限定がない。男性向きにも使える「童貞」の訳語もあるが、「童貞作」とか「童貞出版」では生々しすぎる。語源のラテン語のvirgoは「若い枝」を意味するvirgaと近縁らしい。ここでは詳しい記述を控えるが男性向けの意味をも含んでいる。
私は平凡でも正確を好むので、ただただ平凡に、「初の単行本の出版」と表現する。
DNA鑑定で古代エジプト人が黒色人と判明の驚異
本書に関する最大の自慢は、その後、「古代エジプト人は黒色人」説が、完全に証明され、最早、世間的にも定説化したことである。当時、日本では唯一の説を大胆にも展開するに至った推理の過程は、最近の私の自称の「嘘発見名探偵」の原点でもある。われながらマニアックなまでの「歴史見直し」癖と、「右顧左眄拒否」癖とは、ここに最初の印刷物としての物的証拠を残しているのである。
しかし、子供の頃からの空想科学小説の愛読者でもある私としたことが、当時は迂闊にも、「DNA鑑定」などという技術が開発されるなどとは、夢にも思っていなかった。
その後と言っても、すでに10年も前のことになるが、私は、唯一の長編小説『最高裁長官殺人事件』の仕上げ中で、「戯作三昧」境に浸っていた。それでも、やはり、労働争議まで経験した身でもあるので、実社会の動きを無視するまでの徹底した根性を欠いていた。ズルズルと過去を引き摺り、大手商業新聞と併読で比較対照の用途も兼ね、1961年以来の『赤旗』宅配を受けていたのであるが、集金にきた若干むさ苦しい若者に職業を聞くと、当時激増中の博士号取得、研究室助手の空き待ちで、受験塾のアルバイト講師だと言う。専攻を聞くと考古学だと言うので、早速、本書で展開した「古代エジプト黒白論争」のことを話したところ、即座に軽く、「古代エジプト人が黒人だったことは、最早、考古学の常識ですよ」と、いなされてしまった。ミイラの遺伝子鑑定の結果だと言うのである。聞いた途端、ウヌッ、となった。まるで、いきなり、SFの世界に舞い込んだような異次元的錯覚に襲われた。ショックと言ってもいいだろう。
その若者の「いなし」のおかげで、その後に「DNA鑑定」の名で一般にも知られるに至った技術が、すでに実用化され始めていたことを知った私は、慌てて『最高裁長官殺人事件』の中に、死体の身元確認の非公式な最新技術として書き足した。
その経過はともかく、わが自慢の「あくまでも権威を疑う」独自捜査、徹底的な資料収集、分析、論理的な類推の結果の方は、見事に的中していたわけである。この経験は、当然、わが自称「嘘発見名探偵」の称号授与への自薦理由の筆頭となる。
大スフィンクスの画像は
セネガルの超々有名人の著書から借用
さて、本書を探偵物として位置付けると、その推理の最大の物的証拠は、表紙に使った「大スフィンクス」の画像である。この画像は、ナポレオンがエジプト遠征に伴なった画家の手になる銅版画である。日本では英語の借用でエッチングと言うが、フランス語ではgravureであり、特に、「網版(画)」の訳が当てられるgravure en similiは、厳密に意訳すると「写真版」である。つまり、レンズを利用するカメラ撮影と化学的処理によるダゲレオタイプ「写真」以前の「写真」記録なのである。証拠価値は決定的である。
ただし、私はまだ、被写体の「大スフィンクス」が、何時、砂に埋もれ、何時、掘り出されたのか、どのような経過で風化が進んだのか、などなどの詳しい研究には到達していない。鼻が欠けているのは、砲兵将校出身のナポレオンが大砲の標的に使ったからだという説もあるが、この画像を知る以前に、どこかで読んだ記憶があるだけで、その説の検証もしていない。
「大スフィンクス」の画像そのものも、引用文献リストに記したセネガルのシェイフ・アンタ・ディオプの著書からの借用である。本書を執筆した時期には、熱狂し、アフリカの古代史発掘を自分の生涯の仕事に定めようと思い込んだのだが、その後のわが人生は、予想以上に曲りくねり、七転び八起きどころか、まさに七転八倒、未だに現地探訪の望みさえ果たしていない。
シェイフ・アンタ・ディオプにも会いたいと願っていた。彼のフランス語の著書は、その後、英語にも訳されており、アフロ・アメリカンの聖書になっている。その状況は、最近にも、日本語版の『ニュースウィーク』に載っていた。以下、そのような国際的状況の一端にふれた私自身の体験を記す。
パリ地裁の傍聴席で知り合った精神病理学者も知っていた
画像の方の原典確認については、2年と10ヶ月前に、パリの図書館の入り口まで確かめながら、未遂に終わったままである。その未遂の特別の事情は、1998年9月30日に初版を出した拙訳『偽イスラエル政治神話』の末尾、369頁に記した。日本では絶対に起きない事態なのだが、この訳本の原著者のガロディを裁き、その後に有罪の罰金刑を課したパリ地裁では、簡単に審理の日程を延長したり、追加したりしてしまうのだった。ところが、一番危険との噂ばかりか事実もあって一番安い大韓航空のそのまた安い、「私の超エコノミー切符の期日は、変更不可能だった」(同書あとがき)ので、「予定していた図書館などでの資料調査の時間がなくなってしまった」(同)のである。この不測の事態により、原典は未確認。今はただ、またのパリの訪問を夢見ながら、スキャナー読み込みのインターネット配信により憂さを晴らすのみである。
しかし、パリでは、実に面白い偶然の事態も発生した。その一方で、私は、この「大スフィンクス」の画像入りの本書の表紙を縮小してモノクロで印刷した『歴史見直しジャーナル』12号を、多数持参していた。トップ記事の見出しは「ガロディ裁判傍聴」だったのだが、人目を引く目玉として、パリで実物確認の予定の画像を使ったのである。
この12号の大部分は、実際にパリ市内を闊歩して「オルグ」に回った日本の大手報道機関の記者に、裁判の取材要請の説明用に渡したのだった。その後、パリ地裁の傍聴で知り合ったフランス人の熟年男性が私に、彼の妻が日本語を勉強していると言うので、残りの1部を渡した。彼は、それを手に持ってまま座っていた。すると、その隣に後から着席したフランス人の中年男性が、それを見て、「面白い」(C'est interessant)と呟いた。この程度のフランス語なら、私にも分かる。すぐに彼にも1部を渡すと、「ありがとう」と日本語で言う。裁判がすぐ始まる時だったので、「あとでまた」と約束し、ビールの飲める喫茶店に行った。
この市民運動家でもある中年男性の職業は精神病理学だったが、大変な物知りだった。父親がジスカールデスタン政権の閣僚だとも言う。エリート中のエリートである。しかし、日本語が分かると言っても、会話の経験は乏しく、たどたどしい。私のフランス語も、会話は特に、たどたどしい以下である。共通語の英語、ただし、彼は母国語同様になめらか、私はブロークンで、何とか意思疎通した。中心的な内容は、ガロディ裁判、つまりは「ガス室の嘘」問題だった。
その件は別途、わがホームページ「シオニスト『ガス室』謀略シリーズ」に記したが、彼は、「大スフィンクス」の画像のことも、ディオプのことも知っていた。これらは、フランスの反体制的なエリートの常識のようだった。日本の反体制派でさえ、曲がりなりにも官学の日本史を疑うのが常識なのだから、当然のことである。
ニューヨークでは
セネガル人と黒人のディオプ・ファンに遭遇
それから1年半後、私は、昨年の1999年7月の末から8月の初めに、ニューヨークで「独立国際戦争犯罪法廷」に参加した。アメリカの元司法長官、ラムゼイ・クラークが代表の国際行動センターが主催し、ユーゴ戦争に関してNATOを裁く市民集会である。
その際、偶然知り合った社会党の青年部の学生の紹介を受けて、超々安い古いホテルに泊まった。受付には黒人、中国人、イタリア人、いわゆるWASPらしい白人は、まるでいない。貴重品置き場に荷物を預け、何度も出し入れするので、親しくなった黒人の一人に、「どこから来た」と聞くと、何と、セネガル人の苦学生だった。早速、ディオプと私の著書の話をすると、大変な感激振りである。ディオプは亡くなったが、政治家としても非常に尊敬された人物だったとか興奮の面持ちで語る。その後、私の顔を見ると、「ミスター・キムラ!」と直立して敬意を表明する。
「独立国際戦争犯罪法廷」の打ち上げパーティで知り合った実に陽気な黒人の市民運動家は、元大関の小錦ぐらいの大男だった。仕事は法律事務所の調査員だそうだが、彼にも、ディオプを知ってるかと聞くと、大変に喜んだ。25年前にシェイフ・アンタ・ディオプの本をフランス語で読んで、日本語でアフリカの歴史の本を書いたと話したところ、これまた、大感激で、低音の響く大声で何度も、「こりゃ驚いた!」(Oh my god!)と叫んでは、私の背中を叩く。
日本のアフリカ史学者が「凄い人」と評価してくれたが
しかし、日本では、まだまだである。本書を出した当時から、日本の歴史学会におけるアフリカの歴史の位置付けは、ほとんど変わっていない。
経済的な進出とは裏腹に、官学の総本山の東京大学では、文学部歴史学科の共通単位に「アフリカの文化と社会」が加わっただけである。歴史学というよりも、いわゆる文化人類学の取り扱いである。もともと、東京大学の歴史学科は、最も封建的な象牙の塔の典型であった。日本が真似たはずの欧米では、世界史も自国の歴史も、単に歴史と区分するようだが、日本では明治時代以来、国史、東洋史、西洋史と区分した学閥の封建的な支配が続いている。その陰惨な支配は、今なお、厳然と、隠然と、現存している。アフリカ史の割り込む余地がないのである。
門外漢の私が、本書を世に問うに至った心境の出発点については、「おわりに」の中に簡略に記した。できるだけ一般向きを心掛けたので、特段の引用は避けたが、当時の私の気持ちを特に駆り立ててくれた著作は、『差別と叛逆の原点/アパルトヘイトの国』だった。資料リストの中の「とくに参照した本」に収めたが、この本を出した理論社は、当時、多くの貴重なアフリカ史研究書を翻訳出版していた。それらのすべてを私は、絶版の古本に至るまで神田の古本屋街で探し出して収集し、熟読した。
1960年安保闘争を大学4年で経験した私にとって、1960年代の澎湃たるアフリカ諸国の独立、その流れを凶暴に押し戻そうとする南アフリカのアパルトヘイト、さらにはそのアパルトヘイト国家に名誉白人の待遇を受けながら進出する日本の大企業、などなどの状況は、黙ってみているのが堪え難い興奮と怒りの対象であった。
当然、わが胸の内の怒りを秘めた本書は、いわゆる歴史学会からは完全に無視されたが、事情を考慮して匿名扱いとするアフリカ史学者の某氏は、人伝に「凄い人」という評価をしてくれた。その他にも、激賞してくれた先輩、知人、友人が沢山いる。ともかく、まったく無名の著者の私の本が、以下のように5,000部が売り切れ、その後も、何度もコピーを所望されているのだから、それで十分に自己満足している。
26年半前の1974年5月「ごろ」発行の事情
当時はまだ本が売れる時期だったので最初から5,000部を刷った。それが売り切れたままで、絶版になっている。鉛の活字を組んで紙型を作る時代だったし、製本の工程が一変して以後、その紙型も廃棄されているから、本当の絶版である。それでも、一応、初版と称すると、その初版の日付は、1974年5月ごろである。それから26年半が過ぎた。当時も、奥付の発行日付は、何年何月何日と記す習慣だったので、「5月ごろ」は不正確なのであるが、これにも当時の別の事情がある。
当時は、奥付の「定価」より下の部分を小さな別紙に印刷して、糊で貼り付けていた。それ以前の別紙は、まさに印税の名の由来の通りである。その別紙に一枚一枚、著者が印を押し、印税分の金額と引き換えで、出版社に渡していたのである。当時はもう、印を押す習慣は廃れていたのだが、別紙の貼り込みだけは続いていた。しかも、本書を出してくれた高校時代からの悪友、今や故人の鷹書房社長、三好煕(ひかる)は、「奥付再版」と称する絶妙な手口を使った。当時は別に珍しくなかったらしいのだが、返本の別紙貼り込み部分だけを上手に剥がして、日付を新しくした別紙を貼り直し、表紙のカヴァーを新品と取り替えて新刊書のように装い、改めて取次店に納本することができたのである。
手元に残っているのは、その「奥付再版」の分が2冊だけでなので、本当の初版発行の日付が分からない。「奥付再版」の発行日付は、ほぼ1年半後の「昭和50年11月20日」となっているのである。
しかし、その直前の最後の頁には著者の私の「あとがき」があって、その末尾に「1974年3月」と記してある。この日付と、当時の記憶を辿ってみて、製本の完成が5月ごろだったかな、と思っているのである。
以上のようなところが、本書と私の人生の節々の物語の要約である。
インターネット公開に当たっては、スキャナーによる読み込み、校正の作業を自ら行った。教育不足のスキャナーによる誤読の処理、原著のミスプリ校正と同時に、文章の一部を、最近の私の好みに合わせて直したが、主張に間違いがあったり不十分だった部分については、原文を変えずに注を加えた。その方が、これだけの推理は26年半前にも可能だったのだと主張する上で、かえって意味があると思うのである。