書籍紹介:『教育基本法「改正」を問う−−愛国心・格差社会・憲法』 |
教基法改悪反対の闘いは、私たちが教育の主権者であり続けるための闘い |
『教育基本法「改正」を問う−−愛国心・格差社会・憲法』
大内裕和・高橋哲也共著
発行 白澤社
発売 現代書館)
定価1000円+税
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『教育基本法「改正」を問う−−愛国心・格差社会・憲法』は、第164通常国会終盤、教育基本法改悪法案が採択されてしまうのかどうか最大の焦点になっていた今年の6月の始めに緊急出版されました。「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」の呼びかけ人である大内裕和さんと高橋哲哉さんが行った対談と、大内さんによる自民党「改正」法案の全面的な批判という2本立てで構成されています。
対談は、教基法改悪の本質を集中的に表す「愛国心」と「格差社会」、そして憲法改悪との密接な関係の3点に絞って論じられており、二人が呼びかけ人として3年間にわたってかかわってきた反対運動の経験や、教育・思想についてのそれぞれの研究活動をもとにした豊かな内容となっています。
通常国会では、教育基本法改悪法案は、共謀罪法案、国民投票法案もろとも、激しい反対の声によって可決することができずに継続審議に終わりました。しかし、小泉政権を継承して誕生した安倍政権は、教育基本法改悪法案を最優先課題とし、今臨時国会で成立させる強硬な姿勢を示しています。安倍首相は、政権の課題として「教育の再生」を前面に掲げ、そのための「教育再生会議」の発足を早々と打ち出しました。
今臨時国会が「教育基本法国会」となるのは間違いありません。教基法改悪法案の採択を許すかどうかは、「戦争できる国造り」へ日本の社会の構造を変えていくことを許すかどうかの決定的な分かれ道です。それはまた、高橋さんの言葉を借りれば、「せっかく手にした主権者としての地位をわざわざ自分から返上するのか、それともここで、自分たちが主権者であることをはっきりさせるのか」の重要な闘いです。国会での与野党の攻防、10月から相次ぐ国政選挙など、中央政治の舞台では様々な波乱要因がありますが、いずれにしても、その行方をきめる決定的なものは全国の大衆運動の力です。「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」は、11月12日に全国集会を呼びかけています。
教育基本法の問題は、教職員はもちろん、それ以外の職業の人も、学齢期の子どものいない人も、この社会のすべての人に関わる切実な問題です。戦争と平和、日本の今後の進む道、そして個々の人の生き方や子どもたちの未来にまで関わる重要な問題です。そうしたことが、この本では明らかにされています。
一人でも多くの人々が教育基本法改悪の危険性を理解し、反対の声をあげることが必要です。私たちはそのために、改めてこの『教育基本法「改正」を問う』を紹介します。ここでは第一章の二人の対談を中心に、特に「愛国心教育」がもっている危険性に重点をおいて述べたいと思います。すでに触れたように、この本は、第一章と第二章を通じて教育基本法「改正」案をトータルに批判しています。皆さんが是非この本を手にし、読まれることを願います。
2006年10月10日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局
教育基本法の現代的意義を示した、9.21「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟違憲判決
この教育基本法が今の現実の教育の中で、学校現場の中で持っている意味を決定的な形で、誰の目にもわかるように明らかにしたのが、9月21日の「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟違憲判決でした。この判決は、教職員は日の丸の掲揚時には起立しなければならない、君が代を斉唱しなければならない、音楽教員はピアノ伴奏をしなければならないなどとする内容の東京都教委による「10.23通達」が、日本国憲法に違反し、教育基本法に違反することを全面的に認めたものです。そしてそれを拒否したことを理由に、教職員に対して「解雇」や「減給」などの処分することは違法であることを明らかにしました。すなわち、現行の教育基本法第10条は、政府や行政機関が教育に対して「不当な介入」をする事を禁止しており、都教委が日の丸や君が代を教職員に強制することは、「不当な介入」を行うことであると結論付けたのです。
※「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会
http://homepage3.nifty.com/yobousoshou/index.htm
※[署名事務局声明]日の丸・君が代強制は憲法違反 東京地裁で画期的判決!(署名事務局)
そもそも教育基本法は、教育を天皇のための臣民を作り出すものとした教育勅語を否定する理念法として生まれた法律です。ですからその中には、国家や政府が最低限守らなければならない理念が書き込まれています。すなわち、国は何をしなければならず、何をしてはならないのか、大内さんの言葉を借りれば、「国は教育の条件を整備する義務を負い、教育の内容に口を出してはならない」。教育は主権者である国民のものであり、国は自分の都合の良い教育内容を学校に押しつけてはならない、「不当な介入」をしてはならない−−これが教育基本法の最大の眼目なのです。そしてこれは一般的抽象的な条文ではなく、戦後の教育の在り方を根底において規定してきた決定的に重要な原則です。戦後の教育はこれを巡って攻防を繰り広げてきたといっても過言ではありません。教育現場、教職員組合、市民運動は、この教育基本法を盾にして、行政・政治による支配・介入から学校現場を守ろうとしてきました。
9.21の判決は、まさに教育基本法のもつこのような意味を明らかにしました。
逆に言えば、支配層は、教育内容に国家が介入できない、国民に分け隔てなく平等に教育を受けさせなければならない、このような教育基本法の規定が邪魔で我慢ならないのです。それが教基法改悪の衝動として生まれています。
“中身はよく知らないが、教基法「改正」には賛成”−−こんな状況をうち破らなければならない
私たちは、事実をまず知ること、知らせることが重要です。この本の冒頭では世論調査において、教育基本法についてその内容を知らない人が8割もいるにもかかわらず、教育基本法の改正・見直しに賛成する人が多いということに対する問題提起があります。確かに、教育基本法は、「教育の憲法」あるいは「準憲法」などとと呼ばれていますが、日本国憲法、特にその第9条などと比べても、ほとんど人々に知られてこなかったというのが現状です。内容について知らされていないのに、変えた方がいいという人が多いのはなぜなのでしょうか。大内さんは、今の教育に対して不安を持ち、なんとか教育を良くしたいという気持ちが多くの人にあるもとで、なんとなく教基法に問題があると宣伝されるとつい飛びついてしまうという事情があると指摘しています。
安倍氏は、ライブドア事件が起こった時にも、長崎で小学校の同級生による殺人事件が起こった時も、その原因は教育が悪いからであり、したがって教育基本法の「改正」が必要であるという論に結び付けています。
あるいは、このような露骨な「教育基本法悪玉論」ではないにしても、時代も変わったので現代に合った「改正」が必要だというような宣伝が行われています。実際、通常国会での教育基本法に関する特別委員会の会議では、「教基法悪玉論」は後景に退き、この「時代変化論」が前に出ました。あまりにもでっち上げ的な悪玉論はまともな議論に耐えられなかったのでしょう。しかし、「時代変化論」にしても、時代が変わったことによってどのように教育基本法が古くなったのか、どのような点が時代に合わなくなったのかについては全く説明がなされていません。
にもかかわらず、「教育の荒廃は教育基本法が悪い」「時代にあっていない」というようなデマがあおられています。“中身はよく知らないが、教基法「改正」には賛成”−−こんな状況をうち破らなければなりません。
教基法改悪の目的は、新自由主義と国家主義による社会改造
大内さんは、対談の中で、現在狙われている教育基本法の改悪が、臨時教育審議会(臨教審)に始まる20年間に及ぶ「教育改革」の「総決算」であり、日本国憲法改悪のための前段階であると語ります。そして政府と財界がこぞって教育基本法の「改正」を追及しようとするのは、新自由主義と国家主義を完成させるためであり、その方向に社会全体を改造するためであると捉えます。
新自由主義と国家主義――「自由」と「統制」。この二つは一見互いに相容れない正反対の政策のように見えます。しかしながら、公的領域を私有化して自由競争の名の下に弱肉強食を是認させる新自由主義のもとで広がった社会的な分裂や階層化の問題=いわゆる格差問題を覆い隠すためにも、国家主義的な愛国心教育が必要とされてくるというのです。つまり、国の政策によって底辺にたたき込まれても、それを甘受し自分が生きる国を愛する心を養うのです。
大内さんは、新自由主義にとってのメルクマールになる事件として1985年のプラザ合意をあげます。先進諸国がドル高是正のために為替市場へ協調介入することを合意した1985年のプラザ合意以降、経済のグローバル化を推し進める新自由主義が本格的に始まりました。そして、グローバル化した経済競争に勝ち抜くために、これまでとは違う労働力を財界自身が求めるようになって来ました。
すなわち、これまでのように税負担をして、学校教育で均質な労働力を養成するのではなく、一部のエリート(「勝ち組」)と多くの低階層の労働力(「負け組」)とに分けていくことを、労働市場でも行ってきたし、それをこれからの労働力を育成する教育制度にも求めるようになったのです。
そしてまた、1985年はといえば、中曽根首相が靖国神社に公式参拝を行なった年でもあります。このころから、日本において、新自由主義と国家主義とが手を携え、その歩みを加速化していきました。
高橋さんは、その意味で、80年代後半をひとつのターニングポイントとして指摘します。80年代の中曽根政治は、国鉄の分割・民営化、電電公社の民営化という形で、公的領域の私有化を次々と行ない、そして同時に、靖国参拝や防衛費の対GNP比1%枠突破という国家主義を進行させてきました。そして90年代にかけてソ連と社会主義陣営の崩壊、総評の解体、社会党をはじめとする護憲勢力の弱体化などによって、小泉政権が中曽根政権以上のことができる状況が作り出されたといいます。
愛国心を法律で定めるという不自然
教育基本法について、メディアで最も注目されているのは、「愛国心」の問題です。今年4月に国会に提出された教育基本法「改正」案には、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が「教育の目標」の中に盛り込まれました。
高橋さんは、やはりこの「愛国心」は決定的に重要であり、靖国問題、新憲法草案、教基法などの動きが「愛国心」という言葉で全部つながっていると指摘します。
しかし、愛国心がいいことか悪いことかという議論になっては、この教育基本法の「改正」で何が狙われているのかという本質から目をそらされてしまいます。なぜなら、問題は、「国を愛するのにふさわしい態度」というものを決めるのが、国と教育行政の側であるということだからです。そこがこの教基法「改正」案の核心です。
「改正」論者たちは 愛国心は自然なものである、と言います。しかし、自然にわきあがってくるはずのものを法律で定め、例外なくすべての子どもたちに、教育の目標として「国を愛する態度」を教え、「達成度」を評価することは、全く不自然、異常というほかありません。「愛国心」が教育目標として定められたら、子どもたちは「愛国心」を一斉に教えられ、習得し、より高い評価を獲得するために、「愛国心」をもっていることが教員に伝わるような振る舞いをしなければならなくなるでしょう。「日々の授業の中でそのことが問題になる。四六時中その教育の中味が、『我が国と郷土を愛する態度』を養うという目標にかなっているかどうかという観点から判定されることにな」るということなのです。
しかも「改正」案では、これまでにはなかった、幼児教育、生涯学習、私立学校、大学、家庭教育、地域といった新たな項目が設けられ、学校教育の外にある生涯学習や家庭や地域にまで網をかけて政府が意図する教育目的を貫徹させることが狙われています。こうした社会全体にわたる領域にまで、「我が国と郷土を愛する態度」が強制されることになってしまう、いわば社会全体の改造が狙われているのです。
※大内さんは、私たちが6月3日に開催した講演会では、日本が模範としているイギリス教育改革の「教育水準局」になぞらえ、「愛国教育の水準局」なるものができるという想定で、以下のように愛国心教育の危険性を訴えた。「『愛国教育の水準局』ができて、“天満橋付近ではどうも愛国教育の水準は低い”とかなった場合どうするんですか。・・・愛国教育の水準を競い合う。どの都道府県が愛国教育にすぐれているか。これに学校選択が結びつければ 親たちも子どもたちも愛国教育の水準の高い学校を選ぶでしょう。・・・生まれたときから生涯に渡って、『我が国と郷土を愛する態度を養いなさい』なんですよ。つまり、教育の全領域が、新自由主義と国家主義の支配の下におかれるのです。」〜(署名事務局主催「憲法改悪、教育基本法改悪に反対する連続講座」第4回報告“愛国心”と“能力”で子どもを切り捨て・序列化)(署名事務局)
戦前の修身試験問題集は、教基法「改正」案の愛国心条項とうりふたつ
二人は、条文に「国を愛する態度」とともに「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」が含まれていることが偏狭なナショナリズムに陥る歯止めとなっているという推進側の反論を否定します。そこで高橋さんは、戦前の終身教育の解説書『受験 修身科講座』(草場弘 大明堂書店 1938年)をとりあげます。なんとその付録には修身の試験問題集がついていて、「国家主義の精神と国際協調の精神とは対立するものなるや否や」というような問題があります。答えに「対立するもの」と書いたら×です。そして対立しないという回答の解説として、日本が国際連盟を脱退したときの天皇詔書「我が国は国際平和の確立を求めて止まざるものであり、国際協力親善を望んで止まぬのである。」などの引用がなされていることが説明されます。まさに愛国心の試験問題に対する「模範解答」が掲載されているのです。
国を愛するにふさわしい態度とはなにか。愛国心は一般的抽象的にではなく、極めて具体的・政治的に問題にされるでしよう。高橋さんは言います、「イラク戦争を支持した小泉政権を支持するのが愛国心」なのか、「戦争に反対することこそ愛国心」なのか。「軍国主義時代に国の命令に従って戦場に行った人が愛国者」だったのか、「戦争は亡国に導くだけだから絶対に反対だといって・・・捕らえれて弾圧された人が真の愛国者」だったのか。
天皇制軍国主義の下で、修身教育の模範解答は準備されていました。小泉政権の下での模範解答、安倍政権の下での模範解答、およそ新自由主義と国家主義の政権の下での「愛国心教育」の模範解答はどうなるのか。愛国心が評価されることの恐ろしさをあらためて考えずにはいられません。
※asahi-net.or.jpというホームページには、1944年の当時、尋常高等小学校に通っていた少年の修身科の試験と回答が掲載されている。たとえば、以下のような問と答えがある。(問)神鷲精神について あなたはどんな所にこの精神を生かしてゐますか? (答)1-よく勉強し 寒さやあつさに勝って 大きくなって必ず米英をうちたほし あくまでも日本を守るといふ精神です」http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nen5.html
教育基本法で、あいまいな「国」を入れる危険
二人はさらに、愛する対象とされるのは「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土」であって統治機構すなわち国家や政府ではないというもうひとつの推進側の反論も批判します。
戦前の愛国心も、決して国家を愛せといったわけではなく、「万世一系の国体、比類無き伝統に貫かれた日本という祖国、これを愛せよ」と言われたのです。まさに、「改正」案の文言とそっくりです。高橋さんは、自衛隊の統合幕僚会議議長を務めた栗栖弘臣氏の、自衛隊が守るべき「国とは、我が国の歴史、伝統に基づく固有の文化、長い年月の間に醸成された国柄、天皇制を中心とする一体感を共有する民族、家族意識である」(『日本国防軍を創設せよ』)という言葉を紹介し、彼らがどのように「我が国」というものを捉えているのか、とても示唆的だといっています。
※高橋さんは、日本の伝統と文化をはぐくんできたのは、「我が国と郷土」ではなく日本列島に居住してきた住民であること、その中には朝鮮系の人が寄与した部分や外来の宗教が寄与した部分があることに言及し、条文には史実として間違いがあることを指摘しながら、このような小さな条文の中にもピープルと国との関係の転倒が表れていると批判する。
しかし、問題はむしろ別のところにあるといいます。すでに述べたように教育基本法は、準憲法的な性格を持っており、国家権力が何をすべきで、何をしてはならないかを定めた法規=国家権力拘束規定であるはずです。むしろ国=統治機構=国家権力を厳密に規定し、それをどう規制するのかを明確にすべきなのです。ところが、「我が国と郷土」のように、解釈する人によって意味が違ってくるような漠然とした規定を入れることそのものが重大な問題です。しかも、国家権力を規制するべき法律で、「国を愛する」ことを規定するとは、近代法の常識から大きく逸脱した異常な法律なのです。
教基法改悪は、道徳の法制化、「心のノート」の法制化
「個人の価値」の尊重から国家優先の構造への転換は、「改正」法案第二条の変化を見ると一層良く理解できます。大内さんは、第二章「教育基本法『改正』法案の批判的考察」の中で、このことを詳しく述べています。
「改正」法案の第二条(教育の目標)では、「豊かな情操」、「道徳心」、「勤労を重んずる態度」、「公共の精神」、「我が国と郷土を愛する」態度など数多くの徳目が、5項目にわたって並べられています。その徳目は教育勅語を超える20に達します。つまり、「改正」法案の「教育の目標」は「人格の完成」の具体的中身を国家が定め、強制する内容となっているのです。国家が守らなければならない原則としての「教育の方針」から、個人が達成しなければならない徳目=「教育の目標」へと、第二条は180度その原理を変えているのです。
そして大内さんは、「教育の目標」の5項目が、現行学習指導要領の「道徳」の「第二 内容」と深くかかわっていると指摘します。すなわち、教育の目標の1と2の項目が、「道徳」の「1 主として自分自身に関すること」、3の項目が「2 主として他の人とのかかわりに関すること」、4の項目が「3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」5の項目が「4 主として集団や社会とのかかわりに関すること」にそれぞれほぼ対応しているのです。さらに、この4本の柱は、道徳の補助教材『心のノート』にも「4段階の心」として位置づけられています。
つまり、教育基本法「改正」案は、「道徳」の法制化であり、「心のノート」の法制化なのです。
2002年に、「我が国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情を持つとともに、平和を願う世界の中での日本人としての自覚を持とうとする」という評価項目を設けた「愛国心通知表」が福岡で明らかになりましたが、子どもたちの心を評価するという動きは、すでに始まり拡大しています。子どもたちの学習に対する習熟度を評価するだけではなく、近年、「新しい学力観」の導入によって、「数や図形に親しみを持とうとする」などという項目が堂々と小学校の通知票の中に登場し、子どもたちの関心・意欲・態度を評価するという状況が生じているのです。
教育活動を通して「関心・意欲・態度」を評価するということは、子どもたちの内面に関わる事柄を点数化することになります。点数化を行おうとすれば、望ましい「関心・意欲・態度」のあり方を設定することが必要となります。子どもたちは望ましい「関心・意欲・態度」へ自己を適合させることを強いられ、その程度によって点数がつけられるのです。つまり内面価値の画一化と序列化が進行します。大内さんはこのような危険性を指摘します。この延長線上で「国を愛する心」をはじめ、「教育の目標」に盛り込まれた数多くの徳目が、価値の画一化と序列化を一層推し進め、子どもたちの内面を強固に統制することになります。1998年に出された学習指導要領ではすでに、「国を愛する心を養う」「日本人としての自覚を養う」などという文言が入れられています。従って、愛国心が教育の目標とされてしまえば、これらが一般化し、評価・統制が加えられることはまちがいありません。
※学習指導要領 新旧対照表(大阪書籍)http://www.osaka-shoseki.co.jp/kyoiku_zenpan/pdf/sho-dou.pdf
新自由主義――それは、少数の強者の自由が拡大し、多数の弱者を切り捨てる社会
2000年代にはいると、先ほど述べた80年代をターニングポイントとした公的領域の解体が社会の全領域に拡大し、その影響は、顕在する格差として、多くの人の目に明らかになってきました。これが小泉政権の構造改革にによって加速されたのは言うまでもありません。その中で、教育格差のレベルがいっそう進展してきたのです。
いまでは大多数の人々にとってはエリートを目指すどころか、標準的な教育を受けること自体が困難になってきていて、平均的な教育を獲得するためにも競争しなければならない段階に入っています。それは、かつての男性労働者で正規雇用が一般的であったのに、現在の20歳代、30歳代では、派遣労働やアルバイトなどの非正規雇用=不安定雇用が半数を占めている状況と対応しています。しかし、経済界においては、このような雇用形態こそが、経済のグローバル化に対応して、国際的な競争力をつけるために必要だというわけです。新自由主義の「自由」とは、少数の強者の自由を拡大する制度に他なりません。
「改正」案の与党中間報告では、「国民は、能力に応じた教育を受ける権利を与えられ」と、現行法にある「すべて国民は、ひとしく」の「すべて」と「ひとしく」が欠落させられていました。最終案では復活しましたが、現行法の「能力に応ずる」が「能力に応じた」に変えられています。極めて巧妙ですが、「能力の発達の必要に応ずる教育」という最大限の教育機会を保障する表現から、子どもの能力のあるなしに応じて行政が提供する教育機会の配分を変えるという表現に変えられていると大内さんは指摘します。
教育格差を拡大し、真の意味での学力を低下させる新自由主義の教育改革
日本経済団体連合会(経団連)は、2006年4月に出した「義務教育改革についての提言」で、全国学力調査の結果を学校ごとに公表することを求め、しかも小・中学校の「学校選択制の全国的導入」を提案しています。さらに、学校の運営交付金をそのテスト結果によって配布することまで提言しているのです。
大内さんは語ります、「実は義務教育のところでも『その水準を確保するため』という文言が入っているのですが、これは来年度(2007年度)から文科省が全国で実施予定の全国学力テストというものと深くかかわっています。いまの学力向上キャンペーンの中で、小学校六年生と中学三年生に一斉学力テストをやって、その点数を公開した場合に、義務教育段階での新自由主義、つまり競争がいっそう強まることが予測されます。そのことがこの『改正』案ではまったく抑制されないどころか、それを推進する方向で中身が書かれています。」
成績が悪いと評価された学校は、予算の配分も減らされ、義務教育段階で、各学校の間でとてつもない格差が出来上がってしまいます。学校が自由に選択できるといっても、現実には、それを行使できる条件のある人にしか、自由はないのです。子どもの教育の機会が、出身階層、地域によって左右されてしまいます。
高橋さんは、義務教育の段階からの「負け組」にならないための競争、とくかく評価を上げるための競争が、教員や子どもたちが「思考力」や「判断力」を育てる余裕を奪い、「自分の頭で考える」という真の意味での学力、知的な力を低下させると危機感を表します。そして、これは「国策」として誤っている、と厳しく批判します。
教基法「改正」案が則っているのは、平和憲法の精神ではなく、戦争ができる自民党新憲法草案の精神
教育基本法は、もともと日本国憲法の理想を実現するための教育理念を定めたものですから、当然、憲法とその内容が不可分一体のものです。したがって、どちらかを変えようとするなら、当然もう一方が連動してきます。
今回の「改正」法案の前文には「日本国憲法の精神にのっとり」という文言が残りました。しかしながら、この精神とは平和憲法の精神ではなく、「改悪された日本国憲法の精神」に他ならないのです。
自民党は新憲法草案で、9条をはじめとして現行憲法の性格そのものを変質させようとしています。
新憲法案前文に「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概を持って自ら支える責務を共有し」という文言と、そして教基法「改正」案の中に「わが国と郷土を愛する態度」が書き込まれたこととは、密接に関係しています。
大内さんは語ります、「『我が国を愛するとともに』、『国際社会の平和と発展に寄与する』態度を養う教育とは、『自衛軍』の活動を担い、支える『国民』を育成することを意味するのではないか。・・・教育のあらゆる場所で戦争放棄の『平和』ではなく、『国際社会の平和と安全』を確保する自衛軍の活動が『正義』として教えられる。」
「9条改憲へ向けて『国民精神』を育成し、総動員する体制をつくることが、教育基本法『改正』法案の最大の目的といえるだろう。」
なお、「与党案以上に国家主義的な民主党案」という<追記>が対談の最後に掲載されています。民主党が2006年5月12日に与党案への対案として「日本国教育基本法案(新法)要綱」を発表しましたが、それは与党案以上に国家主義的色彩の強いものであることが指摘されています。日本会議などの保守系団体が求めてきたもの−−愛国心、宗教的感性、そして「不当な支配に服することなく」の削除−−この三つをすべて含むものになっているのです。
主権者を育てる教育から、国家戦略の道具としての教育へ――国民主権を侵害する「改正」法案
この本の後半、第2章では、現行の教育基本法と、教育基本法「改正」案とを比較対照しています。その「改正」の本質は、教育を国民の手から取り上げ、「平和国家としての日本をつくる主権者を育てるための教育」を、「国策としての教育」、「国家戦略の道具としての教育」にかえてしまうことにあると言うことができるでしょう。
例えば、教育基本法の十条を見てみましょう。現在の条文では次のようになっています。
第十条(教育行政)
教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負って行なわれるべきものである。
二 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわなければならない。
この条文は、教育内容に対して、教育行政が介入することは「不当な支配」であり、教育行政は教育の目的を遂行するための「諸条件の整備」を行なうこととしています。教育行政からの教育内容の自由を定めると同時に、教育行政の役割を明確に限定しています。戦前の教育が政府・行政など国家権力によって強固に支配されていたことに対する強い反省に基づいた条文になっています。
一方、「改正」案では次のようになっています。
「改正」法案第十六条(教育行政)
教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互協力の下、公正かつ適正に行なわれなければならない。
この「改正」法案では、確かに「教育は、不当な支配に服することなく」という文言が残され、一見内容が変わったようには見えません。ところが、その後の「国民全体に責任を負う」ということが省かれ、その代わりに法律で決めさえすれば、どんな教育内容でも可能となる文言が入れられています。さらに、「教育行政は」という第二の主語が登場することで、教育=教育行政と捉えられ、法に基づく行政の介入が合法と判断される一方、教職員組合や市民団体の運動が、あるいは子どもの保護者が教育に対してもの申すことを、「不当な支配」と捉えられることになってしまうのです。
さらに、改正法案では新たに第十七条(教育進行基本計画)が定められています。この「教育振興計画」を策定するのは「政府」とされ、国会へは報告だけが求められるものとなっています。政府は国会審議をすることなしに教育内容を定めることができるのです。この「計画」は予算措置を伴うため、教育内容への介入・誘導は一層容易になります。
大内さんは、「改正」案のすべての条文について検討し、「教育基本法『改正』法案は、新自由主義・国家主義の帰結としての九条改憲を準備する内容となっている。九条改憲へ向けて『国民精神』を育成し、総動員する教育体制をつくることが、教育基本法『改正』法案の最大の目的であるといえるだろう。」と結んでいます。
この「改正」案は、まさに、新自由主義・国家主義を国策として徹底して推し進めるものであり、そして、改憲への道を切り開くものなのです。
教基法改悪反対の闘い、日の丸・君が代強制に反対する教職員の闘いは、教育の主権を行使し、獲得するための闘い
対談は最後に、「教育の主権者であり続けるか、主権者であることをやめるかが、いま問われている」という問題提起をします。
高橋さんは、歴史的背景から、日本の主権者(国民)は、自らが主権者であるという意識が弱いと指摘し、日本国民は主権者になる経験を経なければならないと主張します。そして大内さんは、「日の丸・君が代」の強制に対して「不起立」や「不伴奏」という抵抗を行って処分されている教職員は、現行教育基本法、憲法の下で主権を行使しているのだと力強く語ります。教育行政が教育の中身や内容を支配しようとしているのに対して、教育の主権が現場の教職員、市民の側にあることを表明しているのです。
その意味で、9月21日の「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟違憲判決は、教職員が、そして市民が教育の主権者であることを憲法と教育基本法に基づいて明確にしたものであり、闘いの重要な金字塔ではないでしょうか。そしてその金字塔をまもり、教基法反対の闘いを進めていくことが、私たちが主権者であり続けるための闘いなのです。
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