日米同盟のグローバル侵略同盟化に向けた条件整備
集団的自衛権行使「個別研究」をやめよ!
−−集団的自衛権行使解禁反対の闘いは、憲法改悪阻止の闘いの前哨戦−−


はじめに−−イカサマ諮問会議による世論誘導を許すな

(1)安倍首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二前駐米大使)は、6月29日に第三回会合を開き、ミサイル防衛システムにおいて、米本土を狙う弾道ミサイルを日本が撃ち落とすことは可能であるとの意見が大勢を占めたことで、集団的自衛権行使を容認するよう提言する方針を打ち出した。座長の柳井は7月10日の朝日新聞とのインタビューでも「現実に合わない憲法解釈はもうやめるべきではないか」と語り解釈改憲をもう一歩踏み出すことを公然と主張している。6月11日の第二回会合では、公海上での米艦防護のための自衛艦の武力行使の必要を求める意見が大勢となっている。懇談会は月に一度以上のペースで会合が開かれ、集団的自衛権行使解禁=解釈改憲への動きがここに来て異例の急ピッチで進んでいる。秋の臨時国会前にも報告書を出すという。
※集団的自衛権「行使容認」報告の意向 懇談会座長が見解(朝日新聞)
http://www.asahi.com/politics/update/0710/TKY200707100466.html?ref=doraku
※安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(官邸)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou/index.html

 彼らの提言の中身の批判に入る前に、このような諮問会議自身がデタラメであることを問題にしなければならない。前出の柳井俊二をはじめ岡崎久彦や葛西敬之、中西寛、坂本一哉など懇談会のメンバー13人の内12人までもが従来から集団的自衛権行使を積極提言している改憲論者、主戦論者たちばかりである。「中立的な有識者」による検討というような性格はみじんもない。最初から決まった「集団的自衛権行使解禁を提言」という結論を出すために右翼ごろつき連中を集めたにすぎない。しかし、いかにイカサマ会議であろうと、議論の結果や懇談会メンバーの発言をマスコミが垂れ流す報道そのものが解釈改憲のための世論づくりになってしまう。全く許し難いことだ。この危険な動きを徹底して批判し、封じ込めなければならない。
※集団的自衛権の行使、米艦攻撃で容認大勢・有識者懇(日経新聞)
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070611AT3S1101O11062007.html
※米向けミサイルも迎撃 容認で一致 集団的自衛権有識者会議(北海道新聞)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/35096.html


(2)同懇談会が直接目的としていることは、次の4ケースに即した集団的自衛権行使の容認化である。
@共同訓練などで、公海上で行動をともにする米艦船への攻撃に対する反撃
A米国に向かう弾道ミサイルの迎撃
B国際平和活動をする他国部隊への攻撃に対する警護
C国際平和活動に参加する他国への後方支援

 これらは、一見相互の関係がなく、数あるケーススタディの中の4つのパターンを列挙したにすぎないかに見える。しかしこの4つのケースこそ、米国が、自国の軍隊の過剰展開からくる危機的状況を背景に、日本政府と自衛隊に強く要求しているケースであり、安倍と支配層もまた、日本がアメリカのグローバルな侵略戦争に加担するために、目下のところ追求している最優先課題なのである。別の見方をすれば、米国や日本のグローバル企業の権益防衛のために、日米が共同して「世界の憲兵」を担うという共通の利害の産物なのである。したがって、安倍首相によって集団的自衛権の事例研究が提起されたことは、政権が親米的右翼的タカ派的人脈によって構成されているというだけでなく、日米軍事同盟が、集団的自衛権の行使をも要求するような新しい段階に入っているということを意味しているのである。
 本稿では、個別事例としてかれらが想定する4つのケースの意味を具体的に明らかにした上で、日本国憲法についての明文改憲と解釈改憲という点から、集団的自衛権の個別研究が従来の憲法解釈を根本的に変える危険性を持っているという側面を強調して批判したい。その中で、安倍と日本政府が当然のように使っている「集団的自衛権」なるものが決して自明のものではなく、米によって歴史的に作られた、侵略のための概念であることを明らかにしたい。
安倍政権:「主張する外交」と「血の同盟」−−対北朝鮮恫喝・挑発外交と集団的自衛権の解釈変更−− (署名事務局)

2007年7月17日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局



[1]米軍再編とロードマップが要求する集団的自衛権の行使容認

(1)第一回諮問会議の冒頭で安倍は、次のように述べて集団的自衛権行使解禁の個別研究の意義を語っている。すなわち、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の核開発に対する対抗、弾道ミサイル防衛構想への参加、ブッシュが全世界で行う対テロ戦争への協力などによって、「日米同盟」をより効果的に機能するようにしなければならない。そして同盟の強化には強固な信頼関係が不可欠である。自衛隊と米軍艦船の共同行動において、米軍の艦船が攻撃されても自衛隊の艦船は何もできないという状況が生じてよいのか、と。
 諮問会議が検討課題とする4ケースを具体的情勢と絡めて考えればその危険性は浮き彫りになる。米軍再編と在日米軍基地強化の下で、米軍の統一的指揮に基づいて自衛隊が米軍の一部であるかのように一体化していくこと、「米本土を防衛すること」が日本の利益であるように意識改革をし、アメリカのミサイル防衛システムに日本を組み込んでいくこと、「海外派兵」を本来任務に高めた自衛隊が、戦地で米軍と軍事行動を共にし武力行使を自由に行うこと、同時に「武力行使と一体化しない」という制約を受けることなく、武器や弾薬など戦闘物資を自由に前線部隊に供給できること等々が狙われているのだ。


(2)安倍政権によって執拗に追求される集団的自衛権の行使容認の動きは、直接的には、昨年5月「安全保障協議委員会」において、アメリカ軍の地球的規模の再編下における在日米軍の再編とその行程表(ロードマップ)に日米両政府が同意したことを出発点としている。これは、1996年に始まる日米安保の新時代の総仕上げの段階に入ったことを意味する。1996年の安保共同宣言と1997年の新ガイドラインは、「周辺事態」対処など日本の専守防衛を踏み外す日米軍事同盟の強化と日本における有事体制の構築を要求した。しかしこれらは、あくまでも集団的自衛権行使には踏み込まないことを条件としていた。だが、ロードマップを作成した同協議委員会の共同声明は次のような諸点を確認している。@日米同盟は日本の安全及びアジア太平洋地域における平和と安定にとって不可欠の基礎であり、地域における米国の安全保障政策の要である。この強力なパートナーシップはグローバルな課題に対応する、ということ。A新たな脅威が世界中の国々の安全に影響を及ぼす共通の課題を生み出し、二国間のますます緊密な協力関係に留意すること。B弾道ミサイル防衛・情報協力・自衛隊と米軍の相互運用性の向上を図ること。Cこれらの再編の実施により同盟関係における協力は新たな段階に入るものであること、等々。これらは直ちに集団的自衛権の行使容認へとつながるものである。特に最後のCは要注意だ。
※集団的自衛権の行使が公然とアメリカからの要求として突きつけられたのは、2000年11月のアーミテージ報告である。アーミテージ報告は沖縄基地再編や有事法制の制定などの提言と合わせて、集団的自衛権の行使容認を迫っている。そこでは「日本の人々だけが決めうる問題だ」としながらも、「日本の集団的自衛権に対する禁止は同盟の協力を制約して」おり、その「禁止を取り去ることはより緊密でより効果的な安保協力を可能とする」と提言している。その内容は、「平和維持と人道支援活動への全面的参加」のためPKO法の制約を取り払うこと、日米のミサイル防衛協力の範囲を広げることなど、まさに今諮問会議が問題にしている中身である。
 2007年2月には第二次アーミテージ報告が出されたが、そこでは日本の対テロ戦争への協力やイラクへの自衛隊派兵などを高く評価しながら、日本に対して武器輸出三原則の見直しや海外派兵に関する恒久法の制定、さらには「憲法改正」に関心と期待を表明するなど一層踏み込んだ内容となっている。


(3)米軍再編は、主として「不安定な弧」と称される朝鮮半島から中東までの地域に対するアメリカ軍の迅速な軍事行動の展開を目的とするものである。政府は昨年末に、防衛庁を防衛省に昇格させると共に、「国際平和協力業務」を「付随的任務」から「本来任務」に格上げした。PKOやイラク派遣が自衛隊の「付随的任務」であったものが、本来任務とされたことは、自衛隊の軍事行動が、「本土防衛」ではなくますます海外に向けたものであることを明らかにした。これは、イラク派遣などがその都度の臨時的、限時的法律によってなされてきたのに対して、今後は恒久的な海外派兵法に変えられることを示している。
 安倍内閣は、グローバル戦略に基づいて、初めてNATO首脳会談において、関係強化を提案した(昨年11月)。オーストラリアとはこれも初めて安保共同宣言(今年3月)に署名した。今年5月の日米保障協議委員会は、「同盟の変革:日米安全保障の及び防衛協力の進展」と題する共同声明を公表し、日米とNATO・オーストラリア・インドとの戦略的関係強化・基地再編の促進・ミサイル防衛(BMD)に関する協力強化、等を明らかにした。特に、BDM促進協力の必要性について強調されているのが、その特徴である。
まさに、日米同盟を、米英同盟型の軍事同盟へ、グローバル軍事同盟の不可欠の一部へと発展させることを目指しているのである。


[2]諮問会議が検討する4つの個別案件は、すべて米軍が想定する焦眉の具体例

 以下、諮問会議が問題にしている4つのパターンを具体的にみてみよう。

@米艦船への攻撃に対する反撃
 「公海上で行動をともにする米艦船への攻撃に対する反撃」。この「公海上で行動をともにする米艦船」とは、北朝鮮や中国に対する偵察活動や軍事挑発を日米艦船が共同で行うことを意味する。これはアジア・太平洋において、北朝鮮を当面の最大の脅威、中国を将来における仮想敵として設定し、日米軍事作戦の統合化を推し進め、指揮、統制、通信、情報、監視、偵察など共同行動のすべてに渡って日米で一体化させることを条件にしている。この4月には、太平洋からインド洋までを責任範囲とする陸軍第1軍団司令部の座間移転が行われ、海(横須賀)、空(横田)を含めた3軍の日米統合司令部が置かれている。沖縄での辺野古基地建設事前調査の強行、横須賀の原子力空母母港化、千歳・三沢・小松・築城・嘉手などの自衛隊基地での日米共同訓練の実施等もこの枠組みの中にある。このような日米の軍事一体化、指揮の統一化のもとでは、米艦への攻撃に対して自衛隊が反撃するというのは不可欠の前提となるのである。
 もちろんこれは日米艦船だけの問題ではない。陸上自衛隊と米海兵隊との中国に対する露骨な島嶼上陸演習も行われている。北朝鮮機や中国機に対する、航空自衛隊機による挑発的な緊急発進も多発している。艦船だけがOKで陸や空がだめだということにはならないだろう。総じて、米軍の統一的指揮の下で陸海空自衛隊が米軍の手足となって行動することになるのである。
 このような解釈変更が行われれば、9.11後に、アフガニスタンに向かって横須賀から出向した米空母を「調査目的」で自衛艦が並航した件についても、侵略に向かう米空母を武装自衛艦が公然と警護することも可能となるだろう。
着々と進む尖閣諸島を想定した軍事対応===中国を挑発する、島嶼敵前上陸訓練(署名事務局)

A弾道ミサイルの迎撃
 検討項目は、「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」だが、「米国に向かう」かどうかは分からない。その判断は米軍だけがやれるのだ。
 ミサイル防衛については、実に危険な動きが明らかになった。7月6日に日米で実施した共同対処訓練の内容が米海軍第7艦隊ホームページで公開され、昨年9月以来ミサイル防衛の共同訓練が5回に渡っていることがわかったのである。防衛省はこの事実を隠し続けてきた。首相官邸は慌て、米側に「公表の経緯をただす」のだという。明らかになった事実は、日米両国のイージス艦や空中警戒管制機が、「弾道ミサイル発射情報」を捕捉し首相官邸や防衛省内の中央指揮所などに情報伝達するのに要した時間は約1分だったというものだ。一連の共同演習を一貫して隠し続けてきたのは、日本のイージス艦などがアメリカの情報システムの中に組み込まれ、その情報が一方的に首相官邸などに伝えられ、対応を迫られるという、ミサイル防衛システムがもつ極めて危険な側面を示しているからに他ならない。
 来年1月には、初めての海上共同軍事実働訓練が予定されている。この訓練では、「北朝鮮の弾道ミサイル発射」に対応し、海上配備型迎撃ミサイルSM3を搭載した自衛隊の「こんごう」と米軍のイージス艦が海上で交信し、迎撃体制をとるという。同一システムを搭載した日米両国のイージス艦の共同実動訓練で文字通り、一体化するのである。
※ミサイル訓練、米軍公表で困惑=経緯ただす考え−防衛省(時事通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070710-00000200-jij-pol
※U.S., Japan collaborate on missile defense exercise(米第7艦隊)
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?t=115836

 そもそもアメリカの進めるミサイル防衛構想は、同盟国を巻き込んで世界中に関連施設を張り巡らせ、米本土と世界に展開する米軍を守ることを本質とする。したがってこれに参加しながら、米本土を守らないという選択肢はありえない。集団的自衛権の行使を不可欠の条件にしているというよりも、集団的自衛権の行使そのものなのである。
※世界に張りめぐらされた軍事基地ネットワークを有する基地帝国としてのアメリカの批判については以下を参照
【研究ノート】基地帝国としてのアメリカ帝国主義 (署名事務局)

 現在の憲法解釈では、「北朝鮮からのミサイル発射」に対して、ミサイルの行き先が日本か米国か明かでない段階では日本は迎撃することができない。つまり日本を標的にしていることが確実でないミサイルを迎撃する事はできない。しかし実際には、北朝鮮のミサイル発射が確認された段階で、「行き先」を確認する必要なく即時に迎撃ミサイルを発射することが要求される。その間わずか一分である。さらには、北朝鮮がミサイルを発射するという兆候を察した(=「武力行使予測事態」)などとでっち上げて、ミサイルの種類が何であるかも、実際にミサイルが発射されたかどうかも、どこの国の何を狙っているのかも、演習か実戦かも定かでない状態で、日本が一方的に迎撃ミサイルを発射できる体制がつくられようとしているのである。
 アメリカから見れば、日本は米本土を狙うミサイルに対する盾としての機能を名実共に持つことを意味し、それは相手からの反撃の可能性を封じ込めてアメリカが先制攻撃ができるという侵略のフリーハンドを得るに等しい。
 過去日本海において軍事的緊張が高まった具体的な事例を見ても、2001年11月の北朝鮮「不審船」事件、2004年9月のノドン発射騒ぎ、2004年11月の「中国原潜領海侵犯」事件など、すべて情報は米当局からもたらされ、それに日本の自衛隊が対応を迫られている。まさに、日本の自衛隊を米軍の一部として利用するシステムなのである。
突如の「ノドン発射準備」騒ぎは何を意味するのか?(署名事務局)
小泉政権による公海での不法な武力行使、北朝鮮敵視政策を糾弾する!(署名事務局)

B米軍への攻撃に対する警護
 これは「国際平和活動をする他国部隊への攻撃に対する警護」と言われているが、要するに米軍攻撃への警護である。イラクへの陸上自衛隊の派遣では、名目上「非戦闘地域」に限り、「復興支援」を目的とした。集団的自衛権の行使が容認されれば、「非戦闘地域」という前提は崩れる。また「復興支援」という限定もなくなる。重武装した自衛隊が、米軍や多国籍軍を警護するということを公言して治安活動、軍事行動をともにすることが認められることになる。
もちろんこれは、「他国部隊の警護」が自己目的ではない。イラクに駐留する多国籍軍の中で、日本の自衛隊もその一員であるにも関わらず、自衛隊だけは復興支援を目的として派遣された異質な存在として振る舞うことを余儀なくされた。名実共に米軍と自衛隊が共同軍事行動をし、住民に武器を向け、武力行使を公然と行うことに道を開くことになるのである。
 この際、Cも含めて「国連平和活動」ではなく「国際平和活動」であることに留意すべきである。主としてPKOを想定してかのような体裁をとっているが、そうではない。国連主義だけでなく、多国籍軍型派兵、有志連合型派兵への、制約を取り払った参加を目論んでいるのである。

C米軍の後方支援
 これは「国際平和活動に参加する他国への後方支援」という言葉でスマートな言葉で表現されているが、実態は米軍への後方支援に他ならない。現在も「テロ特措法」を根拠に、インド洋での補給がつづけられている。しかしそれは、武力行使と一体とならないことが前提である。つまり、自衛隊は米艦船に補給を行うが、米艦船自体は戦闘行為を行わないことが建前になっている。この建前は実際には崩れている。なぜなら米艦船から出撃した戦闘機がアフガニスタンに対する爆撃をおこない、多数の人民を殺戮しているからである。また、イラク戦争では、航空自衛隊はクウェートから米軍のための物資輸送をしており、その9割は武装米兵であるが、これも建前は人道物資の輸送とされている。
 ところがこの憲法解釈がみとめられれば、米軍のための武器や弾薬の輸送、武装米兵の輸送などがすべて合憲とされてしまうのだ。「人道支援」を隠れ蓑にしなくても、堂々と「戦闘部隊への後方支援」を表明することができるのである。サマワでの水の供給に限定しなくとも、イラクで掃討作戦をおこなう米に直接武器や弾薬を供給することが可能となり、文字通り一体化してしまうのである。


[3]歴代政府解釈の体系と法体系を根本から覆す集団的自衛権行使容認

(1)集団的自衛権行使は、歴代保守党内閣自身が憲法違反としてきた、自衛隊の存在とその役割をめぐる根本問題であった。すなわち集団的自衛権を行使しないとすることが、戦力の保持と交戦権行使の禁止を明文化している憲法第9条をかいくぐって歴代政府が自衛隊を合憲とするために作り出した「屁理屈」のキーポイントの一つだったのである。以下、従来の政府の見解を紹介しておこう(『防衛白書』平成18年度版、参照)。
* 自衛権の発動の用件
@ わが国に対する急迫不正の侵害があること
A この場合にこれを排除するために適当な手段がないこと
B 最小必要限の実力行使にとどまるべきこと
という三条件に該当する場合に限られると解している。
* 国防の基本方針
  専守防衛:相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいう。
* 集団的自衛権
国際法上、国家は集団的自衛権、すなわち自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利を有するとされている。わが国は、主権国家である以上、国際法上、当然に集団的自衛権を有しているが、これを行使して、わが国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国に加えられた武力攻撃を実力で阻止することは、憲法第9条のもとで許容される実力の行使の範囲を超えるものであり、許されないと考えている。

 以上のごとく、集団的自衛権行使が憲法違反とされることは、わが国が直接攻撃された場合にのみ自衛権を発動するとする「自衛権の発動用件」および「国防の基本方針」からの当然の動かしがたい論理的帰結である。
 別の言い方をすれば、個別的自衛権の行使という限定をつけることによって、日本政府は違憲である自衛隊の存在を正当化してきたのである。彼らは解釈改憲を積み重ねてきたが、それはあくまで、「個別的自衛権」を限りなく拡大解釈し、本来ならば「集団的自衛権」に含まれるような中身の一部をもそれに取り込むことによってじわじわと憲法9条を骨抜きにするというやり方であった。それを「いやこれは個別的自衛権の範囲だ」と強弁することで乗り切ってきたのでる。
※解釈改憲の歴史については以下を参照
【憲法と有事法制シリーズその1】憲法第9条と有事法制−−有事法制は憲法「交戦権放棄」条項を最後的に葬るもの(署名事務局)


(2)集団的自衛権の行使を一部でも認めることは、単に自衛隊の任務に新しい任務を付け加えたり、合憲としてきた解釈の一部を変えることではなく、自衛隊の存在を合憲とする政府解釈の体系を根本から変更することとなる。
 自衛隊とその活動に関するすべての法体系は個別的自衛権を前提にくみたてられている。自衛隊法はもちろん、テロ特措法、イラク特措法、武力攻撃事態法、周辺事態法、国民保護法、PKO法等々すべてがそうである。それだけではなく、歴代政府の答弁全体がそうである。小泉の迷走した「非戦闘地域」や「復興支援」等々の答弁も個別的自衛権を前提に行われている。ところが安倍首相はあたかも従来の自衛隊合憲論の一部手直しをするに過ぎないポーズをとって、自衛隊の存在をかろうじて合憲としてきた解釈の基礎となる諸制約を一挙に取り払おうとしているのである。
 だが、集団的自衛権を合憲と解釈しようとするならば、歴代政府の自衛隊合憲論の理論的体系は根本から立て直さなければならない。この場合、これまでの自衛隊合憲論は細いガラス棒を幾重にも積み重ねたようなきわめて危うい論理から成り立つものであり、新しい論理構成など到底、論理体系としては成立しないものである。また、たとえ詭弁を弄して集団的自衛権を合憲とするならば、これまでの歴代内閣の憲法解釈は根本的に「ウソ」だったということになる。かつて「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根内閣でさえ、公然とは集団的自衛権を合憲とすることは出来なかった。安倍は「戦後レジームからの脱却」によって、歴代の政府答弁全体、法体系全体を否定しようと言うのか。 


[4]集団的自衛権は、アメリカが中南米侵略を正当化するために作り出した概念

(1)政府は、集団的自衛権があたかも国際法で認められた固有の原理であるかのように主張しているが、それ自身がデマである。この概念は、国連創設期に、アメリカが中南米に対する軍事的干渉の余地を残したいという衝動から生まれた独善的で便宜的なものであった。集団的自衛権の行使が問題になっている現在、あらためてこのことを確認しておきたい。
 国連憲章は、国際紛争の平和的解決を「まず第一」の原則としている(国連憲章第33条)。つまり、国際紛争に際しては、平和的解決(交渉・審査・仲介・調停・司法的解決、等)をまず行い、それによっても解決しない場合は、強制措置として、経済制裁(第41条)、軍事制裁(第42条)をとることができ、例外的には安保理事会の必要な行動をとるまでの間、個別的又は集団的自衛権を行使しうる(第51条)。繰り返し言えば、自衛権は平和の脅威に対して即座に行使しうるものではなく、平和的解決と安保理の措置を前提としてこれを行使しうるのである。
 [3]の(1)で見たように、日本政府は、日本国憲法は自衛のための戦争までも否定しているわけではないと解釈し、「自衛権」さえ振りかざせば、自衛隊の保持も武力の行使も好き勝手にできるかのように説明しているがこれ自身が全く国際法を歪曲している。すべての戦争は「自衛のため」という口実によって行われてきた。従って、「自衛権」が濫用されないように、国連憲章によって厳しく制約されている。「自衛権」自身が決して自明の概念ではないのである。ついでに言えば、1946年6月、吉田茂首相が国会答弁で「第九条第二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争もまた交戦権も放棄したものであります」と語っていることはあまりにも有名な歴史的事実である。 


(2)さらに、集団的自衛権こそは、武力行使を排除する集団安全保障体制を採った国連憲章に対して、アメリカが自らの武力行使と軍事介入を正当化するために作りだしねじ込んだ概念である。伝統的な自衛権の概念でも、主権国家に固有の権利でも何でもない。それは、次のような事情に基づいている。国連憲章の原案では、地域的機関が軍事行動を行う場合、国連安保理の承認を必要とする、とされていた。これでは、5大国の一致の原則をもとにソ連が拒否権を行使した場合、アメリカはとりわけ密接な利害をもつ中南米に対して「合法的」に軍事介入をしえない。そこで、アメリカが目を付けたのが、中南米諸国が45年3月に行ったチャプルテペック決議であった。それは、中南米の一国に対する攻撃は米州全体に対する攻撃とみなし、侵略国に対しては、軍事的手段を含めた対抗措置を集団的にとることを定めていた。アメリカは、この決議をもとに集団的自衛権なる概念を持ちだし、それを主権国家の固有の権利であるかのように描き出し、国連憲章に加えることによって、ソ連の拒否権の及ばない「聖域」を作り出そうとしたのである。まさに集団的自衛権は、ソ連の拒否権を封じ込め、中南米に対するアメリカの軍事行動を合法化するめに考案されたのであった。
※この間の事情は、『集団的自衛権と日本国憲法』(浅井基文 集英社新書)に詳しく説明されている。


(3)アメリカが、5大国一致の原則をすり抜け、中南米侵略を可能とするために編み出した「集団的自衛権」が、現在のグローバル時代に、日本政府によって解禁されようとしていることは、その危険な性格をあらためて暴露している。それは、アメリカと一緒になって、世界への軍事介入を広げようとしているということに他ならない。そのお先棒を日本が担おうということに他ならない。
 しかし、その後の歴史を見ても集団的自衛権を錦の御旗に掲げて侵略を正当化するというアメリカの目論見は必ずしも成功していない。アメリカはベトナム戦争やレーガン政権時代のニカラグアへの軍事干渉を、集団的自衛権の名のもとに正当化しようとしたが、ベトナム戦争は米軍の全面撤退とアメリカの歴史的な敗北として終結したし、ニカラグアへの米の軍事干渉は1986年国際司法裁判所によって違法とされている。また現在のイラク戦争では、侵略の根拠としてアメリカは当初国連安保理での武力行使決議を追求したが、フランスやロシア、中国などの強い抵抗に遭い、「有志連合軍」方式の、従って集団的自衛権型の侵略形式に転換せざるを得なかった。その結果が現在の泥沼化である。
 このような歴史をみれば、集団的自衛権とは、アメリカ帝国主義の覇権主義、侵略主義、先制攻撃主義に同盟国を動員するための隠れ蓑にすぎないことがわかるだろう。集団的自衛権の行使を認めることがいかに危険で不法なことか自ずとあきらかであろう。


[5]集団的自衛権行使容認に反対する闘いは憲法改悪反対闘争の重要な一環

 以上のように、集団的自衛権行使解禁は、日米軍事同盟強化の新しい段階の条件となっているという点から見ても、自衛隊の存在と役割に関する従来の政府解釈や法体系を根本的に覆すという点から見ても、集団的自衛権がそもそもアメリカの中南米への侵略のフリーハンドを得るために作られた概念であったという点から見ても、戦争の放棄を謳った日本国憲法と根本的に相容れない。
 諮問会議の座長柳井俊二は、改憲を公約する安倍の意図を代弁するかのように語っている。「国民投票法案は可決されたが、3年間は発議もできない状況にある。他方、憲法第9条をよく読むと、解釈には幅があり、憲法第9条第1項は、『国際紛争を解決する手段として』は武力の行使を放棄しているにすぎないのであり、個別的及び集団的自衛権までを放棄したとは明文上書いてあるわけではないので、解釈に余地があるのではないだろうか。」つまり、改憲の発議ができるまでの3年を無駄に過ごしてはならない。集団的自衛権を徹底して議論し、世論づくりをし、解釈改憲で行けるところまで行っていこう、と。
 あくまでもこの集団的自衛権行使解禁の動きは、直接的には、米国側からの強い要求ではあるが、安倍にはもう一つの狙いがある。それは、個別事例研究を通じて日米軍事一体化の事実を国民に受け入れさせ、9条改憲は、すでに実態として進んでいる現状を追認することにすぎない、9条改悪はたいしたことではないと国民に思いこませ、事実上9条改憲の実態、既成事実を先行させて改憲反対論をおさえこむことにある。私たちは、これら個別事例に対する暴露を強め、集団的自衛権を部分的にでも解禁する憲法解釈を強く批判しなければならない。集団的自衛権行使解禁に反対する闘いは、9条改憲に反対する闘いの前哨戦として始まっているのである。