わたしの雑記帳

2008/7/8 安達雄大くん(中2・14)・教師叱責後自死裁判の判決について
 
2008年6月30日、長崎地裁で、安達雄大くん・教師叱責後自死裁判(平成18年(ワ)第323号)の判決が言い渡された。
(裁判長田川直之氏=転補、裁判官小川恵一郎氏・小沼日加利氏)
判決は「原告らの請求をいずれも棄却する」というもの。

私自身は残念ながら、判決やその後の報告会に立ち会うことはできなかったが、判決直後から数日にわたって、原告である安達さんを含め、いろんな方からご連絡をいただいた。
当日は、各地から支援する人たちが集まり、70人近い傍聴者があり、報告集会も満席だったという。このことだけでも、安達さんが投じた一石の波紋の広がり、意味を感じる。
送っていただいた判決文をもとに、私なりの考えを少し書いてみたいと思う。

(1)判決要旨
判決文の要旨をまとめると以下のようになる。

●自殺の原因
裁判所は、
・平成16年3月10日に至るまで雄大に自殺を窺わせるような事情はなかったこと。
・清掃の時間にライターを所持してたところをT教諭に発見され、清掃の時間及び同日の放課後に喫煙に関する指導を受け、T教諭に対して、雄大は喫煙を知っている人としてクラスメートやサッカー部員等を申し出、そのころから雄大は涙ぐむようになったこと。
・指導の後に雄大の自宅にT教諭が訪問する予定になっていたこと。
・雄大がサッカー部の部活を気にしていたこと。
・雄大が「オレにかかわるいろんな人」、「いままでありがとう」「Oとりょうしん、他のともだちもゴメン」と記載したメモを作成し、その後、遅くとも10数分後には本件中学校の校舎から飛び降りて自殺したこと。
上記のような自殺に至る経緯や、雄大が残した遺書(メモ)の中で、雄大の喫煙を知っている生徒として具体的な氏名をあげたクラスメート、両親である原告ら、他の友人らに対して謝罪していることからすると、雄大は、そのクラスメートやサッカー部員がT教諭やその他の教諭から指導を受け、サッカー部の活動が停止となり、両親がT教諭の家庭訪問を受け、心配すること等を苦慮し、その原因が自分にあると思い詰めて自殺に至った可能性が高いと考えられると、事実認定。

一方、「雄大は、本件掃除道具入れの指導後に、他の生徒に『殴られる』などT教諭からの体罰を心配する言動をしているものの、本件ではT教諭の体罰があったとは認められず、本件において、T教諭の過去の体罰が雄大の自殺に関与しているとも認められない。」として、体罰との因果関係を否定。

また、被告が、「自殺の背景には一過性の抑鬱状態などが存在しており、雄大の自殺はT教諭の指導以前の家庭状況等の原因の関与が大きい」と主張していたことに対しては、「本件当日までに、雄大が自殺を考えていたとみられる事情は何ら見出せない」「加えて、雄大が遺書を残し、その中で友人や両親に対する謝罪の気持ちを示していることからも、雄大がT教諭の指導を受けたことを重く受け止めたことは明らかであり、T教諭の指導がなければ雄大が自殺することがなかったことも明らかである。したがって、被告(学校側)の主張は全く理由がない」と退けた。


●安全配慮義務について
公立中学校における教師には、学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における生徒の安全の確保に配慮すべき義務(安全配慮義務)があり、特に、生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれがあるようなときには、その影響をないし危害が及ぶおそれが現にあるようなときには、そのような悪影響ないし危害の現実化を未然に防止するため、その事態に応じた適切な措置を講ずる義務がある。」

「教育に携わる者として、教師は、生徒指導の際、生徒を精神的に追い詰めるような指導をしないように配慮し、また、生徒指導後においても、自傷自殺など自暴自棄的な行動に走らないように生徒の心情に心を配り、これに寄り添って必要な励ましを行う等の教育的な措置が必要な場合もあろう。
このことは、本件マニュアルが、雄大の自殺後の改訂により、『追い詰められ心の逃げ場をなくすような指導にならないよう配慮する。』、『児童生徒が一人になる状況を作らない。』ことを留意事項として明記していることからも明らかである。
これら留意事項は本件マニュアルの改訂の前後にかかわらず、教師として当然に認識していなければならない事項である。そして、当該生徒の性格や考え方、当該生徒と指導する教師との関係、当該指導の方法、当該指導における生徒の状況等を考慮して、当該生徒が自殺に至ることを具体的に予見することが可能であるというような場合には、上記のような配慮や措置を行うことは、教育上の義務にとどまらず、法的な義務であるということができる。」

上記のような予見可能性を前提とした配慮義務又は防止義務に違反していたかどうかについて、
「本件掃除道具入れにおける雄大に対する喫煙の確認行為は、一定の必要性があり、短時間のうちに終了していることに加え、その態様も体罰を加えたり、恫喝したような事実も窺われないから、上記確認行為を本件掃除道具入れにおいて行ったことをもってT教諭において雄大が自殺に至ることを予見することが可能であるということはできない。」として、予見可能性を否定している。

「中学生は、未熟な部分と思春期の心情とが絡み合わさった複雑な時期であり、教師としては、その心理状況に対して注意深く接するべきである。そして、T教諭が雄大を本件道具入れ内で指導した方法、友人の名前を挙げさせた方法、部活動停止制度を背景にした指導をしたこと、雄大を1人にしたことについては、いずれも教育的な配慮に欠けた点があったと認められるが、指導の範囲を著しく逸脱したものとまではいえないものである。

「雄大が精神的に未だ発展途中の中学生であり、友人想いの生徒であったなどの事情を十分に考慮しても、これらにより雄大の心が強く傷つけられることは十分に予見し得るとしても、一般的に自殺を選ばせるまでに不適切なものとまではいえない。」
「雄大の個別の事情を考慮しても、雄大が自殺に至るまでの予見をすることが可能であったとは認めるには足りない。
教師の指導等に端を発して生徒が自殺に至るとの一般的知見があるとしても、このことから本件において、T教諭及びI教諭らに、雄大が自殺に至ることを予見できたということは困難である。」

T教諭及びI教諭による雄大に対する喫煙指導は、不適切な面が認められるが、法律上の義務としての配慮義務又は防止義務に違反したとまでは言えない。


●小活
「部活動にも積極的に取り組む元気な子どもを教師の不適切な指導により自殺という形で失い、さらには、不十分な調査に基づき、行き過ぎた指導はない旨のM校長の発言や、自殺の原因が主として雄大の精神的な問題にあったかのように受け取られるようなカウンセラーの発言等により、さらに傷つけられた原告らの精神的苦痛は看過し難いものであったと推察されるが、それ自体が独立に雄大に対する違法行為であるとはいえない。そうすると、T教諭及びI教諭は、雄大の死亡について予見可能性があったとはいえず、被告に過失があったとはいえない。


(2)判決に対するわたしの考え

原告両親は、最初から難しい裁判になることは覚悟のうえだった。
裁判後に母親の和美さんがメールをくれた。
「予見可能性、安全配慮違反という法の壁に棄却という結果でした。このことは、最も予想されたことではありますが、やはり、こちらの主張はほぼ認められながら、なぜすべて棄却となるのか素人にはどうしても理解しがたいものとなりました。
 ただ、事実的としても、指導と自殺の因果関係を認めたことは初めてで、画期的という、尾木直樹さんの評を毎日新聞が載せており、マスコミはおおむね評価してくれた報道に様に思います。 
しかし、いくら認めても、「市の主張が認められた」というコメントを聞くと、棄却である限り、彼らは何も反省しないことに悔しさを感じます。」とあった。


私自身、この判決をどのように捉えてよいのか、正直いって迷った。
ある程度、裁判官が原告の心情を理解してくれた様子は判決文からも窺える。
もっと、教師として喫煙する生徒に対して当然の指導をしただけだとか、指導と自殺の因果関係は他人には推し量ることはできず、わからないなどと、被告の言い分に沿った判決内容が出てくることも想定していた。

一方で、教育界の今後に大きな課題を残したのではないかと懸念する。
教師の指導の不適切さや配慮不足を認めながら、法的逸脱はないとした。
指導と自殺との因果関係を認めながら、予見可能性を否定して、過失なしとした。
つまり、たとえ、不適切な教師の言動と生徒の自殺とに因果関係があったとしても、自殺を予見することができなければ、法的責任は問われないという、判例を残したことになる。
今後、この判決文がどのように使われるかを裁判官は考えて、この判決文を書いただろうか。

教育者の立場とすれば本来、生徒の追い詰められた心情への配慮を欠いた生徒指導は、自殺の原因にもなり得るということを教訓として残すべきだと思う。
しかし、それができなかったからこそ、両親は民事裁判に訴えた。
刑事裁判であれば、ある程度、仕方がないと思う。しかし、これは民事裁判だ。
学校で圧倒的な権力を持ち、生徒指導のプロである教師には、もっと高度な生徒への安全配慮義務が認められてもよいのではないか。

T教諭は報告書に他人事のような内容で、「行き過ぎや問題点があったのなら、その時に問題になったのではないか」「体罰と言われればあったかもしれないが、これまで問題になった事はないからいいのではないか」などと書いていた。
当該事件の際、雄大くんに暴力を振るったわけではないにしても、こうした教師の驕りが、結果的に生徒の死を招いたのではないか。雄大くんが自殺しなかったしても、このままいけば、いつか被害者が出ていたのではないか。
もし、教師に驕りがなければ、中学2年生の男子生徒が涙を見せた段階で、フォローの必要性を感じていただろう。
もし、担任が信頼できる教師であったら、雄大くんはライターを持っていたことや喫煙したことをひどく後悔はしても、死にまで追い詰められることはなかったのではないか。それが、教育的指導というものではないのか。

生徒との信頼関係を結ぶことができず、無自覚に暴力を振るう教師をそれまで野放しにしていた学校・教育委員会の責任も大きい。そして、学校としての責任を全く省みることなく、子どもを亡くした親を二重、三重に傷つけた言動。
これを変えていかなければ、必ずまた、同じ悲劇は起きるだろう。

長崎では、雄大くんが自殺した翌年の2005年に児童・生徒の自殺が相次いだ。そのほとんどが続報もなく、原因についても明らかにされていない。しかし、このような教師や学校、教育委員会の体質も影響しているのではないだろうか。
亡くなった安達雄大くんやその家族の意に反して、この判決文が今後、学校・教師を擁護するために使われなよう、私たちはしっかりと見守らなければならないと思う。

さらに、教育委員会、文部科学省は、事故死としていた安達雄大くんの死を「教師の叱責による自殺」にカウントするだろうか。
個人情報保護法の理念からすれば、正しい情報に訂正されなければならないと思うのだが。
そして、文部科学省が、たくさんの教師指導・叱責による自殺(me061009)を長年ゼロとしてきたことと、今回の「自殺に至るまでの予見をすることが可能であったとは認めるには足りない」という判決内容とはけっして無縁ではないと思う。
子どもの死を教訓として残すことをしないから、次の犠牲者が生まれたのだと思う。そして、今後もどうやら同じことを続けていくつもりらしい。

2008年7月30日には、所沢高校で、生徒指導直後に自殺をした井田将紀くんの民事裁判の判決が出る。
井田さんは、長崎までわざわざ駆けつけて、丁度1ヶ月違いの判決を聞いた。どんな想いだったろうと心中察するに余りある。


安達雄大くんについては 040310  me050123 陳述書(2006/10/3付) も要参照。



 HOME   検 索   BACK   わたしの雑記帳・新 



 
Copyright (C) 2008 S.TAKEDA All rights reserved.