2007/11/20 | 私立作陽高校の学校寮での暴行傷害事件(930901)、学校側の上告を最高裁は「不受理」決定。 | |
2007年11月14日までに、私立作陽高校の学校寮での暴行傷害事件(930901)で、高裁判決を不服とした学校側の上告を最高裁は「不受理」決定した。 これで、2007年7月5日の大阪高裁(若林諒裁判長)が、学園側の安全配慮義務違反を認め、同学園に約2800万円の支払いを命令を出した判決が確定した。 現在、大学院で被害者支援について研究しているAさんは、「これでようやく、自殺した加害男性の墓にも報告ができる」と話していた。 この事件に関しては1審判決のあと、「わたし雑記帳」でとりあげた(me060712)。 この事件の被害者は、原告男性だけではない。原告男性に暴行を加えた何人もいるが、そのうち、もっとも加害行為のひどかった元上級生はかつて寮内暴力の被害者だった。そして、原告男性の肉体的後遺症、深い精神的後遺症を知って、後悔の念から「死んでおわびします」という遺書を残して自殺をしてしまった。 このことは、当時すでに深い心の傷を負っていたAさんに、どれほど強い衝撃を与えたことだろう。自責の念さえ感じたのではないか。だからこそ民事裁判で、自分に数々の暴行を加えた元生徒たちを被告とはせず、学校だけを訴えた。 学校がきちんと情報を開示し、再発防止策を真剣にとっていれば、Aさんはもちろん、上級生も自殺にまでは追い込まれずにすんだのではないか。 1審と2審の分厚い判決書を私自身まだ読み込めていないが、学校・教師のいじめや暴力に対する認識の甘さが、どれだけ多くの加害者と被害者を生んできたかと思う。 作陽高校の当時の寮では、多くの寮がそうであるように、「3年生は神様、2年生は人間、1年生は奴隷」と言われる上下関係だった。 暴力事件が繰り返され、恐喝事件もあった。にもかかわらず、それを「伝統」として容認し、深刻には受け止めていない教師の姿勢がある。寮生活を教育の一環としながら、耐え切れず逃げ出したり、退学したりする生徒に対して、もう少しがまんしてとどまるようにと「説得」するだけで、根本的な対策をとろうとしない。 裁判においても、被告の学校法人は、Aさんに嘘をつくなど「暴行の原因をつくった」過失があり、高校生という大人に近い年齢なのであるから、教師に言うなどできたはずで、それをしなかったAさんの自己責任であると主張した。 こんな学校の姿勢こそが、暴力の蔓延を許してきたのだろう。 多くのいじめ事件で、被害者は加害者らに嘘をつかされる。 2007年7月、兵庫県神戸市須磨区の私立滝川高校で、男子生徒(高3・18)が自殺した事件でも、被害者は「嘘を1回ついたら1万円」という約束を加害者らとしていたという。本人から言い出したことだと学校は主張し、だから、いじめには当たらないと思ったと、いじめ発覚後に言い訳をしている。これはまったく加害者の言い分をそのまま使っている。作陽高校の教師らの対応とまったく同じだと感じた。 被害者と加害者はけっして対等な立場にはない。被害者は加害者らに、ささいなことで因縁をつけられ、執拗に理由を求められる。ヤクザに「がんをつけた」「肩が当たった」などと言いがかりをつけられるのと同じことだ。 もともと理由などない。誰でもが日常的に何気なくやっていることだったり、うっかりミスだったり、あるいは相手がわざと誘い込んだことだったりする。 被害者は強い態度で追求されれば相手を恐れて、「理由はない」とも、「いいがかりだ」とも言えない。仮に、正直に言ったとしても、「俺が言いがかりをつけているとでも言うのか?」と殴られるのは目に見えている。 とにかく嘘でもいいから理由を言って謝って、一刻もはやくその場を収めたいと考える。しかし今度は、その苦し紛れに考え出した理由が、「嘘だ」として殴られたり、金を取られたりする。 あるいは、暴力を恐れて、相手が何を望んでいるのかを先取りした言葉を言質として、「自分で言い出したこと」「約束は守れ」と迫られる。 滝川高校の男子生徒も、「嘘をついた」と言われて集団リンチを受けるよりはと、「嘘をついたら1万円払う」と自分から言わされるを得なかったのではないか。それでもきっと、お金も払ったうえに、暴行も免れることはできないのだろうが。 作陽高校のAさんは、「嘘をついたら金を払う」と言えずに、毎日のように、嘘をついたとしては集団暴行を受けた。 このやり方は、加害者の罪悪感を軽くする。自分たちが強要したことではない。自分で言い出したこと。あいつが悪い。一方で被害者も、自分が言い出したこと。自分に責任があると思い込んでしまったりする。強い恐怖心を与えられ、自己防衛のためにとらざるを得なかった言動にもかかわらず、自分のなかに原因を求めてしまう。 こんなときこそ、大人たちが、「なぜ、被害者がそう言わざるを得なかったのか」「原因はどこにあるのか」を加害者、被害者の両方に言ってきかせなければならないと思う。 「暴行の理由」ではなく、どちらに被害があり、どちらに利益や加害行為があったのかだけを見れば、両者の関係は明らかなはずだ。被害がどのような言い方をしようが、対応をしようが、加害者らに目をつけられた時点で、逃れようはなかったのだ。加害者側に選択権があり、被害者側には最初から選択権などなかった。 しかし、大勢である加害者の言い分に教師らが同調してしまっている。けんか扱いして、両成敗としたり、被害者に非があるとする。これでは、被害者はたまらない。教師は加害者を応援する人間でしかない。 このような対応をされて、被害者が教師に被害を打ち明けることができるだろうか。まして、事情聴取の場所に加害者を同席させるなど、安全配慮のかけらもない教師が、その後、ちくったと言われて報復されても守ってくれるとは思えない。しかし今度は、「言わなかったのがいけない」と被害者を責める。 言えるだけの信頼関係を築けなかった教師側の責任には思い当たらない。 そういうと必ずのように、「それは親だってそうでしょう」と言われる。もちろん、言っても取り合わなかったり、お前にも悪いところがあると非難する親もいる。そういわれることを恐れて言えない子どももいるだろう。 しかし、被害者の言葉や遺書からは、「親には心配をかけたくなかった」「学校で起きていることを親に言っても無駄だと思った」「親に言えば先生に言う。だから親に言えなかった」という言葉をたくさんきく。 また、暴力をふるわれ、強い恐怖心にかられた被害者の心理を教師は理解しようとしない。 「強くなること」「がまんすること」「正規の手続き」を被害者に求める。 これだけいじめ自殺、いじめ事件がたくさん報道され、いじめとはどういうものか、大人たちはどういった点に注意し、どのような対応をとらなければならないのか、しつこいほど言われているなかで、まだ過去の事件と同じ過ちを繰り返し続ける学校。 作陽高校のAさんの場合、自殺してもけっしておかしくない暴行の内容だった。実際、Aさんは何度も自殺を試みているし、Aさんのほかにも、学内で自殺未遂者が出ている。そして、加害者の暴行を苦にした自殺。 本来なら、Aさんが死なずに生きていてくれたことに感謝するべき立場だと思う。しかし、学校側は一切、非を認めようとはしなかった。裁判で負けても、負けても控訴し続け、まさかの最高裁への上告。 そして、上告不受理の通知を受けて、金は仕方なく支払ったものの、判決への不満を表し、謝罪する気もないという。 反省のないところに、事件・事故は必ずまた起きる。事件が起きたから学校がこのような対応をするのではなく、このような学校だからこそ事件が起きるのだと改めて思う。 教育とはなんだろう。学校・教師のこの姿勢を見れば、加害生徒らに反省しなさいなどとはとても言えない。 評判を気にする私立学校にして、この強気はいったいどこから来ているのだろうか。 ネットで事件を検索してみて思い当たった。出てくるのはほとんど「作陽高校」「サッカー部」の活躍。準優勝。その応援。裁判の証拠のなかで、Aさんだけでなく、毎年のようにたくさんの被害者が出続けていることは明らかになっている。進路も、人生も狂わされた人たちがたくさんいるはずだ。しかし、その人たちが声をあげられないほど、大きくて強い流れがある。 1988年8月5日、愛媛県新居浜市の市立新居浜中央高校バスケット部で、阿部智美さん(高1・16)がシゴキ殺された事件があった(S880805)。1994年4月、民事裁判で原告側の全面勝訴が確定した。 この事件では裁判係争中にも同じ顧問のもと、同じバスケット部で、知美さんの同期生の妹である1年生女子部員が練習中に熱中症で倒れ死亡している。しかし2度目の事故直後も、同年宮崎県で開かれたインターハイに同女子バスケット部が準優勝したことが評価され、顧問教師は秋の国体監督に選ばれた。県教育委員会が調査に乗り出したというニュースも、4年前の事故と関連づけての報道もなかった。更に翌年2月には愛媛県体育協会から「優秀指導者賞」の表彰を受ける。 原告勝訴の報道も地元でさえ、あまり大きく報道されることはなかったという。 そして、2002年3月25日に、群馬県高崎市の東京農業大学第二高等学校(東京農大二高)ラグビー部員金沢昌輝くん(高2・17)が、合宿当日に自殺した事件(020325)。こちらもラグビーの競合校だった。当初、学校側は強気の態度だったが2005年8月のラグビー部の合宿中に部員(高3・17)が倒れ後に死亡した直後の2005年9月1日に、前橋地裁で和解が成立した。 また、2005年12月6日、長野県小県郡丸子町の県立丸子実業高校バレーボール部員の高山裕太くん(高1・16)が自殺(051206)。裕太くんは生前、バレーボール部内でのいじめや暴力を訴えており、母親が民事裁判を起こしたが、2006年10月31日、丸子実業バレーボール部の監督とその妻子、部員や保護者を含めた総勢30名が、裕太くんの母親に対して、ありもしないバレー部内でのいじめをでっちあげ悪評をばらまいたあげく、死後も抗議の電話などで監督や部員らに精神的な苦痛を与え、いじめがあったかのごとくマスコミに吹聴して名誉を傷つけたとして、3000万円の損害賠償を求めて逆提訴している。 いずれも、スポーツ競合チームを持つ学校側の態度は強気で、世論も、マスコミも味方につけ、批判するものは少ない。実際に、事件を報道したマスメディアが、学校側にスポーツの取材を拒否されたという話も聞いた。 作陽高校の事件も、継続して丁寧に取材を重ねて報道しているのは神戸新聞だけに思える。 1審も、2審も、判決内容の重さに比べて、報道量があまりに少ないように感じるのは私だけだろうか。 作陽高校は、最高裁の上告受理が非常に狭き門と知りながらなぜ、上告したのか。高裁判決を上告することで確定させずに、上告不受理という形で、できるだけ扱いを小さく押さえたかったのではないだろうか。 学校や保護者、世間は、スポーツその他で優秀な成績を収めることと、子どもたちの心や命とどちらが大事なのか。 そして政治家や財界人は、世界的な競争力に勝てる人材の育成と、子どもたちの心や命とどちらが大事なのか。 「心の大切さ」「命の大切さ」を疎かにしているのは、子どもたちではなく、私たち大人だと思う。 |
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