子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
880805 シゴキ致死 2000.9.10. 2001.5.31更新
1988/8/5 愛媛県新居浜市の市立新居浜中央高校で、バスケット部の練習後、阿部智美さん(高1・16)が、意識を失って倒れ、搬入先の病院で急性心不全のため死亡。
経 緯 中学時代、バスケット部のキャプテンを務め、選手としても活躍していた智美さんを、同高校の顧問教師が熱心に勧誘。自宅から遠くの学校で下宿生活をしながら厳しい練習をこなさなければならないことに不安を抱き、入部に反対する母親を説得して、本人の意志で高校入学、バスケット部入部を決めた。

土日祭日もなく過密スケジュールの厳しい練習と、時にはアザになるほど激しい体罰を知って家族は不安に思っていた。
加害者 女子バスケット部顧問教師(34)は、体育大卒で保健体育担当。県下随一のバスケット指導者で、この顧問指導のもと、同バスケット部はインターハイ出場の常連だった。

智美さんが死亡してすぐ、病院の床に土下座して「あのへばった時に病院に連れていっておれば、こんなことにならなかった」と言って遺族に詫びた。

49日まで毎日、遺族宅に参って、その後も週1回の割合でお線香を上げに来ていた。(後に遺族が教師の嘘を知ってから、来訪を拒絶)
顧問の報告 1.練習中に気分が悪くなったというので、約1時間、横に寝かせて頭を冷やし水を飲ませて休ませた。
2.その後元気を回復し、本人の強い希望で練習を再開。
3.ミーティングの後、同室の友人とタクシーで下宿に戻ったが部屋の前まで行って突然倒れ、下宿の世話人が救急車を呼んで搬入された。
と、顧問は遺族に説明。
調 査
(同級生の証言)
知美さんの死後2ヶ月ほどして、毎日新聞の記者の取材から、それまで引っかかっていた学校の対応に疑問を抱き始める。

10/22 遺族は同期生数人に会って当日何があったのかを聞く。その結果、顧問の報告とは異なる証言を得る
1.「この日は卒業生が見に来ていたせいか、通常の練習よりハードで、顧問の指導も厳しかった。智美さんはシュートがなかなか入らず、顧問に叩かれ倒れた
2.この後トイレで吐いたらしい。練習が再開されたとき、疲れ切った顔をして倒れこんだので、部員の一人が水を飲ませていると、顧問が「そんなことはせんでいい」「そんなふうにするけん、つけあがるんじゃ」と言って智美さんに水をかけた
3.顧問の皮肉や嫌みに、10分くらい休んで練習を再開。インターバルトレーニングの途中で倒れ動かなくなったが、顧問に「ほっとけ」と怒鳴られて、ほおっておかれた
4.トレーニングが終わってから卒業生が介抱しドリンク剤を飲ませたが、回復せずボンヤリした感じだった。
5.帰宅時、智美さんは脚がガクガクふるえ、意識も朦朧として、自分で着替えることも立ち上がることもできない状態だった。
6.顧問は「飲み会じゃ」と言ってすでに帰っており、同じ下宿の部員2人がタクシーで連れ帰ったが、下宿の入り口で座り込んでしまったので、あわてて下宿の管理人のおばさんに救急車を呼んでもらった。
学校・ほかの対応 校長は、たびたび遺族宅を訪れたが説明なし。部活動のやり方について遺族に改善を約束したが、実際には何もしていなかった。部活動の練習はほとんど中断することもなく、手加減もされず続いていた。また、学校集会などで、知美さんが亡くなったことさえ一切、報告されなかった。

1988/10/31、教育委員会に内容証明で抗議文を出したが、さんざん伸ばしたあげく、12/25届いた文書には、学校側の言い分を鵜呑みにした報告と、「特に生徒の健康状態を十分把握し、練習内容も技術向上だけに偏ることなく適切な練習量とするとともに、事故防止に万全な配慮を実施しております」との回答があった。

1991/3 同校長は、野球で全国的に名前を知られる松山の伝統校へ転任。(同校校長が県高野連の会長を務めることになっており、事実上の栄転
裁 判 1988/12/30 学校管理責任者である新居浜市に損害賠償を請求して提訴。

被告側は、「死因は急性心不全である」「ショック死などと共に(異常な)体質に因るもの」として、予測の可能性や、過激な練習との因果関係を否定。
証 言 スポーツ・ドクター等の証言で、智美さんの死因が熱中症であること、練習中に倒れた段階で救急車を呼んでいれば、助かった可能性が高いことが判明。
判 決 1994/4/13 5年4カ月後、原告が全面勝訴。

「智美が短時間の練習再開で、前回よりも異常な状態で倒れた時点では、当時の状況に照らして一般人としても智美の身体状態が尋常でないことを容易に認識できたものと認められるから、S教諭は、この時点において智美の身体の危険に配意し、救急車を手配するなどして、直ちに医師の診断を受けさせる注意義務があるのに、これを怠った過失があるというべきである」として、教師の過失を認めた。

新居浜市は控訴せず確定。
周囲の反応 バスケット部の父母会が開かれたが、うやむやのうちに流れてしまう。事件当初、遺族に強い同情をみせていた同期生の両親たちも、裁判が始まった途端、離れていった。裁判が始まると「やはりお金が欲しかったのか」の声が聞かれる。
その後 裁判係争中の1993/9/2 新居浜中央高校のバスケット部で、同じ顧問のもと、知美さんの同期生の妹である1年生女子部員が練習中に熱中症で倒れ死亡。しかし2度目の事故直後も、同年宮崎県で開かれたインターハイに同女子バスケット部が準優勝した(8/7報道)ことが評価され、顧問教師は秋の国体監督に選ばれた
県教育委員会が調査に乗り出したというニュースも、4年前の事故と関連づけての報道もなし。更に翌年2月には愛媛県体育協会から「優秀指導者賞」の表彰を受ける
参考資料 「〜部活動で死んだ娘への報告〜シャボン玉は消えない」/阿部ヒロ子著/1997年5月あすなろ社



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