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ピースネットの歩み

ピースネット・市民平和基金 青山 正

ピースネットは1988年4月に「平和・人権・エコロジー」を柱に創刊した月刊の市民メディア『ピースネットニュース』の編集・発行を中心に活動をスタートしました。

この『ピースネットニュース』創刊の前史としては、発行代表者の青山が関わってきたいくつかの市民活動があります。そのひとつは1982年頃から「反核平和フォーラム」の名前で何人かと始めた始めた『エコピース(エコロジー的平和)』というミニコミの発行でした。そしてもう一つが「国家秘密法に反対する市民ネットワーク」の活動でした。

1985年に自民党が提案した「国家秘密法案」(推進側は「スパイ防止法案」と呼んでいました)とは、外交秘密・防衛秘密を漏らした者を最高刑死刑に処するというとんでもない法案でした。これは主権者である市民にとって大事な情報が隠されてきた、秘密だらけの日本の状況をさらにひどくするものだとして、東京周辺で様々な市民活動に関わっていた当時の若い世代が協力して、『秘密だらけの日本はイヤッ!』というブックレットを発行し、反対運動をスタートさせました。新聞などで紹介されたこともあり、すぐに各地で反響があり、各地に「国家秘密法に反対する市民ネットワーク」と同様の名前のネットワークが自然発生的に生まれ、またマスコミ労働者や弁護士たちなど各界の人々との連携もあり、大きな運動になりました。その結果この「国家秘密法案」は1987年に廃案に追い込みました。(その直前の推進側との攻防の激しい時期だった87年5月3日に起きたのが、朝日新聞阪神支局襲撃事件でした。この事件では小尻知博記者が射殺されました。この事件に関連して、今年週刊新潮が「実行犯」のものとして手記を掲載しましたが、後に誤報とわかりました。)

この運動がその後の日本での市民による「ネットワーク」型運動の最初でした。それらの経験と成果を引き継ぐ形で、発行したのが『ピースネットニュース』でした。その活動の広がりを受け継ぎながら、さらに市民のゆるやかなネットワークを広げたいという思いから、当初は自分たちが直接行動に関わるよりは情報の交換と交流の場作りに徹しようと考えて、各地で生き生きと活動を続ける市民を紹介するなど情報・交流の媒介役としての市民メディアをめざしました。

そうした創刊前の活動とネットワークに加え、創刊直前に盛り上がった新たな社会運動が『ピースネットニュース』のスタートに大きな弾みとなりました。それは伊方原発の出力調整実験をめぐり高まった反原発・脱原発運動の大きなうねりでした。

『ピースネットニュース』の創刊は、1988年4月ですが、その前に2号の準備号を出しています。それが新たに反原発で社会的な問題に目覚めた市民、特に女性たちに知れら読まれたことから、それらの行動に参加し始めた元気な女性たちや各地の市民活動に関わる人々が最初の頃の主な読者となりました。

その後、1989年5月4日に中国で天安門事件が起き、中国での民主化運動を支援する活動に関わりました。そして、1990年8月のイラクによるクウェート侵攻後急浮上してきた、自衛隊の最初の海外派兵法案であった「国連平和協力法案」の反対運動をきっかけに平和活動の発信・呼びかけ役、事務局的な役割を担うようになりました。

翌91年の湾岸戦争での反戦行動や90億ドルの戦費支出の違憲を問う「戦争に税金は払わない!市民平和訴訟」の活動などに関わりました。それに続く1992年にはPKO協力法案の賛否を問い、日本で初めての全国市民投票を実施したり、連日の国会前でのPKO法案反対運動に参加してきました。法案成立後は、自衛隊の海外派兵に反対する国際署名運動を担った「アジア市民の会」の事務局を引き受け、最後は集めた署名を国連にまで届けました。

これらの行動を通して平和問題に関心を持つ全国の市民に読者とネットワークを広げることができました。一方でその頃からこれまでの反対運動中心の、そして憲法9条に寄りかかる反戦・平和運動からの脱却を模索し始め、日本ボランティアセンター(JVC)などとの対話を続け、共同でシンポジウムを開き、日本の市民としての新たな「反戦・平和を意識したNGO活動」と「市民レベルでの国際協力活動を実践する平和運動」の必要性を確認しました。

1995年には1月17日阪神・淡路大震災後に、被災者の中の弱者への後方支援のために「震災被災者を支える東京連絡会」の活動を始め、そのつながりで被災者の公的支援の法制度の確立を求める市民・議員立法運動の事務局も担いました。これはその後、「被災者生活再建支援法」として成立させることができ、各地で起こった大地震・風水害の被災者に対し、支援金の支給が行われることになりました。

またその95年にはチェチェン戦争をきっかけに「市民平和基金」を設立し、平和を創るための新たなNGO活動をスタートさせました。2000年くらいまでは市民平和基金は、世界各地で起こった内戦や自然災害被災者への支援活動を積極的に行いましたが、次第にマスコミでは弱小NGOの活動が扱われなくなり、救援募金の集まりが少なくなったことと、大手のNGOが大規模な支援活動を行い始めたことから、活動内容を縮小し、その後はチェチェン問題に絞る形で活動を継続してきました。 チェチェン問題では、1999年9月から始まった第2次チェチェン戦争が長期化し、また次々と「テロ」事件が起こるなどしたことから、国内でも次第に関心を持つ人々が増え、市民平和基金は現在チェチェン問題に関心を持つ人々と共に、「チェチェン連絡会議」を結成し、チェチェン問題に関する様々な取組みを継続しています。

さらに同じ1995年にスタートさせたのが「市民活動FAX情報ネット」でした。当時はまだインターネットが今のようには普及していなく、情報メディアとして速報性を備えたものとしてFAXを活用した市民活動の情報提供サービスを数年に渡り継続しました。

このように90年代のピースネットはいわば 「行動する市民メディア」としての役割を果たしてきたと思います。その過程では渋谷の駅頭でのPKO法案市民投票の初日に右翼の街宣車に取り囲まれあわや 襲撃という事態にあったり、右翼からの脅迫電話がきたり、あるいは長年反原発市民グループなどに繰り返されてきたすさまじいがらせがピースネットにも加えられ、各種の嫌がらせの郵便物などが大量に届いたり、ある年の新年交流会の時などは頼んでいないお弁当やピザが次々届いたこともありました。

2001年以降は大きな活動はできませんでしたが、非暴力を中心とした内部学習会を経て、同じ事務所にある「非暴力平和隊・日本」と協力して非暴力連続講座を行ってきました。誌面も非暴力を柱にした市民メディアに絞り込む形でニュースの発行を継続してきました。

2005年からは首都圏の友人たちと話し合いを続ける中で、「自由」と「民権」をキーワードとした新たな学習・交流の場として「自由民権21」というグループも立ち上げ、定例学習会などを行ってきました。

ニュースの発行は一旦休止となりますが、今後も「チェチェン連絡会議」や「自由民権21」、そして非暴力社会の実現をめざしてゆっくりと歩みを続けていきたいと考えています。