「南京大虐殺」、その前後左右

田中 宏


 事件をどう考えるかについて、少し引いた地点からアプローチしてみたい。

戦後の日中関係の原点は、やはり1972年の「日中共同声明」である。 その時の周恩来総理の演説のキーワードは、「前事不忘、後事之師」、 そして「1894年からの半世紀……」であろう。 日清戦争からポツダム宣言の受諾までの「50年」 という時間枠を提示したのである。 満州事変からの「15年」戦争の終結なら、 台湾領有にまで遡ることはないのであり、 周総理は至極当然のことを指摘したのだった。

明治憲法下では四つの「戦争」、即ち、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、 第二次大戦があった。いずれも、天皇の「開戦の詔勅」が発せられている。 例えば、「朕、ここに清国に対し戦いを宣す……」と。 しかし、そこには、「いやしくも、国際法にもとらざる限り……」と、 「国際法遵守」をうたっていた。 同じことは、その後の日露戦争でも第一次大戦でも盛り込まれたが、 昭和天皇の第二次大戦の「開戦の詔勅」には、盛り込まれなかった。 なぜだろうか。

「戦争」は前述の四つだが、ほかに満州事変、日華事変、 上海事変などの「事変」がある。 戦争と事変の違いは、宣戦布告の有無によって区別されたようだ。 南京大虐殺の少し前の日華事変(1937年7月)の時、 この宣戦布告問題をめぐって、次のような経緯があった。 「山本海軍次官と梅津陸軍次官が、つれだって訪ねて来て、 両軍部とも宣戦布告はみあわせてもらわねばならぬということに、 意見が一致したとのことであった。 わけを聞くと、宣戦布告をしたとなれば、 外国からの軍需物資の輸入が甚だしく不自由になる……」と。

正式な「戦争」となれば、第三国には中立義務が生ずるからである。 また、捕虜の保護義務も生ずる。 陸軍省軍務局長武藤章が、東京裁判で、日本は中国に宣戦布告をしていないから、 捕虜は生じないし、従って捕虜虐待もありえない、と主張したことは有名である。 また、1937年8月の陸支密198号も、 「帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ、 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約〔ハーグ条約、日本加入〕 其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体事項ヲ悉〔ことごと〕 ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」と現地部隊に指示していた。

さらに、1931年9月の満州事変、32年3月の「満州国」擁立、そして、 リットン調査団の報告を不満として、日本は33年3月、 国際連盟を脱退したのである。 33年1月には、ナチがドイツの政権の座につき、同年10月、 ドイツも国際連盟から脱退を声明した。 こうした「前史」と合わせ考えると、 15年戦争期は“確信犯”として国際法を無視した期間ということになり、 第二次大戦の宣戦布告に「国際法の遵守」など入ろうはずがなかったのである。 もちろん国際法遵守が入ったからといって、 それが必らず遵守されるとは限らない。 しかし、国際法遵守が入らなかった場合、 その遵守はまず期待できないと見るのが常識だろう。

国際法遵守を掲げた「戦争」では、 日本はある面では忠実にそれを守ろうとしたようだ。 日露戦争では、ロシア兵捕虜約7万人が、 その健康などを考慮して温暖な四国・松山など28ヶ所の収容所に送られ、 衛生面はもろん、衣食にも細大の注意が払われ、 松山では道後温泉が開放されたという。 第一次大戦では、青島でドイツ兵4600人が捕虜となり、 日本国内11ヶ所(のちに6ヶ所)の収容所に送られ、やはり厚遇されたようだ。 特に有名なのは、徳島の板東(ばんどう)収容所(現鳴門市)で、 ドイツ兵捕虜によって演奏されたベートーベンの「第九」が、 日本での初演奏となったことである。こうした捕虜の厚遇は、 赤十字条約やハーグ条約に加入した 「文明国」日本をアピールするためのものだった。

しかし、一方、日清戦争から15年戦争期における中国人の処遇は、 まったく異なっており、典型的なダブル・スタンダードだったのである。 例えば、日清戦争における旅順攻略の際、多数の中国人捕虜を殺害し、 諸外国からの非難を受けたのである。中国人への異なった対応は、 1900年の北清事変でも見られ、第一次大戦中の「対中21ヶ条要求」、 そして前述の満州事変以降の“展開”に連なっていき、 中国の首都・南京を攻略する時にひとつの頂点に達したのである。

1937年12月、「南京陥落」に際して、 日本中が祝賀ムードに明け暮れた背景には、 明治以降の“脱亜入欧”、 即ちアジアに対する優越意識があったことはいうまでもない。 戦後の引揚げ統計によると、 その総数は約630万人(49%が軍人・軍属)に達するが、 内281万人は中国本土からである(軍人・軍属が110万人)。 中国本土では、他に71万人が戦死している。 15年戦争期間中、日本はいちども中国に宣戦布告をしていないが、 200万人近い兵を送り、民間人も170万人に及んでいたのである。

「我々はこんなひどい目に遇ったが、 日本にいったい何をしたからというのか」とかつて、中国で問われたことがある。 この素朴な疑問にどう答えるかが、今も問われているのである。

.

[ ホームページへ ][ 上へ ][ 前へ ][ 次へ ]


メール・アドレス:
nis@jca.apc.org