南京大虐殺遇難同胞のための
65年目の追悼活動に参加して
林 伯 耀
十二月十三日、六五年前のこの日、中華民国の首都南京は陥落した。この日を前後して日本中の町、村に南京陥落祝賀の提灯行列が繰り出され、国中が沸いていた。今は十二月十三日がいかなる日であったかを知る日本人は少ない。しかし、この日は、中国人の心に七・七(盧溝橋事変)、九・一八(柳条湖事変)と共に忘れる事のできない民族の屈辱の日として刻まれている。
二〇〇二年のこの日、六五年前に南京大虐殺で亡くなった三十万同胞を追悼する記念式典が南京で挙行された。日本からは、私と神戸華僑総会の林同春氏、それに毎年八月十五日に南京で中国人犠牲者のための追悼集会を開いている「銘心会南京」の松岡環氏(南京大虐殺60ヵ年全国連絡会共同代表)や「東史郎さんの南京裁判を支える会」の山内小夜子氏、ほかに日中協会、日中友好協会や労組関係の人々など百三十人ほどの人が参加した。数年前までは、いかに良心的な日本人といえども、南京大虐殺の犠牲者の追悼式典に日本人が公開的に参加することを、南京の人たちはかたくなに拒んできたのだが。
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式典は私の予想をはるかに越えて盛大で荘重なものだった。例年の12月13日の追悼式典といえば、普段の年で千人前後、節目の年でも一番多くて3千人規模の集会がせいぜいだった。しかし今年は8千人を優に越える人々が南京大屠殺紀念館広場に集まっていた。人が広場に溢れているといった形容が正しいかもしれない。正面には青地に白文字で「悼念南京大屠殺30万同胞遇難65周年儀式曁南京国際和平集会」と書かれた横断幕が高く掲げられていた。学生、生徒、市民、労働者、地域住民、民主党派、党政府の関係者、海外代表、それに解放軍の儀仗隊も参加していた。12月といってもそれほど寒いという感覚はなく、空はとても青く、陽の光がまぶしいほどだった。
私たちが到着した時、300名ほどの合唱団が男女に分かれて正面横のステージに並んで歌っていた。私たちが日本から来たという事で、次は日本語の歌だからと朱成山館長に言われて合唱団の前の列に押し込まれた。その歌は「紫金草、平和の花」というもので、この年の春頃に日本から来た合唱団が南京で歌ったものだ。南京城外の東北方向に南京城内を一望できる紫金山という山があるが、南京戦の時には激しい攻防戦があって中日双方に多くの犠牲者が出た。南京が陥落してから一人の日本兵士が紫金山の麓に咲き乱れていた花に強く心を打たれ、その種を日本に持ち帰り「あの戦争を忘れない為に」と自分の庭に植えたものを家族や友人たちがあちこちに種を送ったといわれている。当初は南京桜といわれたが可憐な薄紫の花の姿に、後に紫金草といわれるようになったらしい。今では誰が植えたか東京の千鳥が淵あたりにも咲いているということだ。
広場の正面には死者を弔う数多くの花輪が飾られていた。合唱が終わるとすぐに式典が始まった。最初に「起て、奴隷となるな人民」の義勇軍行進曲が流され、その荘厳な調べに会場はいちどに厳粛な雰囲気に包まれた。行進曲が終わると丁度午前10時、この時市内全域で追悼のサイレンが一斉に鳴りわたった。広場にいた人々は1分間の黙祷の中で、65年前に日本軍の銃剣のもとで殺されていった30万の同胞のことを思った。
黙祷の後、「安魂曲」が流れる中で解放軍儀仗隊による献花があり、続いて羅志軍南京市長の挨拶があった。「我々は今日、ここで再び歴史を温め、亡くなった同胞を追悼している。これは、世の人々に警鐘を打つ為です。すなわち永遠に歴史の悲劇を再演させてはならないと。我々はこの国辱を忘れてはならない。このことを人民大衆、とりわけ青少年にしっかりと教えねばならない。・・・・歴史をもって鑑とし、未来と向き合うのです。南京大虐殺が起きてすでに65年が経過した。しかし日本の極少数の右翼勢力は今なお頑固に南京大虐殺を否認し受難者とその家族の心を傷つけている。中国人民は決して許すことができない。これを批判することは、国家と民族の根本利益を守る上でも必要だし、中日両国人民の世々代々の友好の為にも必要だ」と話をした。「重温歴史」という市長の言葉は意味深長だった。歴史をもう一度深く吟味しそこから教訓を引き出そうという意味が強く込められているように思う。
集会の最後に発表された「南京和平宣言」は、中国人民が平和を熱望していることを内外に力強く宣言した。南京平和宣言は言う。「中国人民は平和を熱愛しています。私達は戦争の暴力に反対し、テロリズムに反対し、いかなる形であれ、人々の生命と財産に危害を加える全ての不正義の行為に反対します。平和こそ我々人類の生存が依拠しうる唯一の礎です。今日、30万の霊魂のために一枝の白い花を捧げ、一本の蝋燭に火をつけるのも、すべてこの素朴な真理を物語っています。私達は、この痛ましい歴史の記憶をしっかりと心に刻んで、生気と活力に溢れた地上に人類の共通の願いを込めて希望の種を撒きましょう。人類には戦争は不要です。世界は平和を求めています。」と。
集会の終了と同時に放たれた数百羽の鳩が、広場の上を高くいつまでもぐるぐると飛び回っていた。この朝、長江江岸の下関埠頭でも「江祭」(註:中国語の「祭」は人を弔うの意味)が催され、400人余の人々が集まって、献花したり、江上に花を流したりして、当時の揚子江岸で或いは江上で虐殺された同胞たちを追悼した。
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その日の午後4時半、私達は再び南京大屠殺紀念館の広場に集まった。南京では初めてのキャンドルデモだ。私は目を見張った。60周年の時もキャンドルデモを申請して却下されたという経緯がある。92年の夏には日本から100人ほどの人々が参加し、南京の各方面も参加して、それにアメリカからの参加者も含めて、共同で追悼集会と国際シンポジウムを開催しようとしたが、土壇場で日本から首相が訪中するという事で流れたことがある。すでに、広場は、学生や市民たちでいっぱいだった。5時過ぎ頃、デモ隊は出発した。横列に15人から20人ほど並ぶ幅の広いデモだ。先頭の学生たちは長い横断幕を掲げていた。横断幕には、「悼念南京大屠殺30万同胞遇難65周年」と書かれていた。明らかに、その服装から、宗教界の代表の人たちと分かる人々が私達の前を歩いていた。キリスト教、道教、イスラム教、仏教などの各界の代表だ。よくお会いする南京大虐殺の生存者、李秀英さんも車椅子に乗って列の中にいた。私達は、配られた電池で点灯するキャンドルを手に手に持って行進した。
大通りの半分の片側車線がデモ行進に使われた。片側車線といっても、3車線もあるのでデモ隊は悠々と行進できた。両側は、このデモ隊を見る人々でいっぱいだった。間もなくすると、市民たちが次々とデモ隊の中に参加してきた。たくさんの公安警察が出ていたが、誰も市民たちの参加を阻止しようとはしなかった。市民たちの多くは、子供の手を引いたり、幼い子を肩車したりして参加してきた。私は、「なぜ、子供を連れて参加するのか」と尋ねると、「子供たちにこの歴史の事実を教えたいからだ」という返事が返ってきた。市民たちが次々とデモの中に加わってくるので、デモ隊は見る見る内に前後に膨れ上がり、私たちが出発するときは、先頭から、10メートル以内だったはずだが、終わりごろには先頭が見えないほど前からかなり離れてしまっていた。デモの長さは2キロメートル以上は充分にあったと思う。私は、時々、背伸びして後ろや周辺を見渡しながら推計した。最初出発した時は5千人ほどだったが、多分いま控えめに見積もっても2万人はいるだろうと。
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静かなデモだった。スローガンを叫ぶわけでもなかったし、こぶしを振り上げることもなかった。人々は黙々と歩いた。デモの前をゆっくりと走る先導車の上は、カメラマンで鈴なりだった。先導車の上からも、周辺からもフラッシュの閃光がひっきりなしに光っていた。片側車線に次々と止められている公共バスからは窓を開けて人々がデモ隊に向かってさかんに手を振っているのが見えた。私達は、松岡さんが用意してきた赤地の生地の上に「前事不忘、後事之師」と太い筆で大書しその上に多くの仲間が署名した幅2メートル、横1メートルの旗を前に掲げて持って歩いた。人々は黙々と歩いた。時々キャンドルを片手に高く掲げたり、一部に手をつないでフランス式のデモをする人々もいたが、とにかく黙々として歩いた。先導車から流れてくる鎮魂の音楽と人々の衣の擦れ合う音、それに人々のざわざわと歩く足音が12月の南京の夜空に吸い込まれていった。時々、公安警察の罵声や、車の警笛が耳に入ってくることもあったが、いつもの町の喧騒はなく概して静かだった。こんなにもたくさんの群衆がこんなにも黙って静かに歩くなんて。人々の心は沈んでいたのかも知れない。それは、不思議な光景だった。
私は、65年前に、日本軍によって「便衣兵狩り」の名目で集められた男たちが長蛇の列をつくって揚子江に向かって黙々として引き立てられていった情景を思い起こした。あれは辛うじて生き残った裁縫屋の息子の劉さんの話だったなと思った。不安と恐怖の思いで足が鉛のように重かったと劉さんは言っていた。やがて私もいつのまにか足を引きずるようにして歩いていた。すると後ろから来る人たちが私にぶつかってきた。気をつけないと群衆に踏み潰されるかもしれない。私は、あわてて足を早めた。すると、また揚子江岸の集団虐殺で、同胞の死体の間に挟まれて、息をひそめて生きていた駱さんの話を思い出した。生きていることが分かれば日本兵がすぐに飛んできて止めをさすだろうと駱さんは言っていた。そうだ、息をひそめなければ。「シナ人が生きていると分かれば、死体の山に上がってそいつののど仏を目がけて銃剣で一気に突き刺すんや。そしたら、ピューと血が噴出して、シナ人の顔面がみるみる蒼白になっていくんや」と、こたつに手を入れながらこともなげに語った十六師団三十三連隊の元兵士の話を思い出した。この兵士は太平門で、中国人の兵士や市民を地雷で爆殺してから検死に立ち会った人間だ。それならば、もっとしっかりと息をひそめなくては。私は急いで息をひそめた。もっと、もっと。やがて、とても息苦しくなってきて額が少し汗ばんできたようだ。・・・・。
すると、私の様子が変だったのかデモ隊の傍を歩いていて、我々海外からの参加者を世話している腕章を着けた新聞弁公室の人がとんできて、「林先生、具合がわるいですか」と尋ねてきた。「いや、何でもありません。ありがとう」と言って私はあわてて深く息を吸い込んだ。・・・・。周囲を見渡すと、人々は相変わらず黙々と歩いていた。私は、深い感動を覚えた。65年前、人々は突然襲ってきた日本軍たちによって、捕らえられ、引き立てられ、虫けらのように殺されていった。どんなに恐ろしかったことだろう。どんなにみじめな思いをしたことだろう。苦痛で顔がひきつったにちがいない。あれからどれほど日本兵を恨んだことだろうか。あなたたちが人間としての尊厳を踏みにじられたあの日から65年が過ぎた。あなたたちの霊魂は、今なお南京の夜空をさまよっている。あなたたちは、永遠に落ち着く先のない霊魂たち。それでも今、私達は、あなたたちのことを思って、歩く、歩く、歩いている。65年前銃剣によってこの世から無理やりに引き剥がされた南京の霊魂たち、あなたたちは、いまなお、目をつぶるにもつぶれないでいる。あの天皇の軍隊を送り出した国は、自国民の権利は声高に主張するけれども、自国の国家テロで倒れたアジアの死者の人権など眼中にはないのだ。あなたたちを傷つけた者たち、それにつながる人たちが、あなたたちに謝罪もしないばかりか傷つけた事実すらも認めようとはしない。これではあなたたち民族の心に受けた傷は、今に至るもなお癒えることがない。これは死者の無念であり、生者の恥である。私は一人の中国人として、一人の人間として恥ずかしく思う。ああ、けれども、私にはあなたたちの心を癒すために何ひとつしてあげることもできない。私の心は痛むばかりだ。ただあなたたちのことを思って、いまひたすらに歩いている。
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ふと気がつくと、デモ隊は、最終目的地の和平公園に到着していた。和平公園というのはこの日のために莫愁湖畔の漢中門広場に命名された新しい公園の名前だ。みんなが到着すると「キャンドル祭」が始まった。公園の内も外も人、人、人でいっぱい。最初に、赤々と燃える炎のやぐらを背景に公園のステージの上で、英語のナレーシヨンも加えた男女4人による詩の群読があり、人々を65年前に引き込んでいった。その透き通った、時にはりりしく、時には胸の張り裂けるような悲しい声は、夜空をさまよう霊魂たちにも語りかけているようだった。生存者の李秀英さんが車椅子で登場して「この歴史を忘れてはならない、私たちには戦争はいらない。私たちが求めているのは平和だ」と語ったのが印象的だった。終わり頃になって、白衣のドレスを着た100名ほどの女性合唱団によるコーラスがあり、死者の霊を慰めると共に、南京の人々の平和への熱い思いを歌いあげた。このようにして、民族の忘れがたい悲しみの記憶は、この日、人々の心の中に、南京の夜のとばりの中に静かに包み込まれていった。
私は、帰りのバスの中で、少し疲れた体を椅子にもたせながら、あるフランス抵抗詩人の詩の一節を思い出していた。
死んだ人々は還ってこない以上、生き残った人々は何をわかればいい?
死んだ人々は還ってこない以上、生き残った人々は何をすればいい?
(南京にて、2002年12月15日 記)
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