南京だより
世界最大の城壁都市、南京
合田 佳世子
1 南京に初めての信号機が登場した頃
私が初めてこの地を訪れた95年当時、市内の大きな交差点はすべてロータリーであった。乗り物は自転車とバスが主流で、ロータリー中心部に決まって設置されている銅像やオブジェを中心に車や自転車が左周りで回転し、自分の行きたい方向の道の前にさしかかったら、ひょいとその流れから抜け出さなくてはならなかった。この方式に不慣れな日本人は、どうもこれが苦手らしい。上手に曲がれずにバスに衝突しそうになって自転車の運転を断念したという友人もいたほどである。私も張り切って挑戦してはみたものの、なかなかうまく車の流れから抜け出すことが出来ず、ロータリーを自転車で2周するという羽目になったりもした。
その年、南京では国民体育大会という国家レベルの一大イベントが開催されることになり、会場となる五台山体育場(南京師範大学『旧金陵女子大学』そば)近くを通る上海路と広州路(南京師範大学脇を通り、南京大学西門前、旧ラーべ邸へとつながる)は急ピッチで整備拡張され、その二つの通りが交わる交差点中心部には、ある日突然信号機が登場した。道路の中心部にポンと置かれたという方が正しいかもしれない。可動式のものなので本当にいきなりの出現である。それまでは警察官が段上に立って交通整理を行っていたから市民達は戸惑った。何しろ1日にして設置されてしまった信号機だったので、「青が渡れ」で「赤が止まれ」だなんて、いったい誰が理解できよう。いつでもどこでも自由に道を横断するというお国柄だというのに。
そんな事情からか、しばらくの間機械の傍らには警察官が連れ添い、信号機に従って笛を鳴り響かせて、以前と変らぬ業務を行っていた。今から思えば、あれが南京市内初の信号機の登場であった。
2 押し寄せる改革解放経済の波
さらに数ヶ月後、南京師範大学の敷地内にショッピングセンター、ガソリンスタンド、マクドナルドが次々とオープンした。国立大学の敷地内であり、しかも大学の顔にあたる正門と建物が居並ぶ場所に民間経営のテナントを堂々と間借りさせるという、アッと驚く資本主義経済導入方法を目の当たりにし、その大胆さには留学生の誰もが感服した。その後、次第に南京師範大学正門前の寧海路から国営商店が1つ2つと姿を消し、大学に沿った横道にあたる漢口西路には原宿を彷彿とさせるような若者向きのファッション街が形成されていき、あたりの雰囲気を一変させていった。
このようにして、南京に初めての信号機が登場した頃から、資本主義経済の波が徐々に押し寄せてきていたのだろうが、ここ2、3年の間には更に街の様子が一変し、21世紀の到来と共に加速度的な変貌を遂げている。光ファイバーの回線は瞬く間に市内中心部に引かれ、インターネットの高速通信は一般家庭にも普及した。2005年完成予定の地下鉄の工事と並行して進められている新街口地下鉄駅周辺の大規模な地下ショッピングセンターの形成。南京市郊外の地下鉄路線上の高級マンションが林立するベットタウン、獅子橋、王府大街、漢府街のレストラン街『美食街』が次々と形成されていき、南京は着実に近代都市への道を歩み始めた。数年前までは30年前の日本を再現したような暮らしぶりがそこにあったのに、今では世界中の最先端技術や商品が街に溢れだし、すべてが庶民の手に届く場所にある。
3 隠された城門の出現
五台山体育場周辺に続く市内主用道路の拡張工事に伴い、次々と街路樹が切り倒されたり、道幅に合わせて切り刻まれていき、夫子廟周辺の趣ある古民居街も取り壊されて知らぬ間に姿を消していった。南京を第二の故郷と慕う私には、それまでと一変して歌舞伎町を彷彿とさせるような派手なネオンサインがギラギラと輝き、高層ビル建設が進んで主用道路の両脇を埋め尽くそうとする今日の街の有り様に、どこかもの悲しさを感ぜずにはいられなかった。
そんなある日のこと、私は大型スーパーへと買い物に向かった。タクシーの車窓から何気なく通りすがりの風景を眺めていた時、私の視界の中に石垣のような石塊が跳びこんできた。車はあれよ、あれよという間に通り過ぎていってしまい、その物がいったい何であったのか確認の余地もなかった。撤去作業中の灰色の壁の隙間からチラリと顔を覗かせたその姿が私には忘れられず、さっさと用事を済ませてその石の塊の元へとUターンした。
するとそこは日系S工場の跡地だった。取り壊し中の塀の中を覗きこんでみると、蔦が絡まる重量感に満ちた城門が忽然と姿を現した。それは噂に聞く南京城の城門、西華門だった。南京には未公開の遺跡や古建築が数多く存在するが、それらは国家重要基地内や個人や企業の所有地内にあったりするために、なかなか見学が許されなかった。最近ではそういった場所をカメラに収めた写真集も出始めたので、その姿に写真でならお目にかかれるという情況であった。そんな隠された文化遺産の一つが、この西華門(旧西安門)だった。
以来、私は外出する度に車窓から見える風景を凝視するようになった。気が付けば街中いたる所で城壁や城門が次々と姿を現し始めていた。修復、復興作業に加え、城壁前を占拠していた商店や民家が取り壊されたこともあり、城内を包み込むようにして連なる美しい城壁のラインが見事に浮かび上がってきたのである。
4 世界一の規模を誇る南京の城壁
南京に、首都陥落や松井石根総指令官の入城式で有名になった中華門や中山門が存在することはご周知のとおりだが、市内中心部にあたる区域をぐるりと取り囲んで造られた全長33,676km、世界最大の規模を誇るという南京城の城壁の存在は以外と知られていない。古代軍事史上重要な標本としても興味深いこの城壁は、1366年 明の皇帝・朱元璋(1328〜1398)が都を南京に定めた後、全国各地から工匠、工夫としての罪人など百万人余りを動因して建造させた。30余年の歳月を経て、1391年に土で固めた全長60kmの外郭を、その2年後1393年にはこの城壁を完成させている。都市部の中核を成すのは、現在『明故宮』と呼ばれている『紫金城』で、北京のそれは南京を模して作られたという。
城壁といっても、南京の場合は明代の創建。太平天国、国民党政権下と中国近代史の表舞台であっただけに、数々の戦乱や混乱によって破壊が進み、完壁な形では決して保存されていないが、それでも確かに毎年更新される南京市の地図を見ると、確かにその存在が浮かび上がってくる。
都市部をぐるりと取り囲むその姿は、玄武湖の描くゆるやかなカーブに沿って築かれ、自然の河川の流れをクリークとして利用し、背景には紫金山、側面には長江が寄り添うという、自然と一体化した江南の庭園文化を彷彿とさせるような、なんともいえぬ雅な風情が漂っている。
このような江南特有の丘の稜線、緑、湖、天然の河川に囲まれた風光明媚な趣ある『山水城林の融合』のみごとな城壁は世界的にも稀有な存在なのだそうだ。
太平天国、清国軍、日本軍、大躍進時代と、相次ぐ破壊によって朽ち果てた城壁も、1982年南京市人民政府発令による城壁保護通告(通知)の公布により、20余年の歳月を経た現在では全長33,676公里のうち約3分の2までの修復が間近となっている。創建当時13あった城門のうち修復され現存するのは、玄武門(旧神策門)、中山門(旧朝陽門)、中華門(旧聚宝門)、集慶門(旧三山門)、漢中門(旧石城門)の5門である。その他にも、1915年建造の?江門、1988年建造の解放門が現存し、明故宮の正面入り口の午門、東と西の東華門、西華門も修復改築され、市民の憩いの場として開放されている。
1月22日付の地元有力紙『揚子晩報』には、「城壁の名称を明代の創建当時に戻すことが決定した」とあり、私達日本人にとって馴染みの深い、忘れることの出来ない『中華門』『中山門』といった名前が消えてしまうことになった。蒋介石の手による『中華門』の題字が取り払われる日も間近である。
5 明代南京城壁一周コース
春節を間近に控えたうららかな日差しのある日、私は友人を伴い南京城壁一周のツアーを企画した。朝9時、小型バスをチャーターした私達一行は、この城壁のアウトラインを辿ると同時に、現存する城門を一つ一つ訪ねてみることにする。出発地点は最北端の中央門。この門は現存しないが、このあたりから城壁は玄武湖に沿って紫金山まで延びていて、中央路を通ると城壁が所どころで頭を覗かせている。
最初の城門は玄武門。ここは玄武湖公園の入り口となっており、城門の上には近年建設された映画のセットのような木造建造物が乗っていて多少興ざめの感あり。急いで次のポイントである解放門へと進む。
解放門は前述の通り歴史は浅いが、門上にある『南京市明城垣史博物館』には南京城の模型があり、当時の城壁の全貌がうかがえる。城壁の上に登ると、そこは万里の長城かと錯覚しそうなほど、見事なまでに果てしなく一直線に延びた城壁の姿がそこにあった。目前には広大な玄武湖、その彼方には霞のかかった紫金山が幽かに姿を覗かせている。すぐ隣にある鶏鳴寺のお堂や塔も城壁の景観の一つとして一体化し、なかなか見応えのあるスポットである。城壁全体の規模からいえば、わずか40分の1程度に過ぎない距離ではあるが、ここから九華山方面へ向かって散歩するだけでも、世界に誇る堂々たる城壁の街の風情が充分に満喫できる。
城壁は紫金山の麓にさしかかると急にその高さを増す。林の中に見え隠れするその姿は、ひっそりと敵の襲撃に備えているかのような厳粛さを湛えている。その側面には無数の鉄砲傷と思しきかつての戦乱の爪跡が残されていた。このあたりの景観は、おそらく600年余りの時を隔てた今日と、そう変ることのないものなのではなかろうか。訪れた仲間全員がこの場所を大絶賛していたところをみると、やはり歴史というものは体感するものなのだということがよく解る。机上では決して知り得ないことが沢山眠っている。
紫金山の麓を離れると、お馴染みの中山門が姿を現す。かつての日本侵略の歴史を思い厳粛な気持ちになる。しかし、城門上からの眺めはあまりに見事で、この辺りの瀟洒な建築物と外資系高層ホテルとのコントラストが妙にマッチしていている。一直線に伸びる中山路が真下を通過しているだけに、門前に視界をさえぎる建造物が何もないので、すがすがしい気分を味わうには絶好の場所だ。
ここから城壁は自然のクリークに囲まれる。高級住宅街の月牙湖公園沿いに残る城壁を望みながら南へと進む。次のポイントの中華門までにも城壁は多少残されているが、いずれにせよ車が入れる道が城壁沿いに見当たらず、通行を断念。一挙に中華門へと走る。中華門は南京城の南の塞であり、日本人としては最も近寄りがたい城門である。どうしても、かつての首都陥落の新聞記事や提灯行列の光景が思い浮かんでくるので、最も優れた設備を誇る城門として名高いものとは知りながらも避けて通ることが多いようである。ツアーメンバーは、南京に暮らし始めた直後にこの城門を訪れた人達ばかりであったので、今回は記念撮影のみに留めて次のポイントへと移動することにする。
中華門からは城門の外側に出て、川の向こう岸から城壁を眺めるコースを辿る。城壁の外側から川の岸壁ぎりぎりまで、びっしりと埋め尽くすように建てられていた民家も取り壊し中。一足先に撤去作業が進められた区域では、城壁の姿がかなり遥かかなたまで望めるようになっていて、空港から市内へ向かう途中の車窓から眺めると「ああ、城壁の街にやって来たのだ」という実感が湧くエリアだ。
ここから車は北へと向かい、次のポイントは集慶門。この城門は修復というよりも復興という感が強く、周囲の城壁も真新しい煉瓦が多い。城壁上の散歩コースを建設中の様子だったので、このままいけば白鷲洲公園から中華門を経由し、この城門上を通って少し先の水西門まで散歩が楽しめることになる。
次のスポットは漢中門。ここは中華門同様の構造で西の塞。ぐるりと広場に囲まれている。市内から虐殺記念館へ向かう途中で必ず通過する地点にあるのでおなじみの城門である。かつての場所はこれより西にあったとされる。漢中門の北側清涼門大街あたりから城壁が復活し、国防園まで延びる。ここまでくると景観はあまり大差がなくなる。
最後の城壁エリアは、テレビタワー辺りから長江大橋近くの獅子山をぐるりと囲んだところまで。獅子山には、朱元璋が描いたとおりの塔やお堂がある。これらは近年になって建立されたものなので歴史はないが、ここからの長江の眺めはすばらしいと評判も上々である。遠くから獅子山の城壁を眺め、車は明故宮へと向かう。そろそろ夕暮れ時なのであまり時間はない。そこで、お待ちかねの西華門に真っ先に到着。そこは、かつて工場の跡地であったとはとても想像がつかないほど、綺麗に整備された公園として生まれ変っていた。公園の中には洒落たベンチが並び、赤煉瓦が敷き詰められた敷地内には沢山のカップル、親子連れがそれぞれ思い思いのひとときを楽しんでいた。
明故宮の西の塞の次は、東の塞である。明故宮を中心に対称的に作られたという東華門は、やはり以前は建物か壁であったのか、何かに覆い隠されていてその姿を見ることはできなかった。ここもやはり同じように中央に城門を据えた公園となっていた。最後にお馴染みの明故宮の正面玄関、午門を車窓から見学したころには、日が暮れる直前で、あたりの空気もすっかり冷えきっていた。
6 庶民生活と城門
こうして、無事に南京城一周ツアーを終了し、私の興味はある方向へと向かい出した。それは、市民生活の中に溶け込んだ城壁の存在である。中華門前の広場には、連日鳥を飼う人達が集い、鳥の鳴き声自慢や、鳥をパッと空中にほおり投げては続けざまに物を投げ、鳥にくわえさせて掌に戻らせるという、昔ながらの鳥自慢が繰り広げられている。飼い主の元へと吸い込まれるように飛来する姿が一興だ。他にも、一心に凧を揚げ続けるおじさんがいたり、車座に座り込んで何やら楽しげに話し込む人たちの姿がある。そこは観光客の目など気にせずに、只ひたすら自らの楽しみのためにだけに、集い、語り合う場所なのだろう。私はそんな中に1人よそ者であることを忘れて、ぼんやりとその光景を眺めていたりする事がとても楽しい。明故宮しかり、朝天宮しかり、そして最近オープンしたばかりの東華門、西華門しかりである。中国の良さは、そういった人々のくつろげる場所、憩いの場所が其処かしこに用意されている点だ。ひとたびそこに足を踏み入れれば、私自身も憩いの人、そこの主になれる。ここに集う時、人々のまなざしはやさしく、おおらかな気分に満ちている。日常の喧騒がうそのようだ。
南京には庶民の生活の中に、暮らしの中に城壁があり、城門がある。観光客だけの為だけには存在し得ない場所、くつろぎのスポット。個人的な営利の介入する余地のない空間、ひたすらその空間を楽しむために用意された場所。そんなユートピアのような世界が、確かにここには存在するのかもしれない。日常生活に一度戻れば、ここにいる人々の顔も、行いも変っていくに違いない。しかし、一度ここに足を踏み入れれば、ここにいる時だけは心が満ち足りた気分になれる。安らかな気持ちになれる。そんな場所を中国の人々は遺伝子の中に脈々と受け継いでいるに違いない。
国慶節の日に私は平遥を訪れ、徒歩で城壁上一周を試みた。この街は小ぶりで城壁に上れば簡単に全城壁が見渡せる。明清時代にタイムスリップしたかのような城内の風景は映画村を上から覗き込んでいるかのようで楽しいものだが、なんといっても印象深かったのは、それまでなかなか覗き見ることが出来なかった四合院の中の生活風景だった。
四方をぐるり取り囲むように建てられた家の真ん中には、文字通りの中庭があり、その中を3歳位の男の子が三輪車に乗り廻している。傍らには母親と思しき女性が洗濯物を干しながら何やら子供に語りかけている。母親が部屋の奥へと入ってしまうと、今度はおばあさんが庭先の椅子に腰掛けて、子供の遊ぶ姿を目を細めて眺めている。その光景に見とれている私に気づいた男の子は、うれしそうに全身を震わせて手を振り始めた。思わず私も両手を思いっきり振り返す。顔にはもちろん満面の笑顔を称えながら。
人間にとって必要なものは、そんな笑顔のやり取り、コミュニケーションが行き交う安らぎの場所だ。中国の人々はその空間の存在を忘れない限り、悠久の歴史を絶やすこともなければ、決して他文化に同化していくこともないであろう。この南京においても、その文化は脈々と受け継がれているようだ。
現在、南京市では西安、平遥に続く城壁の街を目指し、世界文化遺産の登録を申請中である。今後、南京の城壁は新たな観光スポットとして世界的にも脚光を浴びることになるであろう。
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