私の親族から聞いた戦争の話(その二)

関口 直甫さん

 2002年3月9日ノーモア南京の会の勉強会で、関口直甫さん(1925年生)にお話していただきました。以下はその後半部分のテープ起こし原稿です。


 それから私の叔父の方、これは母の弟ですけれど、私が子供から中学のころ、割合近くに住んでおりまして、母とは仲が良かったものですから、しょっちゅう遊びに来て、私や私の父などといろいろ話をしていたわけです。こちらは日中戦争ですね。この叔父は2回召集されまして、1回は日中戦争、いわゆる「支邦事変」です、に参加して2年くらい戦地におりまして帰ってきて、しばらく普通の市民として働いていたんですけれども、太平洋戦争が始まってからまた召集されまして、でかけた所は中国でした。叔父は中国以外の国には行っていないようです。みなさんとしては、中国で何をしたかということにご関心があるかと思うのですけれど、残念ですけれども祖父の方はお話しすることは山のようにあるんですけれども、叔父の方は本当に話すことが少ないんですね。なぜそうなるかということは後でお話しいたします。[1]

2.叔父たちの戦争体験
2−1叔父の語ったこと、語らなかったこと

 祖父については[2]、語ればいくらでも話はあるんですけれど、もうひとつは私の叔父の話です。叔父は、学校出てから、今でもある集英社という出版社がありますね、あすこの印刷工だったんです。それが召集を受けましたのは、日中戦争が始まって露溝橋事件があって、その年の秋だったと思います。召集を受けまして、2年くらい中国に行って帰ってきました。この叔父と私の母は仲が良かったものですから、しょっちゅうやってきまして、いろいろ話をするんですけれども、いよいよ兵隊から帰ってきて今日来るとというんで、そのころ私は中学生でしたけれども、戦争の話が聞けると思って叔父を迎えたんですけれども、叔父は開口一番に言ったことは、「入営中のことと戦地へ行った時のことは一切話してはいけないことになっておりますので、そのことについてはお話しできません」と開口一番言いました。世間話しかしないんです。
 その後もしょっちゅう来るんですけれども、戦争中のことは何も言わないんですけれども、やっぱり2年間もいろいろ体験をすれば、いろんな話が出るわけですよ。その中で二、三の話をしますと、戦地に行って一番いやな思いをしたと、いうことを話すんです。それは、夜星の下で兵隊が野営をしますと、歩哨というのを立てます。自分が歩哨になった、そしたら真っ暗な中で自分の近くで動いているものがある。歩哨がそういうものを見付けたときに、どうするかというと、中学校の教練の教科書に書いてありましたけれど、「誰か」と三回呼べというんですよ。「誰か」といっても日本語で呼ぶんですから、これは中国人にはわかるわけはないんですけれども、とにかく「誰か」、「誰か」、「誰か」と言うんですけれど、みんな怖いから、「誰か」、「誰か」、「誰か」、バン、それが普通なんですね。とにかく叔父もそれをやって、撃った。そしたら、それが赤ん坊を抱えた母親だったっていうんですよ。で、弾が母親に当たりまして母親はそこで即死しちゃった。抱えていた赤ん坊はギャーッと泣き出したわけです。ですけど軍隊ってとこは歩哨は一切知らん顔して絶対手出しをしちゃいかんことになってるんですね。で、ギャーっていうのを聞いているわけですよ。それが、その赤ん坊はそれから何日も生きていたっていうんですね。夜になるとワーワー泣いていると、それが一日ごとに泣き声がかすかになっていくと、それを聞いているのが、あれが一番いやな思いででしたと、そういうことを叔父は話していました。
 これがひとつの話なんですけれど、それからもうひとつ、こんな話もしました。中国の軍隊には、女の兵隊がいる。それが髪の刈り方も、着ている服装も男と同じなんで、一見したところ男なんだか女なんだかわからないんだと言うんです。父が、「じゃどうして女だってわかるんですか?」と聞いたら、答えないんですね。父が「裸にすればわかるんですか?」って言ったら、「はあ」とか、蚊の泣くような声で答えまして、すぐに話題を変えてしまいました。
 叔父はそういうことで、ほとんど出征中のことは語らなかったんですけれど、それからもうひとつ印象に残ったのは、世の中で敗戦国民になるほど悲惨なことはないと、敗戦国民にだけは絶対なりたくないものだと、そういうことを言ってました。じゃあ、どういうふうに悲惨なんだと、そういうことについては言わないんですね。ただそう言っていた。ま、叔父については聞いたことはこれくらいのことです。

2−2叔母の夫の語ったこと
 もう一人、思い出したんで話しますけど、やはり私の父の妹の旦那のことです。父の妹の旦那というのが陸軍の砲兵で、将校で、これは漢口、武漢三鎮と言っておりましたあちらのほうへ行ってたんです。帰ってこういう話をするんです。キリスト教というのは非常に悪い宗教だと言うんですね。「どうして悪いんですか?」と聞いたら、あるときアメリカの飛行機が飛んできた。で打ち落とした。そしたら、操縦士はパラシュートで降りてきた。確かこのへんで降りたということはわかる、パラシュートもあるんだけれども、ところが肝心のアメリカ兵がいない。で、どこに隠れたんだろうというんで、一所懸命探したんだけれどもわからない。ところが丘の上に教会があったというんです。どうもその教会が怪しいっていうんで、その教会を徹底的に探したら、天井裏かどこかに隠れていたというんです。こういうアメリカ兵をかくまうようなキリスト教は、非常に悪い宗教だと叔父は言ってました。
 それから、この叔父についちゃいろんな話があるんですけれど、やっぱり非常に悪いこともやったんですよ。今の鈴木宗男氏と同じようなもんで、とうとうそれがばれちゃって退官になったんですけれど、退官になったときに部下の将校がいろんな記念写真を撮ってアルバムを作ってくれたんです。だいたいがその叔父が普段接触していた部下の写真なんですけど、中をめくっていきますと、女の人が二、三人かたまっている写真がある。それは一枚だけでなく何枚もあるんですけど、はて、兵隊ばかり写っている写真の中に、女の人が写っている。それはどういう人かというと、服装はセータを着てスカートをはいている女なんです。当時は女の人というと、もんぺ姿とかそういった人が多かったんですけれど、セータを着てスカートをはいている。それが一人だけじゃなくて二、三人かたまって写っているようなものでしたけれど、僕は、「この女の人たちはどういう人ですか?」って聞いたら、それは女中だと言うんですよ。「へー」と、軍隊に女中なんてのがいるんだろうかと思いましたが、僕はそれ以上は聞きませんでした。ところが、その子供、僕のいとこがいて、その子に聞きました。そういういかがわしい職業の女というのは、軍隊の高級将校には特別に配属されていたのです。従軍慰安婦というのがいたというんですけれど、従軍慰安婦というのは、これは下の、下級の兵隊に対するものなんですけれど、高級将校ってのは、ちゃんと日本かられっきとした芸者かなんかを連れてきて、軍隊の中で生活していたらしいです。そういうものだったんだということを私のいとこから聞きました。そういうような状況でした。
 私の親族についてお話しできることはこれくらいかなということです。
(テープ起こしと編集、RS)

注および参考文献
[1]この前置き部分は「親族から聞いた戦争の話(一)」と重複します。編者注

[2]関口正路、1864年(元治元年)米沢生、南京大虐殺のあった1937年没。
   正路氏のことは私の親族から聞いた戦争の話(その一)を併せてご参照ください。


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