私の親族から聞いた戦争の話(一)
関口 直甫さん
2002年3月9日ノーモア南京の会の勉強会で、関口直甫さん(1925年生)にお話していただきました。以下はその前半部分のテープ起こし原稿です。
ご紹介ありましたように、今日は私の親族で戦争を体験した者から聞いたことをお話するということです。私の親族といいましてもまず、私の祖父ですね、祖父は根っからの軍人でありまして、日清戦争と日露戦争に参加いたしました。日露戦争から帰ってきてから今度は朝鮮に警備隊といいますか、そういうことで出征…、という戦争体験を持っているわけです。
それから私の叔父の方、これは母の弟ですけれど、私が子供から中学のころ、割合近くに住んでおりまして、母とは仲が良かったものですから、しょっちゅう遊びに来て、私や私の父などといろいろ話をしていたわけです。こちらは日中戦争ですね。この叔父は2回召集されまして、1回は日中戦争、いわゆる「支邦事変」です、に参加して2年くらい戦地におりまして帰ってきて、しばらく普通の市民として働いていたんですけれども、太平洋戦争が始まってからまた召集されまして、でかけた所は中国でした。叔父は中国以外の国には行っていないようです。みなさんとしては、中国で何をしたかということにご関心があるかと思うのですけれど、残念ですけれども祖父の方はお話しすることは山のようにあるんですけれども、叔父の方は本当に話すことが少ないんですね。なぜそうなるかということは後でお話しいたします。
1.祖父の残した文章と語ったこと
祖父正路[1]の方は記録癖といいますか、生まれたときから死ぬまでの経歴書、免状、賞状、いろんなものを貯めて持っていました。それから、戦争に行くと必ず陣中日誌というものをつけました。祖父は隊長ですね、日清戦争のときは中隊長、日露戦争のときは大隊長という指揮官として戦争に参加して、指揮官としての立場から日記をこまごまとつけているわけです。その他いろんな記録を残していまして、それをつなぎ合わせますと、かなり完全な伝記ができちゃうんですね。それで私もそれを見まして、これはそれらを要約して祖父の経歴というのをずっと書いてみたものです[2]。かなりお話することがあって、話し出せばかなりの分量の話になるんですが、大部分はあるいは全部が日露戦争以前の話ですね。ここの会は主として日中戦争の方にご関心をお持ちだと思いますので、こちらの方(関口さんがまとめたファイル)を詳しくお話ししないで、ごく重大なさわりだけをお話するにとどめたいと思いますが、それでもかなりいろんな話すことがあります。
1−1日露戦争の話
始めからやっていますと時間がありませんので、まず日露戦争のほうから、ある重要なことをひとつお話してみたいと思います。日露戦争の、祖父が従軍したときの記録としては、まず一番完全なものというか、詳しいものとしては従軍日記というものがあるわけです。これは、第1巻、第2巻とあったらしい、実際に私も中学校時代見た記憶があるんですけれども、祖父が亡くなってしばらくたってから探してみましたら、そのうち第4巻しかないんですよ。というのは、私の父が祖父が亡くなった後に叔父、叔母、かなりたくさんの叔父、叔母がいたんですけれども、それに形見だといって配っちゃったらしいんです。そのうち第4巻というのは祖父としては一番働いた、人生、一番の花というか、戦争の時代のことが書いてあるんですけれど、それがあります。
(1)黒溝台の戦闘
今日はお話ししたいポイントは、日記にあるのはちょうど、コクコウダイの戦闘というのが行われた時期になります。コクというのは黒い、コウは溝、どぶですね、ダイは台湾の台、天文台の台です。黒溝台というところで戦争があって、それが非常な激戦で、それが黒溝台の戦闘で、日本の陸上戦闘の優位が決まったような重要な戦闘だったらしいのです。宇野さんという方が書かれた日本の歴史という本の中で[3]、非常に詳しい日本の歴史ですけれど、日露戦争の歴史も書いてありますが、その中で特に黒溝台の戦闘を取り上げて書いていますけれど、非常に重要な場面だったらしいです。
祖父は大隊長として、1大隊を指揮したらしいんですが、日記を見ますと黒溝台という言葉がはじめて出てくるのは黒溝台の戦闘がはじまる二日前で、というのはちょっと別の所で戦闘に従事していたらしいんですけれど、急に黒溝台の戦闘が不利だからというんで、援軍ということで黒溝台へ進軍を命ぜられるわけです。かなりいろんな苦戦があるんですけれど、そこで祖父が考え出した戦術の記述があります。なにしろ猛烈な消耗戦でありまして、昔の隊長というの部下の発射した実弾の数を、一発ごとに数えているんですよ。これを見ますと総計11万何千何百何十何発弾丸消費などという記録もあります。とにかく、指揮官というのは部下の弾丸があと何発あるかというのを勘定しているらしいんですね。
これは明日の朝まで持たないと、いうことがわかりまして、「撃ち方止め」の号令を出すんですね、これは「撃ち方止め」の号令は簡単で、ラッパを吹くんです。撃ち方やめといラッパがありまして、それを鳴らして、一斉に射撃をやめちゃった。もう夜ですから真っ暗です。私は天文学者ですから、その日の月齢を調べてみたんですが、あの日の月齢はは21というか、だいたい真夜中に月が昇るわけですね。真っ暗です。2月で、猛烈に寒いんですよ。凍死者が続々出るという状況です。「撃ち方止め」の号令を出して、シンとなって、向こうにしてみれば、退却したと思ったんでしょうね。
黒溝台というのは、地図がありますけれども、だいたい一辺が800メートル位の真四角の村落なんです、農民の村落で、そこにロシア兵が陣地を構えて、応戦してくるという状況なんですけれど、そこでですね、考えた戦術というのは、兵隊を7人選びまして、これを放火斥候と名付けた。放火斥候というのは、火を付ける斥候ですね、それがこっそりと敵陣のそばに忍び込んで、いきなり民家に火を付けたわけです。で、燃え上がりまして辺りが明るくなりました。その火をめがけて一斉に攻撃をかけたんですね。それで黒溝台の戦闘は一応勝利に終わったと、そういうことなんです。
これについては、もうひとつの文章が保存してあるんです。「1月26日より同29日にいたる黒溝台付近戦闘詳報」というのがありまして、明治38年2月3日、大49師団歩兵第32連隊第1大隊という祖父の官職も書いてあるんです。ところが、これにはあの放火したということは書いてないんです。兵隊を何人か出して奇襲をしたというような経過報告は書いてあるんですけれど、戦闘方法を比べて見ますと、だいぶちがうところがあるんです。
やっぱり自分がかわいいと思った兵隊はよく働いたというような記述になっておりまして、火を付けたというような、そういうことは書いていない。ところが、祖父は年を取って退官してからですけど、酒が好きなもんですから、毎日晩酌をやりまして、一杯やると手柄話がでると、かならずこれなんですけれど、放火斥候、放火斥候といって自分が考えた戦術を大宣伝するんです。祖父はこれで金鵄勲章をもらいましたけれど、その報告には放火をしたということは一切書いていない。
そのほか、いろいろとまずいと思うことはきれいに編集して作ってあるわけです。よく軍隊に、防衛庁に保管してある文章、研究して戦争の歴史を書いておられる方があるんですけれど、実際に軍の幹部によって受理された文章っていうのはだいぶインチキなもんだと思わなければいかんですね。
(2)逃亡兵の処刑
祖父の日記を見ますと、逃亡兵の記事があるんです。祖父が晩年に酒を飲みながら話したことですけど、明日はいよいよ激戦だという晩になると必ず逃亡兵が出ると、ここに逃亡兵の人数がちゃんと書いてありますけれど、だいたい腹づもりで計算したら3%位の兵隊は逃亡兵になるんです。
逃亡しちゃうと、それを探して見つければそれは文句なしに銃殺ですね。ところがそれを報告しないんです。報告しないというのは、逃亡兵が出たということを上部に報告しますと、書く書類が大変なんだそうです。やたらいろんな書類を書かされて、一日中忙しくてたまらんと、だから逃亡兵が出るとみんな殺しちゃって、名誉の戦史だと言って靖国神社に送っちゃうのです。遺族は息子が神様になったって喜んでるわけですけれど、靖国神社なんていうのは、何パーセントかはインチキが混じってるわけですよ。なにしろそういうのはこっそり殺しますから、上級将校が口裏をあわせているともうどうにも証拠が出てこないのです。
そういったようないろんなことが書かれている陣中日誌の方は非常に正直です。そういうところは酒に酔っぱらって言ったことと同じことを陣中日誌に書いてあります。
(3)捕虜の処刑
当時はまだそういう程度だったんだなと思うことは、捕虜のことがあります。捕虜といっても本当の意味の捕虜じゃなくて、住民で日本軍に対して多少敵対的な態度を示した人間はみんな殺しちゃったらしいんですけれど、殺すのはやっぱり隊長の責任だという観念があったらしいんですね。ですから、そういう人を捕まえて処刑するときに、木や柱に縛り付けるようなことは、これは兵隊がやるんですけれど、それを兵隊がやってしまうと、「準備完了しました」という報告があって、「よし」というんで隊長が立ち上がって、銃剣でもって片端から突き刺していくわけです。
酒を飲みながらいろいろと突き刺されている人の最期の状況なんか話すんですけれど、そういったことなんかは記録に載らない。日露戦争の頃はまだ、そういうことの責任は隊長がとるんだという観念があったんじゃないかと思いますね。兵隊に、肝試しだというんで、兵隊に殺させたという話は日中戦争のころはよく聞きますけれど、まだ日露戦争のころはそういう観念はなかったようです。
1−2凱旋、そして朝鮮半島へ
(1)連隊長を堀に投げ込む
それで帰ってきて凱旋の日も書いてありますけど、明治39年頃に日本に帰ってきました。それで、ちょっと事件を起こすんですよ。その頃祖父は弘前の連隊に入っていまして、弘前というのは町の真ん中に立派なお城があります。明治時代になってから、お城の古い建物は全部壊してお城の中に連隊があったわけです。そこで戦争祝賀会ということをやった。ところが、祖父はかなり手柄を立てた、それで帰ってくると2,3ヶ月で金鵄勲章をもらっちゃうんです。戦闘詳報の中に、いろいろ自分がかわいがった兵隊の名前が書いてあるんですけれど、そういうのはそれぞれ恩賞にあずかったと思います。それで将校が集まって、お城の庭のところで大いに飲んだわけです。連隊長なんかみんな、ぐでんぐでんに酔っぱらって、酔いつぶれちゃった。そしたら、祖父は自分が連隊長になれると思っていたものがなれなかったもんだから、むしゃくしゃしたということもあるんでしょうけれど、その連隊長をひっかついでですね、えっちらおっちら運んで行って、お堀の中にボーンと連隊長を投げ込んじゃったんです。この話は祖父が亡くなったときに、葬式に参加した昔の部下がはじめて私に話したことなんです。
(2)朝鮮半島での働き、抵抗運動の鎮圧で功を成す
それから後どうなったかというのは記録は何にもないんですけれど、ただ、それからすこしして朝鮮にやらせられるんです。これは日露戦争の結果、朝鮮は、つまり韓国ですね、そのころの韓国は一応日本の属国になるということで、日本の軍隊が警備していた。これは独津というところに駐留することになるんですけれど、まあこれは懲罰人事なんですね。だから祖父は不平満々で、ひどいことが書いてあります。日記には出かけた所にしたがって表紙がついているんですけれど、渡韓日誌となっていますけれど、「凱旋日ならずして第49連隊に補せられる」というのはこれは懲罰人事なんですけれど、「天なんの無情ぞ、官なんぞ察せざる、帰来いまだ席暖まらざるに、暖あるに暇あらず、また天涯万里厭世の身となる、委睨の情むしろ我に倍するものあり、嗚呼いかんせん」と、いうことで恨み言をだらだら述べて、そのあとで毎日の日記は「鬱々として楽しまず」という記事ばっかりなんです。
5月に出かけていくんですけど、そしてあの当時の、日露戦争の直後の時期の韓国、朝鮮の様子なんかが書かれていて、非常に興味あるものがあるんですけれど、ところが6月20日の日記で終わっちゃってその後書いてないんです。ノートはその後は余白で、書こうと思えば書ける余白はいくらもあるんですけれど、この年の6月20日で日記が終わっている。
というのはどういうわけなのかなと思って、年表調べてみましたら、この6月20日からすこし後、8月1日の日に韓国軍隊解散という事件があるんですね。これはあの当時は韓国はまだ日本の領土にはなってませんから、一応形は独立していて軍隊も持っていたわけです。それがこの年の8月1日を期して韓国軍というものは一切解散してしまった。韓国の軍隊にいた将校、兵士はみんないっぺんに失業者になってしまったわけなんです。なにしろ日本軍が来てその属国になるというんで、その抵抗運動を一番やったのは韓国の軍隊ではなかったかと思うんです。これはわかるんですね。どうもそこでチャンチャンバラバラがあって、この6月20日という時点以後は、もう毎日韓国の軍隊とチャンチャンバラバラやって、どうやったか記録は全くありませんけれど、とうとう8月1日を期して韓国軍隊の解散ということをやったんです。
もうずいぶんひどいことをやったらしいんですけれど、その記録は一切ないんです。記録はないんですけれど、ここに持って参りましたのは賞状があります。『明治40年、41年韓国暴徒鎮圧事件の功により金35円を賜う』 とにかく祖父はこういうものをきちんと全部取ってあるんですね。こういうわけで、35円もらいました。どうぞご覧ください。ということで、ずいぶんひどいことをやったらしいんですけれど、ひどいことをやったために、これは偉いというんで、さっそく日本に戻されて、弘前に行きまして連隊長になっちゃったんです。朝鮮人弾圧の功績によって、あの弘前の連隊長になりました。
1−3退役後の祖父
それで祖父は一時は得意になったかもしれないけれども、やっぱり非常に後ろめたいものがあったらしいんです。さっき言ったように、齢を取ってから晩酌をやりながら家族に話しをするというのはみんな日清、日露の話ばっかりで、朝鮮の話はちっともしないんです。実は私も祖父が朝鮮に行ったということは割合最近になって知ったんです。そういう記録しか残っていません。
ところが、非常に済まなく思っていたんだろうと考える理由には、こういうことがあるんです。祖父は、弘前の連隊を最後に退官しまして、定年退職かなんだか知らないんですけれど、退役軍人となりまして、その後東京に引っ越してくるんです。東京は大久保の近くに家を造りまして大久保に住んでいたんですけれど、そこで大正大震災に遭うんです。大正大震災にあって、震災の日の夕方ですか、翌日ですかわからないですけれども、家の庭を見たら植え込みの陰に人がいるっていうです。なんだろうっていうんで祖父が「誰か」なんて言ったらしいんですけれど、見たら朝鮮人が、あの例の虐殺事件にあって、逃げ場がなくなって私のうちの植え込みに隠れていたらしいんですね。それで祖父がそれを見て、「この男は悪人ではない」と言って自分の家にあげまして、夕食を食わせて、「今朝鮮人が町を歩くと非常に危険である、だからしばらくはこの家の外に出てはいけない」と言って自分の家に泊めたんです。何日泊めたかわからないんですけれど、とにかく10日か一月かそれくらいの間自分の家にその朝鮮人を泊めておいて、世の中が鎮圧したと思ったときに、「じゃあ自分の家に帰ってよろしい」といって帰した。父も「あの大正大震災の後はしばらくは家に朝鮮人がいた」というようなことを話しておりました。
祖父はやはり朝鮮人には非常に悪いことをしたという感情を持っていたんではないかと思います。その証拠に私の家に仏壇があるんですけれど、仏壇に線香立てだとか鉦だとかいろんな仏具がおいてあるわけですけれど、それが朝鮮製のものが非常に多いんです。なぜかというと、朝鮮に行ったときに買って帰ってきたんだと思うんですけれど、それを最期まで愛用していた。それから、1年のうちのある日、朝から仏様に参ってお線香を立てるわけです。その線香の火を消さないといいますか、一度線香が燃え尽きるとまた線香を立てて、一日中線香をつけている日が、1年のうちに何日かあったというんです。
それはどうも、何かやった、何をやったか知りませんけれど、そういう日を思い出してそういう日は一日中線香をつけておくということじゃなかたかと思います。というようなことで、祖父としては朝鮮では大いに働いて連隊長という職を得たわけですけれど、最期まで後悔していたのではないかというふうに思っています。これが祖父の話です。
これ[2]は、祖父が残した経歴書だとか日記だとか、それらの要約を私が作って話になるようにまとめたものですけれど、こんなものがあるということで、よかったらぱらぱらとめくってみてください。
(テープ起こしと編集、RS)
注および参考文献
[1] 関口正路、1864年(元治元年)米沢生、南京大虐殺のあった1937年没。
正路氏は南京占領の日、12月13日のすこし後、12月22日に亡くなりましたが、南京占領を非常に喜んで、「自分も若返って大軍隊を率いて首都攻略戦を経験してみたいものだ」と語ったそうです。(編集者注)
[2]関口直甫さんがまとめた祖父関口正路の経歴(未発表資料)
[3]宇野俊一著『日清・日露』、小学館『日本の歴史』第26巻、1976年
[「父の語った戦争、語らなかった戦争」の目次へ]
[ホームページへ]
・
[上へ]
・
[前へ]