福田広幸・田崎敏孝
南京へ南京へ、駒も勇めば、征士の靴もなる。 無論ジャーナリズムもそうだ。 その全神経が南京に集中、すべては南京のために計画され、用意された。 大新聞はもとより、弱小地方紙までが、 特派員の記事なしでは読者の受けが悪いとあって、 上海連絡船の着く毎に「敵前上陸」を敢行、 鉛筆とカメラと食料とリュックサック姿も物々しく、 或いは軍のトラックへ便乗、或いは舟を利用し、 或いは徒歩で道は6百8十里何のその、 未だ敵の地雷の埋もれた江南の野を南京城へと殺到した。 南京包囲の報道陣−記者、カメラマン、無電技師、連絡員、自動車運手を合し、 優に2百名は超えたであろう。 ジャーナリズムのゴールド・ラッシュだ。 (「南京へ・・南京へ・・新聞匿名月評――」『文芸春秋』)
南京戦報道のために戦地に送り込まれた朝日新聞社関係のスタッフ80余名、 大阪毎日新聞社関係のスタッフ70余名といわれた。 朝日、大阪毎日、読売は報道「一番乗り」を競って、 社機を飛ばせてのニュースの空輸を敢行し、報道合戦に拍車をかけた。 南京へ進撃する皇軍の連戦連勝のはなばなしい詳報が、連日報道されるなかで、 国民の戦勝、祝賀ムードが必要以上に煽られた。 官庁、学校の肝いりで南京陥落祝賀行事が準備され、 マスコミの報道合戦とあいまって国民のあいだに 早期南京占領への期待感が強まった。
初年兵のN.Y一等兵(第九師団歩兵第六旅団第七連隊)の手記には・・・ 畑にはネギがあったり、部落にはおどおどした土民が自分達をみていた。 自分達はてんでにネギを取って夜食の汁に入れる事を考えていた。 部落にいるときまって二・三人の兵が竿を振り回して鶏を追いかけるのであった。 名も知らぬ部落にクリークの水を汲んでネギや鶏を入れた汁を啜りながら 夕食をすませたのは、11時過ぎであった。 夕食を終えてから又出発をする。
被告人(24歳)楓けい鎮に宿営中、 昭和12年11月27日住呉浜方面に糧秣の徴発におもむきたる際、 同日午後2時ごろ同所田圃道を歩行中、 被告人の姿を認め逃避せんとする少女を目撃しこれを追跡逮捕し 脅迫を用いてこれを姦淫したり。・・…他三名の事例も・・
早尾軍医は「日本の軍人は何故にこのように性欲の上に理性が保てないのかと 私は大陸上陸とともに直ちに痛嘆し、戦場生活一ヶ年を通じて始終痛感した。 しかし、軍当局はあえてこれを不思議とせず、 さらにこの方面に対する訓戒は耳にした事がない。 軍当局は軍人の性欲は抑えることは不可能だとして 支那婦人を強姦せぬようにと慰安所を設けた。 しかし、強姦ははなはだ盛んに行われて、支那良民は日本軍人を見れば、 必ずこれを恐れた。・・・ このように陸軍軍人は性欲の奴隷のごとくに戦場を荒らしておるのであるから、 強姦の頻発もまた止むを得ぬことと思われた。(『従軍慰安婦資料集』)
「陸戦の法規慣例に関する条約」では 「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」 が禁止されていた。 日本軍は日露戦争におけるロシヤ人捕虜や、 第一次大戦におけるドイツ人捕虜は戦時法規にもとづいて待遇しようと配慮した。 後のアジア太平洋戦争においても、欧米人捕虜の虐待はあったが、 投降した兵士を問答無用に殺害した事例はあっても希である。 しかし、南京攻略戦ではそうでなかった。 無抵抗の投降兵、敗残兵を捕虜扱いせずに片っ端しから殺害していった。
第十軍田辺参謀長は杭洲湾上陸にさいして次のような 「支那住民に対する注意」を各部隊に与えている。 「上海方面の戦場においては、一般の支那住民は老人、女、 子供といえども間諜をつとめ、あるいわ日本軍の位置を敵に知らしめ、 あるいは敵を誘導して日本軍を襲撃せしめ、 あるいは日本軍の単独兵に危害を加えるなど、 まことに油断なり難き実例多きをもって特に注意を必要とす。 ・・・かくのごとき行為を認めし場合においては、 いささかも仮借することなく断固たる処置をとるべし」(陸支密大日記)
牧原日記には「残敵の掃討に行く。 自分達が前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。 何のために逃げるのか分からないが、逃げるものは怪しいとみて射殺する。 部落の12・3家に付火するとたちまち火は全村を包み全くの火の海である。 老人が2・3人いて可愛相だったが命令だから仕方がない。 次ぎ、次ぎと3部落を全焼さす。 そのうえ5、6名を射殺する。意気揚々とあがる。」
又日本兵のみさかいのない殺害のあとを次のように記している。
「ある中隊の上等兵が老人に荷物を持たせようとしたが、
老人が持たないからといって橋から蹴倒して
小銃で射殺しているのを目前でみて可哀相だった(十一月十八日)。
道路上には支那兵の死体、
民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可哀そうである。・・
橋の付近に5・6個の支那軍の死体が焼かれたり、
あるいは首をはねられて倒れている。
話では砲兵隊の将校が試し切りをやったそうである。」
(十一月二十二日)(京都師団関係資料集)
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