学習会第2回
笠原十九司著『南京難民区の百日』
―虐殺を見た外国人―

福田広幸・田崎敏孝


第2章.南京途上の日本軍

作戦計画を無視した南京攻略戦

8月中旬に始まった上海戦は、日中戦争史上最大の激戦となり、 3ヶ月目に入った10月末になってもまだ勝敗は決しなかった。 中国は延べ70余個師団、70万の兵力を投入して戦い、 その戦死者は25万人前後といわれるほど膨大なものとなった。 いっぽう、 日本は戦術としてはまずい場当たり的な増派を九回にわったて繰り返し、 結局は19万という予想外の大兵力をつぎ込み、 戦死傷者も43,672人にたっした。 苦戦を強いられた日本の軍中央部は、 第十軍の戦闘序列を下命し11月5日に抗州湾から上陸させ、 上海防衛の中国軍の背後を突かせた。 背後を襲われた上海防衛軍に動揺がはしり、やがて総崩れとなった。 日本軍は11月中旬には上海全域を制圧する。 そして11月19日、中支那方面軍は進出制令線を突破し、 総退却する中国軍を追って南京への進撃を開始した。

「南京一番乗り」争い

南京から上海まではおよそ3百キロ、この間を上海派遣軍、 第十軍とが先陣争いをしながら進撃していった。 各新聞社は両軍の進撃状況を従軍記者を派遣して競って報道したため、 日本の朝野はあたかも戦争ゲームでも楽しむか如く、提灯行列を準備しながら、 「南京城に日章旗が翻る日」を待ち構えた。

南京へ南京へ、駒も勇めば、征士の靴もなる。 無論ジャーナリズムもそうだ。 その全神経が南京に集中、すべては南京のために計画され、用意された。 大新聞はもとより、弱小地方紙までが、 特派員の記事なしでは読者の受けが悪いとあって、 上海連絡船の着く毎に「敵前上陸」を敢行、 鉛筆とカメラと食料とリュックサック姿も物々しく、 或いは軍のトラックへ便乗、或いは舟を利用し、 或いは徒歩で道は6百8十里何のその、 未だ敵の地雷の埋もれた江南の野を南京城へと殺到した。 南京包囲の報道陣−記者、カメラマン、無電技師、連絡員、自動車運手を合し、 優に2百名は超えたであろう。 ジャーナリズムのゴールド・ラッシュだ。 (「南京へ・・南京へ・・新聞匿名月評――」『文芸春秋』)

南京戦報道のために戦地に送り込まれた朝日新聞社関係のスタッフ80余名、 大阪毎日新聞社関係のスタッフ70余名といわれた。 朝日、大阪毎日、読売は報道「一番乗り」を競って、 社機を飛ばせてのニュースの空輸を敢行し、報道合戦に拍車をかけた。 南京へ進撃する皇軍の連戦連勝のはなばなしい詳報が、連日報道されるなかで、 国民の戦勝、祝賀ムードが必要以上に煽られた。 官庁、学校の肝いりで南京陥落祝賀行事が準備され、 マスコミの報道合戦とあいまって国民のあいだに 早期南京占領への期待感が強まった。

「蝗軍」−略奪の軍隊

南京攻略軍は糧秣のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。 そのため十万の日本軍は略奪を繰り返した。 大集団で徴発−略奪をしていく日本の軍隊を、中国民衆は「蝗軍」と呼んだ。 皇軍と蝗軍の発音が日本語でともにコウグンであるように、 中国語でもコウグンと全く同じに発音する。 そのため中国民衆は天皇の軍隊−皇軍を蝗軍と書き、 イナゴのような軍隊と誹り恐れたのである。 中国の蝗害は、日本では想像できないほどその規模はすさまじく、 古来から水害、干害とともに大災害として農民に恐れられてきた。 イナゴの大群は真っ黒な雨雲のように大陽を覆って飛来し、 地上に降りるや草木一本も残さずに食い尽くし、 飛び去った跡は農作物は絶滅し、広大な耕地は荒れ地と化してしまうのだった。 江南の中国民衆にとって、南京攻略に向かう十数万の日本軍の来襲は、 蝗の大群の飛来を思わせたのである。そしてその被害も甚大であった。

初年兵のN.Y一等兵(第九師団歩兵第六旅団第七連隊)の手記には・・・ 畑にはネギがあったり、部落にはおどおどした土民が自分達をみていた。 自分達はてんでにネギを取って夜食の汁に入れる事を考えていた。 部落にいるときまって二・三人の兵が竿を振り回して鶏を追いかけるのであった。 名も知らぬ部落にクリークの水を汲んでネギや鶏を入れた汁を啜りながら 夕食をすませたのは、11時過ぎであった。 夕食を終えてから又出発をする。

エスカレートする略奪

京都師団の上羽武一郎氏の日記には
「徴発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクを下げるやら、 種種様様の服装で凱旋気分いっぱいだ」(十二月十八日)と書いている。
さらには、「午前11時中隊長に起こされ、 中隊長のための品物を徴発に関本と二人で昼食を終えて出発する。 先日行った雑貨店に行ってみたが何もなくひどく荒らされていた。 唯封筒だけを持っても店を出る」(十二月二十二日) と20連隊の牧原信夫氏は書いている。
なかには「徴発により上官の機嫌を取り結び 自己の進級等に利益を図りし例も存せり」と早尾とら雄軍医は指摘している。

強姦の軍隊

略奪に続き、強姦事件が多発する。 憲兵は中支那方面軍およそ20万という大軍に対して わずか百名たらずであったが、それでも軍機に違反した兵士を逮捕し、 軍法会議にかけて取り締まった記録が残っている。 「第十軍法務部陣中日誌」「中支那方面軍軍事法廷会議陣中日誌」 という資料であるであるがそのなかに強姦の事例が記されている。

被告人(24歳)楓けい鎮に宿営中、 昭和12年11月27日住呉浜方面に糧秣の徴発におもむきたる際、 同日午後2時ごろ同所田圃道を歩行中、 被告人の姿を認め逃避せんとする少女を目撃しこれを追跡逮捕し 脅迫を用いてこれを姦淫したり。・・…他三名の事例も・・

早尾軍医は「日本の軍人は何故にこのように性欲の上に理性が保てないのかと 私は大陸上陸とともに直ちに痛嘆し、戦場生活一ヶ年を通じて始終痛感した。 しかし、軍当局はあえてこれを不思議とせず、 さらにこの方面に対する訓戒は耳にした事がない。 軍当局は軍人の性欲は抑えることは不可能だとして 支那婦人を強姦せぬようにと慰安所を設けた。 しかし、強姦ははなはだ盛んに行われて、支那良民は日本軍人を見れば、 必ずこれを恐れた。・・・ このように陸軍軍人は性欲の奴隷のごとくに戦場を荒らしておるのであるから、 強姦の頻発もまた止むを得ぬことと思われた。(『従軍慰安婦資料集』)

民衆殺害の軍隊

南京攻略戦において日本軍は上海戦から撤退してゆく中国軍の 追撃殲滅戦という戦法をとった。 投降兵、敗残兵、捕虜であろうとも、 中国兵であったものは(そう思われた者も含めて)殲滅、 つまり皆殺しにするということである。

「陸戦の法規慣例に関する条約」では 「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」 が禁止されていた。 日本軍は日露戦争におけるロシヤ人捕虜や、 第一次大戦におけるドイツ人捕虜は戦時法規にもとづいて待遇しようと配慮した。 後のアジア太平洋戦争においても、欧米人捕虜の虐待はあったが、 投降した兵士を問答無用に殺害した事例はあっても希である。 しかし、南京攻略戦ではそうでなかった。 無抵抗の投降兵、敗残兵を捕虜扱いせずに片っ端しから殺害していった。

第十軍田辺参謀長は杭洲湾上陸にさいして次のような 「支那住民に対する注意」を各部隊に与えている。 「上海方面の戦場においては、一般の支那住民は老人、女、 子供といえども間諜をつとめ、あるいわ日本軍の位置を敵に知らしめ、 あるいは敵を誘導して日本軍を襲撃せしめ、 あるいは日本軍の単独兵に危害を加えるなど、 まことに油断なり難き実例多きをもって特に注意を必要とす。 ・・・かくのごとき行為を認めし場合においては、 いささかも仮借することなく断固たる処置をとるべし」(陸支密大日記)

牧原日記には「残敵の掃討に行く。 自分達が前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。 何のために逃げるのか分からないが、逃げるものは怪しいとみて射殺する。 部落の12・3家に付火するとたちまち火は全村を包み全くの火の海である。 老人が2・3人いて可愛相だったが命令だから仕方がない。 次ぎ、次ぎと3部落を全焼さす。 そのうえ5、6名を射殺する。意気揚々とあがる。」

又日本兵のみさかいのない殺害のあとを次のように記している。 「ある中隊の上等兵が老人に荷物を持たせようとしたが、 老人が持たないからといって橋から蹴倒して 小銃で射殺しているのを目前でみて可哀相だった(十一月十八日)。
道路上には支那兵の死体、 民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可哀そうである。・・ 橋の付近に5・6個の支那軍の死体が焼かれたり、 あるいは首をはねられて倒れている。 話では砲兵隊の将校が試し切りをやったそうである。」 (十一月二十二日)(京都師団関係資料集)

放火の軍隊

省略・・

第十軍よりもひどかった上海派遣軍

省略・・

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