学習会第2回
笠原十九司著『南京難民区の百日』
―虐殺を見た外国人―

福田広幸・田崎敏孝


第1章.南京空襲の日々

新首都南京

南京は古くは金陵といわれ、日本の奈良、 京都に類せられる水と森と丘と寺院の美しい古都であった。 3世紀から6世紀にわたり都として栄え、華やかな貴族文化の中心地となる。 明王朝の始祖、洪武帝・朱元璋は首都をこの地にさだめて南京と命名し、 20年の歳月をかけて新宮殿を造営し全長34.24kmの城壁を築城させる。 この城壁の全長は山手線とほぼ同じ長さ、 南京城内は東京の都区内の広さに相当する。 孫文は南京を中華民国臨時政府の首都に決める。 孫文の意志を引き継いだ蒋介石は、 1927年南京に国民政府を樹立し首都建設10年計画を遂行する。 建国10年を迎えた1937年には人口は100万人を超え、 名実とともに中華民国国民政府の新首都として活況をていするようになる。

南京渡洋爆撃

1937年8月15日、 日本の近衛文麿内閣は 「支那軍の暴戻を瘍徴してもって南京政府の反省を促すため、 今や断固たる措置を取る」と言う声明を発表して日中全面戦争への突入を宣言し、 松井石根大将を司令官とする上海派遣軍の派遣を決定した。 そして同日、長崎県大村基地を発進した新鋭の96式陸上攻撃機20機が、 折りからの低気圧をついて洋上約600kmをふくむ 南京上空までの960kmを4時間で飛翔、 各機12発ずつ抱いた60kg陸用爆弾を、 目標とされた2ヶ所の飛行場周辺に投下したのである (「戦略爆撃の思想」前田哲夫より)。
ミニー・ヴォートリン教授とロバート・ウィルソン医師は、 この南京爆撃を契機に日記を書き始める。

空襲下の南京

ウィルソン医師の記録によれば、 この8月15日から同月31日までに23回の南京爆撃が行われ、 その多くが夜間空襲であった。 19日の深夜の空襲では12人が死亡、多数の負傷者がでる。 26日午後12時には日本軍機による大規模な爆撃が行われる。 市内3ヶ所で火災が発生し、およそ100人の住民が死亡する。 そして外国人・裕福な人々の避難が始まる。 金陵女子文理学院も、259名の学生を安全な地域に避難させることを決める。 キャンパスにはヴォートリンと若干の教職員・理事のみが残ることになる。 9月に入ると日本軍による南京爆撃は一時小康状態となる。 今までの渡洋爆撃を変えるために・・・。
〈中国政府による日本人居留民団の保護について・・・〉

病院への無差別爆撃

海軍航空隊は9月上旬上海市の公大飛行場を使用できるようにした後、 9月19日、艦上戦闘機による南京空襲を再開する。 そして、長谷川第三艦隊司令長官は第三国人と市民に 避難することを勧告する宣言を発表する。 事実上の南京無差別爆撃の通告に等しいもの。 この日から25日までの7日間に11回、 延べ289機が出撃して南京爆撃を実施する。 それは、都市、産業、鉄道、橋などを攻撃対象とする 「戦略爆撃」(戦争末期のアメリカ軍機による日本の都市爆撃)そのものであった。 飛行場、政府の建物、中央大学、中央病院、放送局、鉄道駅、水道局、 電力発電所、さらには新街口の人口密集地域も爆撃する。 もっともひどかったのは25日で、 この日は午前9時30分から午後4時30分にかけて5回の爆撃があり、 爆弾約500個が投下され、市民の死者数百人、 負傷者は数千人という大被害をもたらす。 下関の難民収容所にも爆弾が投下され100名以上の死者がでる。 その惨状をロイターのスミス記者は次のように伝えている。

爆撃後に下関の難民収容所にいってみたところ、その光景は目を覆うばかりで、 現場には犠牲者のばらばらになった遺体がからみあったまま、 かなり広範囲にわったて散乱していた。 多数の難民の住んでいたむしろがけの小屋は爆撃で火がつき、なお延焼中である。 その炎からでる煙は大きな柱となって空に立ち昇り、 そのあたりの何マイルも離れたところからも目にすることができた。 (「日中戦争南京大虐殺事件資料集」)

世界からの日本非難

中国における日本軍機の都市爆撃は世界に報道されて、 世界の憤激を引き起こしていた。 アメリカでは8月13日に始まった上海戦において、 日本軍機が数千人の難民の群れに爆弾を投下した光景や、焼き出され、 さらに砲弾や銃撃の犠牲にされた膨大な民間人の惨状が報道写真やニュース映画、 さらには雑誌、パンフレット類をとうしてアメリカ国民に知られるようになり、 非戦闘員を巻き込んだ日本軍の蛮行に対する非難の声があがりはじめた。

南京空襲とおなじように、日本軍機による都市爆撃は上海、広州、杭州、漢口、 南昌などの諸都市におよび、10月中旬までに華中、 華南の大中小都市60ヶ所以上が爆撃の被害を受けた。 これらの非武装都市の爆撃は、 当時日本も署名していた「陸戦の法規慣例に関する条約」 に違反する行為であった。 10月に入ると南京空襲はさらに激しさを増していった。

10月のウィルソンの日記には次のように記されている。
12日、56回目の空襲が、日本軍機が4機、撃墜される。 市内南部の住宅密集地にも爆弾が投下される。 現在、大学病院には50人の負傷兵の中に、 毒ガス・イペリットの負傷者を始めてみる。 19日、午前2時15分から4時20分、そして5時を70回目の空襲がある。 昼食時にも大きな空襲があり、 長江のフェリーボート埠頭と対岸の浦口駅が爆撃され、 約20人の死者と同数の負傷者が出る。 下関にあるジョン・マギーのアメリカ聖公会は、 負傷者を収容して臨時の治療をおこなう。 市内の飛行場付近に二〇発以上の爆弾が投下され、二人の人夫が死亡、 数人が負傷、その一人が我々の病院に運ばれてきたが、 背中に機銃掃射を浴びせられていた。

26日、午後に80回目の空襲。 市内の飛行場にしこたま爆弾が投下され、まるで月面のクレーターのうようだ。 上海海域から一日に千人規模で護送されてくる負傷兵の問題が深刻化、 大学病院では4・50人の負傷兵を収容、治療するのが、精一杯である。

28日、2ヶ月まえに爆撃された中央大学の建物を利用して 赤十字病院が開設されたのを見に行く。 図書館の閲覧室や体育館にベットが並べられて病室にはやがわり、 1200人の傷病兵が収容されていた。 同病院は急増する負傷兵のために四千のベットを準備中。(「ウィルソン文書」)

ウィルソンの日記にみられる日本軍機の止む事なき南京空襲は、 当時、海軍航空本部教育部長の職にあった大西大佐は、 「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと 空襲回数36回で飛行機の延機数は6百機、投下爆弾は約3百トンであります」 (37年11月15日、経済倶楽部での講演速記) と述べていることからも窺い知る事ができる(前田氏)。 こうして南京空襲の日々は、 12月12日の南京陥落の日までまる4ヶ月にわたって続き、 南京攻略戦が開始されるにともない、本格的な都市爆撃になる。 ウィルソンの日記には、12月9日までに115回の南京空襲が記録されている。 おなじく空襲を記録していた金陵神学院のヒューバート・ソーン牧師の 小さな日記帳には120回を超える日本軍機の襲来が記されていた。

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