福田広幸・田崎敏孝
南京が日に日に打ち捨てられていくさまを見たミニー・ヴォートリンは
その悲しみをこう記している。
「南京はすでに捨てられた、敗北の町になった。
ほとんどの商店が閉店となり、銀行の閉じられた・・・
上海との郵便通信も全く切断されてしまった。(十二月二日)
・・最近はあまり外出しなくなったが、市の通りに出かけるたびに、
大変な悲しみに襲われる。
南京は影におおわれつつある――人を悲しませ、消沈させる影に。
一年前にはあれだけ建設のための意欲と熱狂とに満ち溢れていた南京だったのに。
(十二月九日)(窿買Hートリン文書
ロバート・ウィルソン
金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師、三十歳。南京国際赤十字委員会委員。
日本軍の南京占領時、唯一の外科医師として鼓楼病院で医療活動に従事する。
妻マージョリーとは一年前に結婚し、
長女のエリザベスはこの年の六月に生まれたばかり。
最愛の妻子をアメリカに帰国避難させての南京残留であった。
自殺直前のミニー・ヴォートリンをアメリカの病院に見舞っている。
マイナー・ベイツ
金陵大学歴史学教授、博士、四十歳。
南京国際委員会委員、
中心メンバーで財政実務や南京日本大使館への抗議交渉を担当。
南京国際赤十字委員会委員、金陵大学緊急委員会委員長として、
金陵大学施設に設置したいくつかの難民キャンプの責任者もつとめた。
知日派で、日本社会を分析した論稿も多い。
三十七年の夏、三十八年の八月にも日本を訪問。
妻リリアと二人の息子は日本で避難生活を送る。
ルイス・スマイス
金陵大学社会学教授、博士、三十六歳。
南京安全区国際委員会書記。
ラーベ委員長とともに南京日本大使館への抗議文を作成した。
南京国際赤十字委員会委員、
社会学者として南京攻略戦の被害状況を調査書にまとめた。
二人の娘はフィリピンに避難、妻は成都でミッション系大学の仕事を続けた。
ジョージ・フィッチ
ニューヨークにあるYMCA国際委員の書記、五十四歳。
中国の青年将校をYMCAが組織した励志社の顧問として南京に滞在。
中国の蘇洲生まれで中国語が堪能。
南京安全区国際委員会のマネージャー役を担当、
妻と二人の息子はアメリカに避難していた。
三十八年二月末に南京を出てアメリカに出国。
年末まで全米で南京事件の報告と難民救済のキャンペーンを展開する。
ジョン・マギー
アメリカ聖公会伝道団宣教師、南京国際赤十字委員会委員長、四十九歳。
キリスト教の布教と医療活動をおこなていた。
南京安全区国際委員会委員、妻と息子を妻の実家のロンドンに避難させる。
フォースターと組んで外国人の大邸宅を借用して難民を収容した。
良心的な日本人将兵の行動も記録している。
アーネスト・フォースター
アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会の書記。
下関にアメリカ聖公会伝道団の医療施設をつくり、
三十六年に結婚したばかりの新妻クラリッサとともに
貧民の医療活動にあたっていた。
日本軍の南京占領直前に妻を漢口から、上海に避難させる。
カメラが趣味で本書に載せた写真のほとんどは彼が撮影したもの。
ジェームズ・マッカラム
連合キリスト教伝道団宣教師、四十四歳。
金陵大学の付属施設で日曜学校や女性のための半日学校を開校。
南京国際赤十字委員会委員、鼓楼病院のマネージャー、
救急車の運転手として活躍。
ジョン・ラーベ
ドイツ人、ジーメンス社南京支社の支配人、南京ナチス党支部長。
南京安全区国際委員会委員長、南京国際赤十字委員会委員。
去年、ラーベの日記が出版されたばかり。
エドワルド・スペルリング
ドイツ人、ドイツ資本による上海保険会社の南京支店長。
南京安全区国際委員会委員、ナチス党員。
日本兵士の暴行に対して体をはって阻止し、難民区の「警察委員」といわれた。
まもなくして、南京安全区(難民区)国際委員会が結成された。 委員長はドイツ人のジョン・ラーベが就いた。 ラーベは、日本と同盟国のドイツ人を表に出すことで、 日本当局との折衝を有利にしようとしたベイツやスマイスらの要請を受けて、 人道的な立場から喜んで引き受けた。 そして、十一月二十二日、委員会は声明を発表し、 アメリカ大使館をとおして日本と中国の当局に通告した。日本当局は・・
[ ホームページへ ] ・ [ 上へ ] ・ [ 前へ ] ・ [ 次へ ]