南京大虐殺
― 人類と文明への冒涜 ―

第6章

虐殺された中国人は30万人以上

林 伯耀


当時、日本軍将校であった太田寿男騎兵中佐(敗戦時) の撫順戦犯管理所で書いた供述書によれば、 太田中佐は船舶輸送司令部(広島)傘下の南京第二碇泊場司令部少佐として、 上海北西部から同13日に攻略した南京市に入った。 自分の隊は同16日から18日までの3日間に長江岸の下関碼頭の西側で、 同市内から運ばれた中国人の死体約1万9千体を長江に流した。 中にはまだ息のある人もいたが、 「手鉤ヲ以テ頭部或ハ心臓部ヲ刺突シ絶命セシメテ運搬シタ」という。 南京市内にある死体は、攻略部隊がトラックで長江岸に運んだ。 12月14日と15日の全体の処理は、同僚の安逹由己少佐が担当した。 800人の兵士が処理に当り、10台のトラックと、30隻の小船が使われた。 この期間にこの埠頭と下流から長江に投込んだ死体は3万5千体、 焼却して埋める地点まで運んだ数は約3万体、計6万5千体 (この内重傷瀕死者1500名)。 又、安逹少佐の指揮下で16、17日は、 下関碼頭の東側で揚子江に投げ込んだ数は1万6千体(重傷瀕死者250名)であった。 停泊場司令部が処理した遺体の数は合計で約10万体になる。 これに、南京に侵攻した他の部隊の処理数5万体をあわせると 軍が処理した数は合計で約15万体になると供述している。

こうした日本軍自身が処理した遺体以外に、 南京の民間慈善団体や福祉団体が処理した遺体は、約18万5千体である。 その処理数の一番多かったのは、民国18年(1929年)から、 南京市社会局に登録されて、慈善事業をおしすすめていた「崇善堂」である。 「崇善堂」は、自身の職員だけでは、処理しきれず、臨時工を雇ったり、 多くの農民や有志の市民に依拠して遺体処理に当った。 「崇善堂」の処理した数は、1937年12月26日から、1938年5月1日までで、 男性109,363体、女性2,091体、子供813体、計112,267体と報告している。 その埋設個所は各隊毎に記録され、日本敗戦后、 南京で開かれた軍事法廷(1947年3月)で、その幾つかの埋設個所を掘り起して、 人骨数と報告数との確認がおこなわれている。 次いで、処理数の多かったのは、民国12年(1923年)に設立された「紅卍字会」で、 この団体の報告によれば、1937年12月22日から、1938年10月までに、 南京域内で1793体、南京域外で4万1330体処理したと報告されている。 満鉄調査部が、南京陥落後、派遣した調査員の南京班報告書によれば、 「紅卍字会」は、 600名の隊員を動員して「特務機関ノ指導ノ下ニ、連日、屍体ノ埋葬ニ当リ」、 「積極的ニ作業ニ取カカリタル結果著シノ成績ヲ挙ゲ3月15日現在ヲ以テ 既ニ城内ヨリ1793、城外ヨリ2万9998計3万1791体ヲ 城外下関地区竝上新河地区方面ノ指定地ニ収容セリ、 ……何等カノ方法ヲ以テ資金援助ノ方途ヲ講スベキ時機に逢着セリ、 現在使用中ノトラック毎日5〜6倆人夫2〜300名ヲ要シ既ニガソリン補給竝 人夫賃捻出モ同会ニテハ其方途無キ迄ニ至ル」と報告している。 上記2団体以外に、 赤十字会南京分会が1937年12月24日から1938年5月31日までに 2万2683体を処理したことが報告されている。

今一つの慈善団体「同善堂」は従来、死亡した嬰児を専門に埋葬していた。 南京陥落後、同胞の遺体処理のために専門の埋葬組を組織した。 組長の劉徳有は1947年1月、南京軍事法廷で、証人として出廷し、 この埋葬組が処理した遺体は、7千体余であると供述している。 南京の回族が自ら組織した「回民埋葬隊」は、「埋葬した数は400体を下らない」 と回顧している。

上述の様な、慈善団体、福祉団体以外に、民間、 市民のボランティアが埋葬隊を自主的に組織して遺体処理に当っている。 その数の合計は約3万5千体になる。 顕著なのは湖南省の木材商人、盛世征、昌開運らで、彼らは、金を出して人を雇い、 上新河地区の死体を埋葬した。その数は2万8730体に上る。 彼等は報告書の中で「一つの遺体を処理すれば法定貨幣で4角を支払った。 この遺体処理で費やした金額は、1万余元になる」と述べている。 その他に、ゼイ(草カンムリに内)芳縁、張鴻儒、 楊広才らボランティアが処理した遺体は7千体余に上る。

南京陥落后、傀儡市政府ができた。 この傀儡市政府が自身で処理した遺体数は、6千体余になる。 1939年2月になっても、中山門外霊谷寺、馬群一帯の山上には、 尚、3000余荒れた遺体が、風雨にさらされ、誰も収容していなかった。 市政公署は衛生局に指示して埋葬させた。 その跡に、「無主孤魂碑」と書かれた慰霊碑を建てた。 又、傀儡政権下の下関区区長、劉連祥は日軍碇泊場司令部から良民証を、 延べ208枚発行してもらって、中山碼頭から揚子江に沿って、遺体処理に当り、 埋葬した数は3240体になると傀儡政権南京市自治委員会に報告している。

これらを合計すれば、殺害された中国人の数は、30万人を下らない。 さらに、南京陥落前、揚子江を渡って逃避しようとして多くの避難民を満載した船が、 日軍の飛行機や待ちぶせていた日本海軍によってことごとく撃沈された。 上記の数の中には、何万人ともいわれるその数は含まれていない。

当時南京政略に参加した歩兵第十三連隊(熊本)の赤星義雄は、次の様に回顧している。 「12月14日、私たちは城内を通り揚子江岸に向かって進んで行った」 「揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、 そこに立って揚子江の流れを見た時、信じられないような光景が広がっていた。 2千m、いやもっとであろうか、その広い川幅いっぱいに、 数えきれない程の死体が浮遊していたのだ。 見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。 川の岸にも、そして、川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。 大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”のように、 ゆっくりと流れている。 上流に目を移しても死体の”山”は続いていた。 それは果てしなく続いているように思えた。 少なく見ても5万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、 まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ」。

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