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ムミアの死刑執行停止を求める市民の会
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今井恭平の文章
ニューヨーク取材日誌

死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
今井恭平の文章

死刑囚監房のジャーナリスト
 ムミア・アブ=ジャマールとの二時間
 1999年5月18日


以下の文章は、『批判精神』第2号(1999年9月15日 発行・オーロラ自由アトリエ)に掲載されたものです。
私が1999年5月1日、ペンシルベニア州のグリーン刑務所でムミアに面会した時のことを書いた最初の文書です。
この後、99年10月に『週刊金曜日』のルポルタージュ大賞を受賞した『死刑囚監房のジャーナリスト ムミア・アブ=ジャマール』のいわば原型となった文章です。
『批判精神』編集部のご了解を得ましたので、ここにウエッブに掲載いたします。
2002年2月19日


     (1)
 ニューヨークを朝八時に出発したグレイハウンド・バスは、約十時間後の四月二九日午後六時少し前、ペンシルバニア州第二の都市、ピッツバーグについた。僕にとってピッツバーグはまったく初めての土地だし、バス・ステーションで待ってくれている予定のダフという白人男性も、じつは名前だけしか知らない。そんな無縁の都市に僕がやって来たのは、ある一人の黒人男性に会うためだ。
 彼との「出会い」は今からほぼ四年前にさかのぼる。一九九五年の六月はじめ、僕はサンフランシスコから日本に帰る飛行機の中で一冊の本を読み始めていた。「ライブ・フロム・デス・ロウ」(死刑囚監房からのライブ放送)というタイトルの黒い本の表紙に描かれた著者の肖像も、ムミア・アブ=ジャマールというその名前も、当時の僕には未知のものだった。帰りの飛行機で読むのに手ごろそうな本を探すだけのつもりでのぞいた書店で、あの本を偶然手にすることがなかったら、僕の人生は変わっていたかもしれない、いや確実に変わっていた、と時々思う。
 ムミア・アブ=ジャマールという人物が、もとブラック・パンサー党の活動家で、情報宣伝を担当していた人物であり、七〇年代に入ってからはラジオの取材記者、コメンテーターとしてフィラデルフィアで活躍したジャーナリストであること、八一年末におこった白人警官殺害事件で犯人とされ、死刑判決を受けていること、しかし、彼の裁判の公正さには、あまりに多くの疑問があり、無実を証明する証拠も数多く存在していること、これを政治的弾圧と人種差別による冤罪として再審請求と死刑執行停止を求める運動が世界中で大きな支援をうけていることなどを知ったのは、この本を読んでしばらくしてからのことだ。
 この本自体は彼の冤罪事件を詳述したものではなく、ジャーナリストとしてのムミアの目がとらえたアメリカ現代社会のあらゆるゆがみへの批判の書である。その本を僕が初めて手にしたわずか二カ月あまり後(一九九五年八月一七日)に、彼の死刑執行期日が指定されていることを知ったのは、インターネットを通じてだった。
 これが僕とムミアとの「出会い」であり、その後幾人かの友人たちといっしょに「ムミアの死刑執行停止を求める市民の会」をつくって微力ながら彼の支援を始めた経緯だ。そして四年後の今、僕はそのムミアと実際に会うために、グレイハウンドに十時間揺られ、そしてやはりムミアの支援者であるというだけの理由で、見ず知らずの僕の案内役をかってでてくれたダフという中年の白人男性の車で、さらに一時間四十分かかるモーガンタウンという町に向かうことになったわけだ。

     (2)
 モーガンタウンは、人口約三万人ほどの小都市だが、その中でウエストバージニア大学とその関連施設がかなりの面積を占めている。
 じつはこの町に向かう途中でペンシルバニア州とウエストバージニア州の州境を越えるまで、僕はここがペンシルバニアにあるものだとばかり思っていた。ムミアが収容されているグリーン刑務所はペンシルバニア州の施設だから、そこから一番近い町というのは当然同じ州にあるものと勝手に思いこんでいたのだ。
 とてつもなく天気がよく、夕方六時過ぎてもまだ十分に明るい、単調ながら緑に恵まれた環境の中をつづくハイウェイをダフの車の助手席からながめながら、じわじわとこみ上げてくるのは、ムミアとの面会への期待だけではなく、いくつかの不安が混じり合った思いだった。
 SCIグリーン刑務所と呼ばれるペンシルバニア州の矯正施設は、四〜五年前に建設されたばかりのまだ新しいもので、最新のハイテク設備が整っていると言われている。いくつかの写真やビデオで、敷地の周囲をとりまく渦巻き状の鉄条網が張られた二重のフェンスや、病院のような無機的に清潔なリノリウムの長い廊下の映像を見ていた僕は、あの中に入っていくというだけで、すでに生理的にかなりの圧迫感を予感していた。また、面会に際して一枚の紙切れと鉛筆さえ持ち込むことを許可しない刑務所の規則について知らされていたから、生涯でもう一度あるかどうか分からないムミアとの面会の機会に、その記録をたんに自分の記憶力と不十分な英語力だけに頼らざるをえないことも、僕には相当のプレッシャーとなっていた。ムミアとの面会は、二日後の五月一日、午前十一時から二時間の予定となっている。

     (3)
 翌日は、まる一日を面会の準備に費やした。質問項目をまとめ、それを英語にしてみて何度も自分の中で反復した。ムミアの二冊の著書や関連資料ももう一度目を通した。全体にこぢんまりとして静かなモーガンタウンの中でも、ダフの家は中心街を少しはずれていて、すぐそばには小川が流れ、古いけれど僕の目には素敵にこざっぱりして見える家並みがつづき、ものを考えるには最適の環境だ。本職はデザイナーだが、自己紹介のときにはそんなことより、まず自分はアナキストだ、と誇らしげに語ったダフは、僕が集中できるようにと、自分はリビングのカウチに寝て、寝室を明け渡してくれた。どうしてこんなにまで親切にしてくれるのか。だってムミアの支援者同士じゃないか、という彼の心意気があまりに自然なので、僕の方もまるで旧知の仲のように彼の親切に快く甘えることができる。

     (4)
 五月一日、ダフの家を朝十時少し過ぎに出発。グリーン刑務所までは三十分ほどの道のりだ。きょうも素晴らしい晴天。緑の中にときどき放牧されている牛の姿なども見えるのどかなハイウェイを走っていると、こんな中に「人工の地獄」とムミアが描写したハイテク刑務所が存在するという事実が、悪い冗談のような気さえしてくる。
 州境を一昨日とは逆に越える。ウエルカム・トゥ・ペンシルバニアという看板に、ムミアに死刑執行命令を出したトム・リッジ知事の名前が書かれていて、思わずF***などといういけない言葉を口走りそうになる。
 この一枚の看板が、死刑のないウエストバージニアと、死刑のあるペンシルバニアとを隔てているのだ。
 遠くからは、なにやら巨大な敷地をもった施設のようだ、という程度にしか見えない刑務所が、ビデオで何度も見た二重の螺旋状の鉄条網によってその姿を現すやり方は、じつに唐突で、気がついたときにはもう敷地の中に入っていた。
 面会の手続きは簡単なものだったが、金属探知器のゲートを何度もくぐり直させられ、さらに麻薬使用の形跡がないかどうかのテスト(小型の掃除機のようなもので全身から微粒子を吸い取り、検査器のようなものにかけていた)をされる。看守はほとんど無言で機械的に作業をすすめる。検査が終わると、面会室の方向を目でさして、「行け」というような合図をするだけだ。

     (5)
 面会室×番へ行けと看守が告げる。のぞき窓のついた扉を開けると、そこに彼が座っていた。
 僕が入っていくと、彼はすぐに立ち上がり、ていねいにお辞儀をしながら、日本語で「こんにちは。ムミアです」と挨拶をする。その瞬間に、いままでの不安だった気分がすっと消えていくような感覚を覚えた。鋭い革命家というより、目が優しいことがまず最初の印象として焼き付く。そんな彼の様子が、僕の気持ちに影響を与えたのかもしれない。ビデオやCDで何度も聞き慣れたバリトンの魅力的な声はそのままだが、話し方はもっと穏やかで、一語一語を相手の目をしっかり見ながら話しかけてくる。僕も、一言も聞き漏らしたくない、という気持ちで集中していたから、二時間の間、ほとんど互いの目から目を離さずに話をしていたのではないかと思う。
 自分が話しているとき以上に、相手の話を聞くときに彼の顔つきはより真剣になる。僕が初対面の人間で、おまけに英語もおぼつかない日本人であることも多少関係しているかもしれないが、相手の質問の意図や、相手がどう理解しているのかをしっかり把握してから、はじめて自分の考えを述べる、という姿勢が強く伝わってくる。

     (6)
 九五年の死刑執行は、世界中からの反対運動の力と再審請求のための公開ヒヤリングによっていったん阻止したものの、昨年(九八年)十月に州最高裁が再審請求を棄却したことで、裁判は連邦段階に移行することになる。この状況については、彼の主任弁護士であるレオナルド・ワイングラス氏にお会いしたとき、詳細に説明を受けていたが、ムミア本人には連邦裁判所というシステムそのものに関する彼の意見を聞きたいと思っていた。
「連邦裁判所の判事は、裁判官というより連邦政治家です」と彼は答える。「選挙によらずに大統領によって選ばれる彼らの判断は、事実にもとづくのではなく、政治にもとづくものです。私は最初から、連邦裁判所には過大な期待はなにももっていない」
 死刑制度そのものについての彼の基本的な姿勢、考え方に関する質問には、次のような言葉が返ってきた。
「国家には死刑を行う権利はない。国家は人がつくったものにすぎないし、人がつくったいかなるものも、人を殺す権利はない」
 そして特殊アメリカ的には、その制度の実態が人種差別に根ざしていることを繰り返して指摘し、マイノリティや貧困層が正当な弁護を受けることができない現実が、この国の歴史そのものに根ざしたものであることを指摘する。
「死刑制度は、その国の歴史、人種や社会層の構成と密接につながっている。アメリカの死刑制度は、アメリカという国家がどういう成り立ちをしてきたのかと不可分なものです。それは、奴隷制以来の黒人へのリンチの直接の延長上にある」
 彼は、数週間前におきたばかりのコロラドの高校大量殺人にもふれた。「私が一番関心があるのは、あの高校生のうちの一人が海兵隊に志願していたことです。彼がもし海兵隊に入っていたら、同じことを制服を着てやったかもしれない。その場合は彼は犯罪者ではなく英雄になりますね。彼らに憎悪を教え込んでいるのはアメリカの社会(ソシアル・カルチャー)そのものです。だから、彼らはただの少年(ジャスト・アメリカン・ボーイズ)にすぎない。彼らを特殊な恐ろしい人間と描くのは簡単ですが、彼らは自分の息子かもしれない、と考えてみる必要がある」
 彼は、社会変革には暴力は必要ではないというが、同時に自衛は必要だ、とも指摘する。そして、変革のためにもっとも重要な要素は、人々が分かり合うことだ、と語る。そのためにメディアのもつ役割は大変に重要になる。しかし、彼のメディアに対する考え方を紹介するには、稿をあらためるしかない。

     (7)
 二時間という時間は、あっという間に過ぎた。最後に立ち上がって互いに挨拶するとき、あらためて彼が肉体的にも大きな人物であることを意識した。狭い面会室の中で、なんの必要があるのか知らないが、彼は手錠をされたままだった。(日本の刑務所ですら、面会時に手錠をされるようなことはない)その両拳を握りしめ、ガラスを強くたたきながら、彼は何度も別れの挨拶を繰り返してくれた。僕も彼と同じガラスをこぶしでたたきながら、いつかこのガラスのない所で、彼ともう一度会いたい、会えるようにしなければならない、と強く思った。廊下に出ても、扉が開いていたので彼の姿を見ることができる。何度も振り返り振り返り彼の姿を見て手を挙げるたびに、彼も拳をあげて挨拶を繰り返してくれた。
 このハイテクの地獄に、同時代でもっともすぐれた変革者・良心をとらえ、殺害しようとしているのが、僕たちが住んでいる時代であり、社会なのだ。

一九九九年五月一八日