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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
今井恭平の文章

映画評

デッドマン・ウォーキング


この映画評は、実現しなかったある企画のために書いたもので、後に一部を書き直したものが季刊「刑事弁護」に掲載されました。

監督・脚本/ティム・ロビンス
原作/シスター・ヘレン・プレジャン
主演/スーザン・サランドン ショーン・ペン
1995年 アメリカ

第68回アカデミー賞主演女優賞受賞/スーザン・サランドン
主演男優賞ノミネート/ショーン・ペン
監督賞ノミネート/ティム・ロビンス

死刑をありのままに提示した作品

 死刑をあつかった映画の中でも、近年これほど話題になったものはない。
 とりかえしのつかない犯罪に対しては、死刑もやむをえない、と考える人も、死刑は存在すべきではないと考える人も、この映画の中には、死刑に関する多くの真実が描かれていることは、同意するのではないだろうか。
 シスター・ヘレン・プレジャンの原作は、彼女が実際に経験した二人の死刑囚との交流にもとづいて書かれている。映画の死刑囚マシュー・ポンスレットは、この二人の人物像をたくみに組み合わせて造形された。
 原作では、そのうち一人は、無実を訴えつづけたまま処刑されるが、映画では、えん罪を主張していたマシューが、最後に自分が殺したことをシスター・へレンに告白する。へレンは、なぜ告白を迫るのかについては、議論の分かれるところかもしれない。死刑囚が死におびえ、自分の犯した罪におびえ、それゆえそれを直視しようとしない弱さが、人間という存在そのものの弱さだとすれば、そこまで他者の魂の内面に分け入る権利が誰にあるのか、という疑問もありうるように思う。しかし、マシューが有罪を認めることで、この映画が、えん罪か否かを越えて、死刑そのものを描こうとする意志を示したことだけは、間違いなく感じとれる。制作者は、死刑の是非を問うているのでも、犯罪の是非を問うているのでもなく、その前に死刑の真実の有様をそのまま提示しようと試みたのだろう。そして、あまりにそれを知らずに、死刑の是非を語っていないか、と問いかけているのではないだろうか。

執行をひた隠しにする日本の法務省

 死刑の実際の姿をわれわれが知らないことは、われわれの罪ではない。ことに我が国では、死刑執行は、そのいっさいが秘密のベールに包まれて行われ、執行があったかどうかさえ、法務省は公式には明らかにしない。ただ唯一、法務省の年報に執行数が公表されるだけだ。
 刑の執行は、本人にもあらかじめ知らされず、ある朝とつぜんに多数の看守が独房にやってきて、同囚との挨拶のいとまもそこそこに、刑場へと連行される。映画のような家族との別れもなければ、電話で話すことなど考えることもできないのが、我が国の死刑囚の実際だ。
 この点では、被害者の遺族もまた、死刑から疎外されている。被害者の思いを国家が代行するというのも、死刑存置の論拠の一つだが、実際には被害者の遺族は、刑が執行されたことすら知らされもしない。映画の中では、マシューたちに殺されたティーンエイジャー・カップルの親たちが死刑に立ち会うが、これも日本では考えられないことだ。

三つの家族の悲劇

 映画は、二つの被害者家族が、一方は強硬な死刑賛成論者となり、マスコミにもその主張を激しく述べる姿を描き、一方は息子の死を受け止める心のありようの食い違いから、離婚へ追いやられる姿を描く。「子供を失った夫婦が離婚する率は七割になる」と語られるせりふが事実なのかどうかは知らないが、残された者が喪失感から癒やしに至る過程は、第三者に安易な想像を許さない。
 映画では、家族を殺された人たちが集まって、互いの経験を話し合いながら、相互カウンセリングをする集まりが描かれている。アメリカには、ボランティアや地域社会、政府も参加して、このような組織が各地に作られているという。日本でも、専門家とボランティアによる被害者救援の活動ができつつあるが、まだ、犯罪被害者の問題を社会の問題として、つまりわれわれ一人ひとりが責任を分担している問題として考えることは、希薄だ。こうした社会的土壌を変えなければ、死刑制度は、犯人を殺すことで被害者遺族へのそれ以上の一切の社会的ケアをサボタージュするために使われていることにはならないだろうか。そして、被害者家族は、犯人の死刑を望む以外に救いのない状況に追いやられたままではないだろうか。
 また、死刑は、もう一つの被害者家族を新たに生み出す。マシューの母親や弟たちだ。最後の別れのとき、マシューを抱擁しようとして看守に止められた母が、「これでいいんだ。もし抱きしめたら離すことができなくなる」と語る、この悲しみに、誰が被害者家族の悲しみと優劣や軽重をつけることができるだろうか。
 母親との別れのシーンで、Don`t cry mamaと叫ぶマシューの悲しみと愛は、殺人者だからといって、ふつうの人々よりも劣るものなのだろうか。

サランドンとショーン・ペンの最高の演技

 へレンを演じるスーザン・サランドンは、原作を読んで自分で映画化を思いつき、夫であるティム・ロビンスに話をもちかけた。それだけに、ういういしく一本気なへレンを、自分自身であるように完璧に演じきっている。またマシュー役のショーン・ペンは、無教養で偏見に満ちていて、傲慢で、それでいて死におびえ、愛情に飢えた複雑な役を、みごとに演じきって、ほとんどマシューという死刑囚を実在のものにしている。
 執行直前の二人の会話は、息詰まるような緊張の中で、最後の瞬間を、憎悪ではなく愛をもって迎えたいという二人の共同のたたかいだ。マシューが、へレンに言うthank you for loving me(僕を愛してくれてありがとう)という一言は、まるで生涯をともにしてきた夫婦が、最後に言い交わす言葉のようだ。マシューがへレンに愛されたのは、わずか数週間であったかもしれないが、それは一生涯をかけた愛となんの遜色もない。  執行台に縛り付けられたマシューが、「僕の死が、あなたにとっての癒やしになりますように、そして僕を赦してください」と被害者の父に語ることができたのは、彼自身がへレンによって愛されたからだろう。
 独房から執行室までを歩くマシュー(この最後の道程を歩む死刑囚を、デッドマン・ウォーキング=歩く死者と呼ぶ)と、その肩に手をおいて後ろを歩むシスター・へレン、ここから先は着いていってはいけない、と看守に阻止されたとき、マシューの肩に口づけするへレンの顔、最後の瞬間、互いの目を見ながら、I love youと言い交わす二人の目、こうしたシーンは、生涯忘れがたいものとなるだろう。そして、人を殺すことは、どのような意味でも正当化しえない悲惨なことだと思い起こさせてくれるだろう。人を殺すこと以上に恐ろしいことがあるとすれば、それは人を殺すことを正当化し、合理化しようとする論理や制度ではないだろうか。


コラム 死刑執行方法と人道性

 この映画の中では、致死注射による死刑執行のシーンが克明に描かれている。1995年にアメリカ全土で執行された死刑は56件、うち48件が、この方法で執行されている。(アムネスティ・インターナショナルの調査による)現在では、フロリダ、アラバマ、ジョージアの三州が電気椅子による処刑を存続している以外は、ガス殺や電気殺を廃止し、この方法に移行している。その理由は、致死注射がより苦痛の少ない、「人道的」な殺害方法と考えられているからのようだ。デッドマン・ウォーキングの原作は、1980年代の話なので、シスター・へレンが精神アドヴァイザーをつとめた二人の死刑囚は、実際には電気椅子で執行された。
 電気椅子は、多くの目撃証言によれば、感電死というより、実際は焼殺であり、肉の焼ける臭いや、体から煙や炎さえ出ることがあるという。死に至る時間も、十分以上かかり、その間、死刑囚は断続的に高圧電流を何度も体に流しつづけられる。
 一方、より「人道的」な殺し方と言われる致死注射では、糖尿病患者や麻薬使用の経験者などには効果が出にくく、死に至るまでにより時間がかかり、それだけ苦痛も大きくなることが、複数の医師から報告されている。
 けっきょく「人道的」とは、映画の中でマシューの弁護人が述べているように、内部では肺が冒され、内臓がむしばまれる苦痛が進行していても、血が流れず、見た目に「きれい」で、執行する側が、自分をごまかすのに都合のよい方法にすぎない。


【はみ出しコラム】

マシューと刑務所で面会した帰り道、物思いにふけるシスター・へレンが、思わずスピード違反をしてしまうシーンで、彼女の車を停止させるパトロール警官の役を演じていたのは、ティム・ロビンスが主演した「ショーシャンクの空の下に」で鬼看守役をしていたクランシー・ブラウン。 言うまでもなく、「ショーシャンクの空の下に」も必見の映画。