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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
今井恭平の文章

無罪でも勾留
 異常が常態化する外国人裁判
 今井恭平



初出は『週刊金曜日』2002年12月

「もう1回、無罪、お願いします」
 背は高くはないが、がっちりした体格で、丸刈りの頭と大きな目、濃い眉が印象的なその若い男性は、東京拘置所の面会室の窓越しに、たどたどしい日本語で私に言った。
 日系ブラジル人3世のT・ロベルトさん(26歳)が来日したのは1993年10月。家を建てるために、働いて金を貯めるのが目的だった。95年に同国人の女性と知り合って結婚。やがて娘が生まれ、その子を保育所に預けて夫婦で工場に通っていた。だが生活は苦しく、月6万円の保育料の支払いに行き詰まり、1カ月たらずで通園をやめ、その後は、働きに出ている間は娘をアパートのトイレに閉じこめるようになった。
 2000年6月27日の朝、娘(当時3歳)は寝床の中で死亡していた。死因は外傷性ショック死。全身に打撲傷があり、家庭内の虐待による死であることは、疑いない状況だった。
 ロベルトさんは最初、自分が暴行したと供述。だが裁判では一転して、暴行したのは妻で、自分は一切手を出していないと主張した。
 ここでは事件の詳細にふれる余裕はない。だが、2001年5月24日、長野地裁松本支部(千徳輝夫裁判長)は無罪判決を言い渡した。また判決が指摘するように、客観的状況と被告人の供述には数々の矛盾がある。
 無罪判決で勾留状は効力を失う(刑事訴訟法第345条)。ロベルトさんは当然釈放された。ところが、控訴審第1回公判が行われた2001年10月17日、東京高裁第3刑事部(中川武隆裁判長)は、被告人の勾留を決定し、身柄を東京拘置所に移した。
 無罪判決後の勾留という異例の事態は、97年に東京都渋谷区内でおきた電力会社社員殺害事件のゴビンダ・マイナリ被告(ネパール国籍)に次いで2度目のケース。
 東京高検の山口晴夫検事は、勾留を求める申立書でゴビンダ事件を引用し「第一審裁判所が・・・・・・無罪の判決を言い渡した場合であっても、控訴審裁判所は・・・・・・その審理の段階を問わず、被告人を勾留する事ができ、新たな証拠の取り調べを待たなければならないものではない」と述べている。つまり一審無罪でも、新たな証拠調べさえ行わないで再勾留できると言うのである。刑訴法第60条は勾留の要件として「被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合」と定めている。無罪判決を受けた者がこれに該当するというのなら、一審判決は紙くずである。
 ゴビンダ事件では、オーバーステイの外国人であることを理由に、国外退去してしまうと裁判が維持できないという「理屈」を一応はつけていた。しかしロベルトさんには2003年まで滞在資格があり、住居も職業も定まっている。しかも長野地検(跡部敏夫検事)は、控訴と同時に「出国確認留保該当者通知書」なるものを東京入国管理局長あてに提出し、ロベルトさんが出国しようとしたら、直ちに警察と長野地検へ通報するよう要請している。これでは日本人以上に「国外逃亡」は困難である。にもかかわらず、最高裁判所第3小法廷までが、この勾留を認める決定を行った(2001年11月21日)。
 その後ロベルトさんは、東京拘置所に勾留されたまま2002年7月8日、勾留決定したのと同じ中川武隆裁判長によって、逆転有罪判決(傷害致死で懲役5年)を受けた。これもゴビンダ事件と同じ経緯である。
 私が彼とはじめて面会したのは、今年(2002年)11月25日、上告趣意書の提出から1カ月ほどしてからである。冒頭に引用した言葉からも、彼が上告に望みを託していたことは痛いほど分かった。だが、実はこの日、すでに上告が棄却されていたことが数日後に判明した。
 一審からの弁護人、上條剛弁護士は「一審裁判など意味がない、上級審ですべて決める、と宣告されたようなものだ」と語る。そして、現在上告中のゴビンダ弁護団の1人、神田安積弁護士も「外国人でひとたび逮捕された者は怪しい。第一審はあてにならないので、高裁が身柄をもう1度拘束して、きちんと有罪にしてやるという感覚なのでしょう」と語る。
 ゴビンダさんの勾留決定に際しては、まだ最高裁内部でも反対意見があった。だが今回は、異論すら出なかった。自ら法を踏みにじった最高裁判事は以下の4名である。
 裁判長・奥田昌道/千種秀夫/金谷利廣/濱田邦夫。