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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
ムミアの論考集

アフガニスタンと「大いなるゲーム」

2001年12月18日   今井恭平/訳
以下は、ムミア・アブ=ジャマールがアフガン情勢に関連して発表した政治コラムの拙訳です。原文も末尾に掲載してあります。(今井恭平)
 何百万のアメリカ人にとって、歴史は頭を混乱させる判じ物である。アメリカ史となるとことさらである。世界史となると、戸惑いはさらに大きなものとなるだけであり、理解不能の領域にまで至ってしまう。
 そうした人たちにとって、古代国家並みに遅れ、テキサス州ほどの広さしかなく、アジアの中心部に位置するアフガニスタンとは、粉塵にまみれ、恐怖が浸潤した2001年9月11日の残骸の余波としてのみ「現実」として認識されるようになった。それ以外の知識と言えば、旧ソ連邦との10年にわたる戦争についてのわずかの事柄だけであり、長年にわたる軍事的伝統についてもほとんどの人には知られていない。
 それは、19世紀初頭にまでさかのぼり「大いなるゲーム」the Great Game と呼ばれる英国と帝政ロシアとの帝国同士の衝突の中でこの国が果たした役割についてである。当時、帝政ロシアは、その帝国の国境線を南に押し広げ、ピヨトル大帝が「インド洋のあたたかい水」と呼んだ地域まで拡張しようとしていた。だが、この地域は、英国(あるいはそのインド植民地)が自らに帰属すると主張していたものである。その真ん中に位置したのが、アフガニスタン王国である。
 ロシアは、カージャール朝ペルシャの後押しをして、「インドへの玄関口」と目されていたアフガニスタン西部の都市、へラートを攻撃させることで、ヨーロッパへの侵攻の口火を切った。英国は、へラート防衛のために軍隊や装備などを送り込んだ。ペルシャ軍に対抗するため、英国海軍の艦隊がペルシャ湾に進入し、こうして1837年から38年にかけて、この地域におけるロシアの企図を阻んだ。
 それにつづく80年間ほどの期間に、アフガニスタン人は英国と3度にわたって戦争を行うことになる。そして、そのすべてで勝利をおさめた。アフガン人とアングロサクソンの最後の戦争は1919年に終了した。それまでに、英国の帝国主義的行為はアメリカに引き継がれ、帝政ロシアはソビエトに道を譲った。主役は入れ替わったが、ゲームは冷戦にいたっても継続した。
 1980年代までに、ゲームはふたたび引き起こされた。つまり、米国が秘密部隊を送り込み、ソ連の軍事的反撃を誘発させ、カーター政権で国家安全保障担当補佐官だったジノビエフ・ブレジンスキーが後に「アフガンの罠」と呼んだ事態を生じさせた。アフガニスタンはソ連のベトナムと化し、数万が戦争で命を失い、ついにはソ連邦崩壊にまでつながった。
 多民族からなるタリバン政権を転覆するために米国の軍隊がアフガニスタンに侵入したことで、大いなるゲームの新たなラウンドが開始された。
 容赦のない空軍力の投入と激しい爆撃、そして北部同盟と称される地上軍による軍事戦略によって、タリバンは戦闘において圧倒された。わずか数週間で、事実上彼らはすべての支配区を失った。
 しかし、だとしてもこの事態が「大いなるゲーム」の継続にすぎないことに変わりはなく、以前と同じ顔ぶれがサイコロを振っている。真相は、タリバンとはパキスタンとサウジアラビアの後見の下に置かれた従属政権にすぎなかったということである。カブールをはじめ、アフガニスタンの主要都市がいわゆる北部同盟と称するものの手に落ちたことによって、サウジとパキスタンは追い出され、替わりにロシアが10年にわたる戦争で手にすることの出来なかったものを手中に収めた。
 それは、かつてピヨトル大帝が欲した、ロシアの食欲をそそる「インド洋のあたたかい水」ではないが、今後50年にわたって工業需要を満たせるほどのカスピ海の海底石油である。
「大いなるゲーム」は従前通りに続く。富と権力のために。

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