小菅の時も、そして今日の横浜でも。
くやしいのだから、悲しいのだから、
泣いたっていいのに、笑顔じゃない時はない。
それも、いかにも幸せそうな、くもりのない笑顔だ。
来てくれた人に悪いからだろうか。
それとも、涙は全部飲み込んでしまったのだろうか。
私は、3年ぶりで会ったのに、ナマステさえ言えなかった。
だって泣くべき人が澄んだ目をして笑っているのだもの。
毎日、涙を飲み込んでいたとするなら、
おなかがふくらんでもよさそうなものを、
とてもスッキリ、スマートで、顔色もよく思えた。
腕に赤いバッチをつけて、「これは真面目に勤務した人だけにくれるもの。
今のとこ、ボクたち三人だけ」と言ったような気がしたから、
いっそう気おくれしてしまった。
いきなり暗い落とし穴に落ちたような不運にめげず、あのように
清々しい笑顔になれるとは、どれだけのことを水に流したのだろう。
私は話す言葉を失ったまま、小学生のように客野先生の横にいて、
ガラスの向こうのゴビンダさんを遠い人のように眺めていた。
独房というからには、食事も一人ぼっちなのだろう。
一人の食事は淋しい。淋しいからいろんなことを考える。
こみあげて涙と一緒に飲み込むこともある。
面会で泣かなくても、彼の泣き場はいっぱいあるのだね。
聞いて良いことはあまりに少ない。
面会の後は、いつものことながら、彼を置き去りにする
うしろめたさにとらわれる。
客野さんと別れて横浜線に乗った。
夏野菜の畑を通過する。
まっ盛りの収穫を積んだ軽トラが家路を急ぐ。
房の外は生活に満ちているというのに、今のゴビンダさんには無縁。
突然、ひまわりの大群が広がった。
つい今しがた、ゴビンダさんに差入れたタオルと同じ色だ。
彼が選んだ黄色、なるほど元気な色だ。
空の下のひまわりは、夏の猛暑にもめげず、
細い茎に大輪を持ち上げ、そのまま元気な色になっている。
畑は元気がみなぎって、夕日に負けず、丈高のひまわりは黄色。
連日雨続きで水かさの増した川が勢い良く下る。
やがて海に出るまで遠くない。
きっと、そう遠くないよね。
こんど、ゴビンダさんにも、そう伝えよう。
小野寺敦子