11月10日以降、17日に確定処遇となって面会出来なくなるまでの期間は、緊急来日したラダさん(ゴビンダ夫人)の面会を優先させ、支援者は東拘まで同行しましたが、面会は基本的にお二人だけで出来るようにしました。したがってこの最後の期間の直接の面会報告はありませんが、この間、ゴビンダさんは毎日ラダさんと会うことができました。
もうゴビンダさんと面会できなくなりました 2003年11月17日 客野美喜子
今井さんからの電話による連絡をお知らせします。 今朝10時、ラダさんに同行して拘置所に行ったところ、面会申し込みの窓口で「今日から既決になっている」と、告げられた。「奥さんだけ入れても、ネパール語で話すことは認められない」と言われたので、ラダさんも、今日の面会はとりやめた。また「通訳できる人なら誰でも入れるというわけにはいかない。大使館に相談してくれ」とも言われた。
とうとう、今日から、私たちは、ゴビンダさんと直接の面会も 文通もできなくなりました。いつどこの刑務所に送られるかは、これから拘置所内で行われる分類調査の結果や刑務所の都合などによって決まるそうです。移送の当日まで、本人にさえ知らされません。家族や弁護団を通じて、今後、何らかの情報が入ったら、お知らせいたします。
若い人たちに伝えたい 2003年11月12日 山縣紀子
ほとんどあきらめていた面会を、客野さんからまだ可能性がありそうとの連絡を頂き、ラダさんに同行させて頂きました。菅野駅からご一緒の熊野さんに通訳して頂いて少しラダさんとお話できました。ゴビンダさんはやはりとても知的な方でした。
ラダさんにてきぱきと事務的なことや連絡ごとなどを伝えながら、「天気が良い時に支援の方とどこか良い所で写真を撮って私に下さい」とラダさんを気遣い、大事な時間を私の方まで気遣うなど、思いやりや責任感の強い方と思いました。また、来年のさくらの咲くころに両親を呼びたいとのことでした。色々と難しい事かもしれませんが思いが実現できればと思います。とにかくご本人に会えてやはり良かった。客野さん、いろいろと大変な連絡を有難うございました。
これからまわりの、特に若い人達にこの事実、裁判制度の問題など伝えていかねばと思っています。
仏教僧侶の方からの手紙 2003年11月9日 蓮見順子
面会に行った人たちがいつもゴビンダさんに問いかけられ、どう答えていいのかと心を痛め、ただ沈黙して見つめるだけの質問があります。面会報告の中でも何度か触れられていたかと思います。
「私は無実です。無実の者が監獄に入り、いったいどういう気持ちで毎日をおくれば良いのですか。教えてください。罪を犯した人は、償いの気持ちで努力をすればいい。でも私はやっていない。どういう心をもって過ごせばいいのか。」
私は、友人で、ネパールの一民族ネワーの人たちのネワー仏教の保存にずいぶん昔からかかわっておられる僧侶の方に、ゴビンダさんに会ってくださいとお願いしました。ゴビンダさんと話をしていただき、刑務所で過ごすための心の指標のようなもの、支えとなるようなものを少しでも示してあげられたらと思ったからです。その方はネパール語ができますので、より的確に伝えていただけると期待しました。
面会をしていただいたのですが、その日の刑務官は冷たく、日本語で話しなさいと言ったそうです。結局、せっかくの試みはそれで、だめになりました。でも、その僧侶の方は、ネパール語でゴビンダさんに手紙を書いてくれました。先日面会に行きましたら、ゴビンダさんは、「あの手紙は何度も繰り返し読んでいます」と真剣な顔をして言っていました。
ご了解を得て、ここにそのお手紙をご紹介したいと思います。少し、長くなりますが、読んでいただければ幸いです。
ゴビンダ・プラサド・マイナリ様
昨日お会いできましたこと感謝申し上げます。
私は西さんや蓮見順子さんの友人であり、比丘です。日本の仏教では比丘だと呼ばれていても悲しいことにアジア諸国の比丘からは比丘と呼ばれないこともあります。日本は仏教が発祥したインドから遠隔で、しかも長い時が流れてしまっていることもありましょうし。また日本はいろんな文化を導入したので、アジアから少し外れてしまったのでしょうか。だから私は比丘だと云わないで、日常的に貴方の前にあらわれる人たちとなんら変わりない人間だと思っていただく方が良いです。
じつは貴兄のことはよく二人から聴いておりましたし、裁判で無罪になることは間違いないだろうと思ってきました。しかし予想もしたくなかった判決がなされ、貴方のショックとは比べ物にならないでしょうが、私も大きなショックを受けました。
そういう状況の中で私が貴兄に会うことになったのは、『貴方がきっと大変な衝撃を受けておられ、この運命をすぐには受け入れられないためにひどく憔悴してしまわないか』と心配をされる貴方の無実を信じる多くの方々が『高岡がすくなくも宗教に奉じている人間だから、なにがしか貴方の心の支えになるだろう』というような期待をしているからだったかもしれません。そういうことを感じながら此所へ来たようにも思います。
しかし私自身は、此所へ来る前から貴方になにがしかの心の支えになれるなどと言うような、そんな力がないことをはっきり知っていました。そして次第にあなたにお会いすることは貴方のためだと言うよりは私自身の問題だと気付きはじめました。
貴方は耐えるにも耐えられないような苦しい状況にあります。そんな大きな貴兄の苦しみを前にして何もできない私が自分を比丘だと云うことは、私自身の恥をさらすだけだという思いでした。
私が貴方の無実を知りながら何もしてこなかったことも恥ずかしいことです。今ここで貴方に会って貴方になにがしかの心の慰めや支えを差し上げられないことも恥ずかしいことです。しかしそれ以上に恥ずかしいのは、貴方が苦境に陥っている眼前で、比丘としても人間としても自身の心の奥の方に罪をそっと隠しておいて、のうのうと生きているこの身そのものを感じることです。あなたが無実で牢内にいるのに、私はおおきな罪を背負っていても、いわゆる自由な世間を歩いているのですから。貴方の前に出た瞬間もはやどうにも自分の恥を隠し通せなくなってしまったと思ったのです。貴方によってこそ自分の恥があからさまさに白日にさらされてしまった、そのように感じたのです。
仏教の比丘がヒンズー教の貴方にこんな話をするのはおかしなことかも知れませんが、キリストの故事をおもいおこしてしまいました。キリストはあらゆる人へ平等な愛を自ら行い、またあらゆる(罪)人へ神の許しがあることを語ったために十字架を背負わされてしまいます。しかし彼はかれを死にいたらしめるようとする人たちにさえ神の許しを乞いながら、張り付けなって死んでいきました。その故事を思い出しながら、壁の中にいるあなたに壁の外にいる私は何もしてあげられないどころか、むしろなんだか私もあなたをこんな苦境に追い込んでしまった一人なのではないかとさえ思っていました。それで貴方の許しを乞いに貴方の前に来た、そんな気持ちでした。
あなたはこれからどこまでも孤独に落とし込められるでしょう。そのことは私にも耐えられない悲しみです。しかしそれでも今あなたにお願いするのです。ちょうどキリストが自分を処刑場に送った人たちを許し愛したように、あなたの前に現れたすべての人たちを許してあげてください。さらに私や友人達のために『私ゴビンダは君達といっしょに生きていくから心配するな』と言って下さい。私達に向かって『君達よ、私がこの闇で絶望に忍耐していることを思い出して、少しでも恥をさらさない生様をしなさいよ!』と励まして下さい。私達は、貴方が人間の愚かさを一身に引き受けて深い孤独の淵で忍耐している時に、尚も我々のために祈ってくれとお願いしなければならない程に私達は病んでいるのです。わたしは貴方が必ずやそのように私達のために祈ってくれると信じながら、私達も少しでも恥をさらすような生き方をすまいと誓いたいと思います。
貴方のこれからの過酷な日々を知っています。私達は何もできないけれどいつもいつも貴方を思い出し、貴方を信じる者達と貴方のことを語り合い、貴方の置かれている状況を広く伝えながら訴えたいと思います。さらに貴方の家族や友人達に貴方のことを連絡し、家族の様子をあなたへ運ぼうと思います。そして貴方が一刻も早くネパールへ戻れる機会が得られるようにその日が来るまで祈りつづけます。
どうぞどうぞご身体とお心を大事にしてください。いかなるところにも希望と光はあるはずです。きっとあなたはそれを見い出して過ごされるのだと思います。必ずや何時の日か、また貴方が愛する家族や、あなたを信じる人たちと会えるはずです。その時がくるのを深く信じて身体と心を大切にして下さい。
またあなたに手紙を書きたいと思っています。それをお許し下さい。あなたを決して忘れないことは、自分が放逸な日々を送らないための力になるはずです。 |
300通以上もの励ましの手紙 2003年11月7日 客野美喜子
客野です。異議申し立て却下から3日目にあたる今日、蓮見さん、金子さんと3人でゴビンダさんに面会してきました。
今日面会できたということは、「刑の執行指揮書」は、まだ拘置所に届いていないわけです。あと何日、この状態が続くのかわかりませんが、10日(月)からはラダさんが面会に入るので、いずれにせよ、私たち支援者が拘置所でゴビンダさんに会うのは、今日が最後になります。どちらも、そのことを承知しているので、さすがに胸に迫るものがあり、表情も声音も沈みがちでした。
ゴビンダさんは、昨日、支援者のみなさん宛のメッセージを書いて、客野のところに送ったそうです。上告棄却以後、300通以上もの励ましの手紙をいただいたが、1日1通しか発信が許されていないため、一人一人に返事を書くことができない。代わりに、このメッセージを次回通信に載せてほしい(時間がないので絵は描いていないけれど)とのことです。
「昨夜、少し、緊張(ストレス)、感じました。悪いことしてないのに、どうして刑務所、行かないといけないのか・・・」と、また悲しげに言っていました。
つとめて気持ちを落ち着けようとしても、いよいよ刑務所に移される日が近づいてくると、やはり、時々、感情の揺り戻しに襲われるのでしょう。刑務所の厳しい規律について不安があるが、桜井さんが「わからないことは、わからないと、言えばいいから」と、(面会後の)手紙で教えてくれたので、少し安心したとのことです。
刑務所に行っても、今までどおり、ネパール語の新聞と雑誌(印刷物)は、送ってあげられるということを伝えると、「お願いします。気分転換、必要だから」と嬉しそうにしていました。「気分転換」などという言葉がすらっと出てくるのを聞いて、ゴビンダさんがここで過ごした歳月の長さをあらためて感じました。私が初めて面会した頃(3年半くらい前)は、まだ、こんなに日本語が上手ではなかったのです。
蓮見さんからは、数日前、イラムに電話した時のことを伝えました。ラダさんは、もうカトマンズに発った後だったが、ゴビンダさんのお母さんと話すことができた。「日本に来るつもりがありますか?」と訊いたら、
「家族と相談してみます」というような答えだったそうです。
しかし、これを聞いたゴビンダさんは、「イラムからカトマンズまでだって遠いから・・・」と、悲しそうに言っていました。先日までは、自分から、
「どうしても生きているうちに会いたいから、両親も日本によんでほしい」
と言っていたのですが、やはり年齢と健康状態を考慮すると、はるばる日本まで来るのは無理だろうと、あきらめているようでした。
最後のせいか少し面会時間を長くくれました。月曜の家族面会には、大使館の方が同行してくださるはずです。あとは、執行指揮書が1日でも遅く届くことを祈るしかありません。
最期の面会 2003年11月7日 金子貴一
一般のボランティアにとって最後かもしれない本日の面会に、会に名前を連ねているだけの私のような者が参加させて頂いて、本当にありがとうございました。ゴビンダさんは、最後かも知れないと知っていながら、時間の限られた面会中、私にも心を配ってくれました。客野さん、蓮見さんが今後の事務的なこと等、大切なことを話されていたとき、「話さなかったですね」と言って、親しく言葉を掛けてくれました。実は私はライターの仕事をしており、事件が起きた1997年にネパールのイラムも訪れ、9時間という長きにわたりラダさんや家族の方々にもお話を伺ったことがあります。当時、編集部の依頼で取材を行ったわけですが、私のスタンスは、「自分を無にして、ただ取材相手(ゴビンダさんの日本での友人たちや家族など)が語ったことを素直に筆記して行こう」というものでした。しかし、今読み返してみると、結果的にゴビンダさんに不利な表記が目立ったことも事実です。そして今回の刑の確定。
ゴビンダさんをおとしめる片棒を担いだようで、申し訳ない気持ちでした。本日は、懺悔をさせて頂こうと、参加致しました。しかし、客野さんから「そのこと(記事の件)は、自分から言う必要はない」とのアドバイスを頂き、ゴビンダさんにはイラムでご家族にお会いしたことがあること、今後もし行く機会があれば、何かお手伝いさせて頂きたい旨をお伝えしました。そして、最後に「これからも頑張ってください」と言うのが精一杯でした。
最後にゴビンダさんは、別れを惜しみガラスに手を当てていた私たち一人一人と、ガラス越しに手を合わせてくれましたが、そのときにとても暖かい気持ちが伝わってきました。
なかなか会の活動自体には参加させて頂くことは出来ない私ですが、今後も自分に出来ることから関わらせて頂きたいと思っておりますので、宜しくお願い申し上げます。
米国人ジャーナリストといっしょに面会 2003年11月6日 今井恭平
私、熊野さん、Dさんといっしょに面会してきました。
Dさんは、熊野さんが紹介されたように、イギリス人でこれも冤罪の可能性が高く、非常に悪いコンディションにおかれているニック・ベイカー氏の件についてカバーしたジャーナリストです。今回のゴビンダさんの上告棄却については、外国人に対する日本の司法の問題点として取材したいということでした。
彼は自己申告よりも日本語が上手で、ゴビンダさんとも日本語で会話しました。ゴビンダさんは、海外のジャーナリストに話しをする機会ができたことを喜んでいたと思います。
私のほうからは、今週末にラダさんとインドラさんが日本に着く予定で、月曜日にはたぶん二人が面会に来れるはずであることを伝えました。異議申し立ての却下については、彼はすでに知っていました。裁判所から送られてきたその用紙を面会室のガラスごしに見せてくれました。それによると、却下の日付は11月4日でした。
櫻井さんからもあったように、まだ数日は会える可能性がありますが、いずれにしても、来週以降はラダさん、インドラさんの面会が最優先ですので、支援者としては、明日行く人たちが、面会できる最後になる可能性がきわめて高いです。僕も、ひょっとすると今日が最後になるかも知れないと思うと、とてもいたたまれない気持で、面会室を出てきてからもずっと落ち込んでいます。でも、必ずまた会えるから、と約束して分かれてきました。
今後は、再審と特別面会などの確保のためにやるべきことも長期戦になります。どうか、かわらず、ご支援ください。そして、最後の最後まで、手紙を書きつづけてください。
はじめまして、そしてまた会える日を 2003年11月5日 和田嘉浩
11/5(水)の面会報告です。
当日はHさんとTさん、僕の3人で東拘のゴビンダさんに面会してきました。僕とTは10/21のニュースでゴビンダさんの存在を知ったので、今回が初めての彼との対面でした。わずか20分程の時間でしたが、今回ゴビンダさんにお会いして、改めて彼が冤罪であることを確信致しました。あんな綺麗な目をした優しい人に強盗殺人ができるわけがないと思います。喪失感と恐怖、絶望しか見当たらないような無期限の理不尽現実地獄に押しつぶされながらも彼はまだ知性の光りと品格を保ち、善良でそして紳士であり続けていました。
七年間 言葉の通じぬ異国の拘置所の狭い独居房で耐えてきたゴビンダさん。
毎日地獄の中での唯一の希望(無罪判決)が打ち砕かれてもなお、透明で濁らぬ瞳の色を保つ彼の強靱な精神力には心から敬服致しました。ゴビンダさんは本当に立派で素敵な方でした。
ゴビンダさんに
「遠くにいて手も足も出ないあなたの家族の悔しさを常に思い、獄中で完全に自由を奪われているあなたの苦しみを常に思い、この冤罪事件を大きな社会問題にするため、私達は全力を尽くす覚悟です。」と伝えると、ゴビンダさんは何度も何度も
「助けて下さい、お願いします」と、言っていました。
これから私達は「ゴビンダ冤罪事件」再審の為にあらゆる手段を講じる覚悟です。最高裁の判決後から遅れて現れた私達ですがこれまでゴビンダさんを支えてきてくれた人達に続き、本気で闘う覚悟です。もうすぐゴビンダさんと面会できなくなりますが、刑務所で特別面会が許されて、また会えることを心から期待します。
FM放送聞きました 2003年11月4日 客野美喜子
客野です。佐野眞一さんから、今朝の面会の様子について、以下のようなお電話をいただきました。
あまり待たず、すぐ面会できた。20分くらい、わりとゆっくり話すことができた。今朝のゴビンダさんは、顔色もよく、大変元気そうだった。
開口一番、「昨夜、佐野さんのラジオ放送を聴きました」と言われたので、非常にびっくりした。たまたま、拘置所がこの時間帯に「J-wave」を流していたのを聴いたものと思われる。「途中で就寝時間になってしまい、最後まで聞けなかったが、あの後、どんなことを話したのですか?」と質問されたので、ゴビンダさんは冤罪だということを話したと答えたら、大変喜んでいた。今、ゴビンダさんのことを書いている。11月17日発売の「新潮45」に載るので、ローマ字に直してゴビンダさんに読めるようにして送ってあげると約束してきた。
以上です。
昨夜のラジオ放送を聴いたすぐ翌日に、佐野さんが面会にきてくださって、ゴビンダさんは、大いに勇気づけられたに違いありません。思いがけない、絶妙なタイミングでした!
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