無実のゴビンダさんを支える会

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ラブレターです!   2003年5月26日  岡野美津子

 「ナマステ」と、にこやかながら、やや緊張した面持ちで入室したゴビンダさんだ。初めての方を面会にお連れした時は、いつもこんな雰囲気である。
「支える会の北さんです」と私。
「初めまして」と北さん。
「助けてください、よろしくお願いします」
ひとしきり挨拶を交し合った。一段落すると、
「ラブレターです!」と、ラダさんが帰国前日に書いて神田先生を通して送られてきた手紙を出してみせ、
「ラダさんのことは、小さい頃からよく知ってるのだから」と自慢げな顔で、「私と一緒にネパールに帰れないので、ラダさんは特に涙したのです」などと話す。
「先週、ラダさんからの伝言を、私がこまかく伝えたでしょう?」
「はい、それでも、本人からの手紙を読むまでは、少し不安でした。手紙の実物を読んで安心しました、本当に!」
「支援の会から、何かメッセージはありますか?」
「特にありませんが、最高裁に公正な裁判を求める署名活動を、今、支援者一人一人が必死でしているところです。国民救援会の署名収集力や支援は特に力強いから、有難いことですね」
「ラダさんは、この手紙に、日本でお世話になった一人一人に、厚く御礼を伝えてくださいと書いています」
「ラダさん、シュレスタさん、インドラさんを日本に呼べたのは、ここに面会に来られない沢山の支援者のおかげです。一人一人に感謝しなければね。お金持ちだからカンパしてくれてるわけではなく、みな、自分たちの大切な生活費の一部を削って、支援してくれてるのです。そのことを忘れないでくださいね」
 諭すような私の言葉に、ゴビンダさんは頷いて、「今日、90才のおばあさんが、2千円を小菅に送金してくださいました」と呟いた。
「体調はどうですか?」
「血液検査は問題ありませんでした。今度、血圧を測定するらしいです。ラダさんの手紙を読んでからは、眠れるようになりました」
「今週も、みなさんが面会に来てくれるから、体調に気をつけてがんばってくださいね。ラダさん滞在中の写真、今日も差し入れておきましたよ」
 北さんとは、文通でコミュニケーションを深める約束をしていた。今日は、11分と短めの面会だったが、風呂上りのすっきりしたゴビンダさんだった。 

新しい拘置所   2003年5月23日  今井恭平

 久しぶりでゴビさんに会ってきました。東京拘置所が新しくなってから、僕は初めての面会です。ゴビさんとこの前最後に会ったのは、インドラさんといっしょに面会に行ったときだから2月以来、3カ月ぶりくらいということになります。
 東拘が新しくなったので、面会所の入口が分からなくてちょっととまどいました。駐車場の裏手を入ったところが入口というのはわかりにくいですね。表示なども不親切。待合室などこぎれいにはなってますが、やたら長距離を歩かされる感じです。ちょっと気になったのは、その長い渡り廊下の途中に「集団面会室」(大面会室だったかな?)という表示のある部屋があったこと。「集団面会」ってなんだ?3人以上の面会を認める場合がありうるということなのか?
 たいして待たずに8階に呼ばれ、さらに1分も待たずに面会室に入ってくださいと言われ、ゴビさんが入ってきました。彼の独房から面会室まで目と鼻の先なんだそうです。だから、彼は面会に来るために、長い距離を歩くことなく、かわりに面会者が歩かされることになったわけです。面会者にとっては長い廊下を歩くのは疲れるだけ。でも、獄中者にとっては、面会に出る途中でしばらく歩き、場合によっては中庭が見えたり、そこから植物が見えたりすることが気晴らしになっていたはず。待ち時間が短くなったのはいいし、その分面会時間そのものも少し長くなってきょうなどは10分以上は話せた(以前は実質5分くらいだった)けれど、獄中者の拘禁感はより強くなっているのではないかと思う。
 ゴビさんも、「空は見えます」とか言ってはいたけれど、中の詳しいことは話しづらい雰囲気。きょうの看守はよさそうな人で、にこやかであまりせかせずにゆっくり話させてくれたけれど、それでも中の様子を話すときはゴビさんは看守の顔をチラっと盗み見るように気を遣っているのがわかる。ラダさんからのラブレターがもうすぐ届くはずだから、と伝えたら、うれしそうに笑っていました。奥さんが帰って寂しいよ、などと日本人の男はなかなか気恥ずかしくて言えないようなことをしれっと言うところがゴビさんらしい。やっぱり、ラダさんが来てくれたことのうれしさと、帰ってしまった寂しさの落差が大きすぎるようです。
 気になった体調のことでは、血液検査の結果はまだ出ていないとか。「良い結果が出たら、教えてください。悪い結果が出たら、教えないで、薬だけください」と言ってある、というから「どっちの結果が出てもちゃんと聞いて、治療が必要ならやってもらわないとね」と言ったら、うなずいていました。悪い結果はこわくて聞けないというゴビさんの気弱なところを見ていても、この人が人を殺すことなどとうてい出来ないことはよくわかる。
 胃潰瘍かもしれないということを気にしていて、胃カメラを飲んだと言ってました。その結果は異常なしだったそうですが、ストレス性の胃炎のようなものかな、と僕も思います。あいかわらず精神安定剤を飲まないと寝れないようだし。
 またラダさんにも会いたいし、子どもたちも呼びたいというけれど、彼らが日本に来るよりゴビさんがネパールに帰れるようにすることが大事だから、といって、署名活動なども頑張っているし、ネパールでも署名活動をしてくれることになっていると伝えておきました。
 もう何度も会っているのに、やっぱりきょうも最後には「僕はほんとにやってないんだから信じて」と繰り返す。 日本の司法が彼をこれ以上絶望させないでほしいとつくづく思う。

子どもたちの写真   2003年5月21日  小野寺敦子

 山本さんと一緒に面会に行ってきました。いつものように明るくふるまいながらも、やはりラダさんが帰られたことは、「悲しい、寂しい」ということです。
 ラダさんが持ってきた、最近の美しい二人の娘さんの写真を見せてもらいました。上の娘さんは、ラダさんにそっくりですね。ゴビンダさん自慢のネパールの愛する家族・・・
 ゴビンダさんは、胸のあたりが痛むとか。調べてもらったら、異常がないと言われたそうです。私の体験上、ストレスではないかと伝えたら、彼は納得していました。ストレスは、そんなあたりが疼くと言われています。心の病ですが、パワーが落ちるので、じつは、いちばんの災いのもと。今、「介護2級」勉強中なので、それで得た知識ですが、私にもいろいろ重なった時、思い当たるふしもあり、乗り越えたこともあり、自信を持って伝えました。ゴビンダさんにとって、「希望」が何よりの贈り物です。

子どもたちにも逢いたい   2003年5月19日  岡野美津子

 ラダさんが帰国した翌日の面会なので、余波は大なのか小なのか?と思って、面会にのぞんだが、じつにゴビンダさんのショックは大であった。
 この日は、健診中だったせいで、なかなか呼び出しがなく、やっと呼ばれて8階に着いても、まだ戻ってこないとのことで、さらに待たされた。ようやく入室すると、腕を綿で押さえながら現れた。血液検査のため、採血したとのこと。以前から右胸の下あたりが痛むので、胃かいようではないかと、心配して、本人から健診を願い出たようだ。
「17日、18日と、全く眠れなかった」と、ラダさんが帰国した淋しさを切々と訴え、「12月頃にまた呼んでもらえないでしょうか。子どもたちにも逢いたい」と懇願するので、「まだ帰ったばかりだし、ネパールの家族でよく相談してもらわないとね。それより、ゴビンダさんが無罪を勝ち取って、ここ(拘置所)から出ることに、私たち『支える会』一同も、国民救援会も全力を尽くすから、ゴビンダさんもがんばってください」と励ました。
 帰国直前にラダさんが蓮見さんに託した、ゴビンダさんへのメッセージを伝え、「こんな良い奥さんを持って幸せですね」と言うと、ゴビンダさんは、「良いメッセージで安心した。これで眠れます」と、涙を流していた。
 支援者のみなさんに、心から感謝しているとのことでした。

そのタンポポ、どこで見つけたの   2003年4月9日  鈴木弘美

 いつものように火曜日のロザールさんの面会。
 新しい建物のところの話を聞く。窓がなく外の景色は一切見ることができずとても悲しいとのこと。今年は桜を見ることができなかったそうである。
 運動は?との質問にすべて建物の中で外の景色はみえないようになっているとの返事でした。
 娘がロザールさんにたんぽぽを見せる、どこで見つけたのとロザールさんが娘に聞きそのへんにたくさん咲いてるよとの娘の答えにそうかと悲しげな顔を見せた・・・
 ロザールさんは古い拘置所で少しだけ見える季節の移り変わりを大切にしてきていたからやはり、何もみることのできない景色は辛いのだと思う。たったほんの短い間の面会で訪れる新しい建物の拘置所だがそれでも息が詰まりそうな構造だ。中に住んでいる人はもっと苦しいだろう。

「ラダの神」の来日   2003年3月21日  客野美喜子

 客野です。到着から一夜明けて、ラダさんは、今朝無事にゴビンダさんとの面会を果たしました。ちょうど東京拘置所が明日から新建物への移転を行うため、面会や差し入れ時間の制限による混雑が予想されると聞いていたので、いつもより早く家を出ました。ちょうど通勤ラッシュの時間帯で、ラダさんはぎゅうぎゅう詰めの満員電車にびっくりしていました。しかしその甲斐があって、早く着いたせいか思ったより面会者の数も少なく、待たされることなく、面会室に呼ばれました。さらにラッキーなことに、立会いの刑務官が、とても話のわかる、やさしい人でした。私が、「奥さんはネパールから昨日着いたばかりで、今日が1年ぶりの面会なので、よろしく・・・」と言いかけると、「わかってる、わかってる」と頷いて、話させてくれました。
 最後、面会を終える時も、「ほら、ほら。もう行くよ」とやんわり促すような言い方で、このような刑務官に初日あたったのは、ゴビンダさんとラダさんにとっては、(不幸中の)幸いでした。
 今日のゴビンダさんは、スーツ姿でビシッときめていて、はじめから終わりまで、いかにも「気合が入ってる」というかんじでした。ラダさんが持参したエリサちゃんとミトラちゃんの写真を出すと、アクリル窓に顔を押し付けんばかりにして、目をものすごく大きく開いて食い入るように見ていました。
 ラダさんは、やはり話の途中で泣いてしまい、帰りの電車でも沈んだ様子でしたが、うちに帰るとすぐ、ゴビンダさんに長い手紙を書きました。ネパールから持参した家族の手紙と一緒に神田先生を通じてゴビンダさんに送っていただくつもりです。
 3連休明けの24日には、面会受付所が、新しい場所に変わるのだそうです(今までの場所と近いので、来てみればわかるとのこと)。ゴビンダさんも、明日から新しい部屋に移されるようなことを言っていました。

ゴビンダさんは、とても澄んで美しい目をしていますね   2003年3月17日  岡野美津子

「ナマステ」と入室してくるなり、ゴビンダさんは、初めての同伴者に目をとめ、「どういうお知り合いですか?」と、早速、質問してきた。
「ゆうの会の新しいメンバー、吉川さんです。ゴビンダさんを支える会にも、入会してくださるそうです」と答えると、
「ありがとうございます。助けてください。お願いします」。
 ラダさん来日についての連絡事項を知らせたら、胸が一杯の様子だった。「今は大丈夫だけれど、いつも寂しいのです。ラダさんが来れば、毎日、面会にきてもらえる」とのこと。
  パタックさんが夫人同伴で来てくれた。大使館の人と一緒だったので、1時間も話すことができたと、大変喜んでいた。「パタック夫人は、私の姉(ウルミラさん)に似ています」と言っていた。「来てくださってありがとうございます」と言ったら、パタック夫人は涙を流して、ゴビンダさんの境遇に同情してくださったそうだ。久しぶりに故国の人と母国語で話せたこと、しかも、ネパールで非常に権威のある人権協会の会長に、思いのたけを伝えることができたことで、自信と充実感を持つことができたようだ。
「三浦さんに祝福の手紙を出しました。岡野さんが差し入れてくれた読売新聞のコピーは、刑務官の先生に読んでいただきました」と言っていた。三浦さんが自分の名前を出してくれたことが、ゴビンダさんにとっては、大きな励ましになったようだ。
「ここにいると、手紙と面会が楽しみです。どうぞ、手紙を書いてください」と、吉川さんに頼んでいた。
「はい、必ず書きますね。がんばってください」と吉川さんは答えていた。
「ラダさんのことを頼みます。一人で来ているので心配です。いつも誰か支援者がそばにいてくれればよいけど」と言うので、
「私たちもラダさんをバックアップしていくので、安心してください」と答えた。刑務官に促されて立ち上がり、笑顔で廊下に消えていった。
 部屋を出ると、吉川さんが、「ゴビンダさんは、とても澄んで美しい目をしていますね。印象に残りました」と話しかけてきた。実際にゴビンダさんに会うと、誰もがそのような印象を持ち、「この人は無実だ」と実感するようだ。

無罪になっても、自由がなかった年月は戻らないのです   2003年3月10日  岡野美津子

「10号室」と放送で呼び出しがあり、面会室に入ったら、ゴビンダさんはもう椅子に座って待っていた。私を見てすぐ立ち上がり、「ナマステ」と手を合わせる。
「何か変わったこと、ありますか?」と訊いてきたので、
「パタックさんが面会に来てくださったでしょ?今日、ちょうど今時分、パタックさんは、弁護士や支える会の方々と最高裁へ要請に行ってくださっていますよ」と報告した。
「最高裁と言えば、三浦和義さん、この前、最高裁で無罪になりましたね!」とゴビンダさんから話し出した。
 ちょっと驚いて「そうですね、よかったですね」と答えると、
「私は、三浦さんに、『おめでとうございます、よかったですね』という手紙を出しました。三浦さんは、以前、私に励ましの手紙をくれたし、果物やビスケットの差し入れも頂いたことがありましたので」と嬉しそうに言う。
「三浦さんの無罪が出た日の新聞に、ゴビンダさんの支援会員になっていることが載っていましたよ」と教えると、ゴビンダさんの目がピカリと輝いた。
「この前、お兄さんの記事が出ているジャパンタイムズを送っていただきましたが、これからも、私のことが出てるもの、全て知りたいです。パタックさんが日本に来る前、ネパールで記者会見したことが載っているネパールの新聞、雑誌もほしいので送ってください」とのこと。さらに、
「3月6日パタックさんが面会に来てくれたが、ネパール語で話してはダメと言われたし、時間もとても短かった。来日前ネパールで記者会見したことなど、いろいろ聞けて大変嬉しかったが、私からの話がたくさんできなかったので、ぜひ帰国前にもう一度、ネパール大使館員と一緒に面会に来てほしい。そのことを、パタックさんに伝えてください」とのこと。
「必ず伝えます。ゴビンダさん、早く無罪になってネパールに帰りましょうね。最近、体調はどうですか?」と最後に訊くと、
「元気です。でも淋しいです・・・」と、力なくぽつり。
 三浦さんの話題の時、「無罪になっても、拘置されて自由がなかった10何年かの年月は戻らないのです」とうつむいた。その時、私は言葉が出なかった。

ネパール人権協会(HURON)会長のスディープ・パタック氏来日   2003年3月3日  今井恭平

 きょう、早朝、ネパール人権協会(HURON)会長のスディープ・パタック氏が来日されました。
 成田空港まで迎えに行かれた通訳のNさんと宿泊先で合流し、パタックさん、Nさんといっしょに、午後さっそくゴビンダさん面会に行きました。
 看守はいきなり「この人は日本語話せるんですか?」と言いだし、Nさんが通訳するといっても、だめだ、ということで、ゴビンダさんも私達もいったん面会室から外に出されました。その後、上司にお伺いをたてたのだと思いますが、ネパール語でお互いに直接話をしてはいけない、あくまで通訳を通じて、日本語で、と念をおされて再び面会室へ。
 パタック氏が話すことはゴビンダさんには通訳なしでわかるのに、それをまたいちいち日本語で通訳させられ、ゴビンダさんはネパール語を話してはいけないと言われたため、日本語で話し、それをNさんがネパール語に通訳してパタックさんに伝えるというややこしいことに。
 ただでさえ、短い面会時間にゴビンダさんもややいらついた様子。しかし、きわめて真剣な面もちで、パタックさんに自分が無実であること、日本の政府に訴えてほしいこと、早く公正な裁判と自由を回復するようにと訴えていました。
 パタックさんは、来日する前にカトマンズで記者会見を開き、ネパールの11の人権団体が共同で集めたゴビンダさんに公正な裁判と自由を、という署名をもって来日したこと、それを法務省か外務省の関係者に手渡すこと、さらに最高裁にも出向くこと、そしてネパールでは教育のある社会層の間ではゴビンダさんの事件はよく知られるようになっており、みな無実を信じており、彼のことを案じていると伝えました。これを聞いて、ゴビンダさんの顔も少し緊張がゆるみ、笑顔が見られました。
  面会後、ゴビンダさんの印象をパタックさんに伺ったら、とにかく彼が真剣に訴える表情に強い印象をうけた、というようなことを語っておられました。
 HURONは、ネパール国内に2万5000人の会員をもち、70いくつあるネパールの地域(district)のうちの60いくつかに支部があるとのことです。7つか8つほどの部署があり、その一つは監獄における人権状態の改善であり、パタックさん達は、ネパール中のあらゆる刑務所、拘置所、警察の留置場をおとずれ、看守の立ち合いなしに囚人と面接をして、人権状態を調査する権限をもっているとのことです。
 あまりに短い面会時間、母語を使えないことなど、日本の監獄の状況には驚かれていたようです。法務省や外務省の関係者と会われるときは、公正な裁判、早期釈放だけでなく、こうした面会などの処遇における国際人権条約にも反するような日本の状況の改善についてもぜひ申し入れをしていただきたい、と伝えておきました。
 さきほどお知らせしたように、明日、6時半からパタックさんと支える会のミーティングを行います。
 なお、パタックさんは明日は支える会とのミーティング前に、ネパール大使館と国民救援会を訪れる予定です。
 月曜日には、最高裁を訪れます。

こうたろう君!友達ね!   2003年3月3日  岡野美津子

「ナマステ・・・どうしたの、学校は?」驚いた表情のゴビンダさんに、息子は「3月1日に音楽会があって、振りかえ休日なので、ゴビンダさんに逢いに来ました」と答え、「もうすぐラダさん来ますね。楽しみですね」と話し出した。
 しばらく3人、ニコニコで会話が続いたが、突然、ゴビンダさんが俯いたかと思うと、「こうたろうくん、わたしは、寂しいです。孤独です。こうたろうくんにもっと来てほしいです」と言い出した。
 しかし、こうたろうが答えにつまったので、話題を変えようと思ったのだろう、「宇宙は危ないから、宇宙飛行士になるのは、やめた方がいいよ。大切な命だからね。スポーツは、サッカーとベースボール、どちらが好き?」と訊いてきた。
「サッカーが好き。あとテニスも。ゴビンダさんは?」
「わたしは、学生の時、サッカーをしてました。大好きですよ。岡野さんは、サッカー、わかりますか?」
「私は、あまり詳しくないの。子どもの時から、足が悪いので、興味なくて・・・」と、つい言ってしまった。とたんに、ゴビンダさんは、(悪いことを訊いてしまった)と言う表情をした。優しい人だなと思う。
 あまり元気がないのは、インドラさんが帰国してから、また寂しくなり、今は、ラダさんがいつ来るかと、ひたすら待ちわびているせいだろう。しかし、今日は幼い子供を前にして、精一杯、大人ぶっているのが、かえって私の目には切なく写った。
「ネパール人権協会のパタックさんが、6日に面会に来てくださるので、心強いですね」と言うと、ゴビンダさんは頷き、「私は、本当に無実です。神様は知っている。パタックさんにも、真実の心、伝えたいです」と答えた。
「がんばりましょう。私たち、みな、ゴビンダさんを家族のように思って、支えていますからね」と励ました。
 刑務官にうながされて立ち上がったゴビンダさんは、「こうたろうくん・・・」と、プラスティックの窓に手を押し付け、「友達!!ね」。
 こうたろうも私も、3人で6ヶの手を窓に付け、別れを惜しんだ。
 無理に笑顔を作り、部屋を出ていくゴビンダさんの背中に向かい、「ゴビンダさーん、早くここ出て帰ろうねー」と大声で叫ぶ子どもの声が、むなしく廊下に響き渡った。