ヒンドゥー教のゴビンダの神とラダの神 2003年2月24日 岡野美津子
「ナマステ」と挨拶して入室してきたゴビンダさんだ。
「こんな天気なのに来てくれてありがとうございます」と礼儀正しい。
「ラダさんが日本に来る時、スーツケースをたくさん持って来るように連絡してほしいのです。衣類の使わない品がたくさんあるから、ネパールに持って帰ってもらうために必要です」とのこと。
「わかりました。そのように伝えてもらいます。日本で用意してもよいけれど、まだラダさんの来日予定がはっきりしてませんので」
「何も問題ないなずなのに、遅いですよ」
「いろいろご両親や子どものことで大変なのでは?」
「家や親のことは、2人いる妹たち(ラダさんの?)がみてくれると思うのですが・・・」 話題を変えるため、「インドラさんの名前は神様の名前にもあるけど、もしかしたらゴビンダさんの名前もそうなのですか?」と質問してみた。
「ヒンドゥー教の神様の名前のひとつです」と笑顔で教えてくれた。
「じゃあ、兄弟姉妹とかラダさんもそうなの?」
「そうです! ネパールでは、昔から神様の名前をつけるという風習がありました。二人の娘には神様の名前ではなく、現代風の名前を付けましたが、ラダは、神様の名前です。ゴビンダの神とラダの神は、ヒンドゥー教の話の中で結婚していますよ!」
「え〜、それはすばらしいですね!神話と同じ名前の二人が現実の生活でも結ばれてるなんて、うらやましい〜〜〜!」
「ありがとう。今日、検診がありました。身体に異常はありません。問題ないです。うつ病が少しあるので、その薬はもらいますけど」
「健康でよかったですね」
「今度ラダさんが来た時、日本の国の花、桜の苗木を持ち帰り、ネパールの自宅に植えてほしいのですが、誰か支援者の方にお願いできないでしょうか」
「誰かに聞いてみます」
「桜って、植えてからどれくらいで花が咲くのでしょうか?」
「さあ、調べておきますね」
「ネパールの国花は、赤いラリーブラサですよ」
「前回は、厳冬の中の来日でしたが、今度は桜の花が満開になる頃、ゆっくり日本にいてもらいましょうね」
「ありがとう。衣類の宅下げなど、もうラダさんの名前で用意してあるので、よろしくお願いします。また来週!」
ゴビンダさんは、元気に退席していった。
世界中どこでも危ないことになっている 2003年2月17日 岡野美津子
「ナマステ」と面会室に来たゴビンダさんは、かなり肩の力を落としているようだ。
「インドラさんが帰国したので淋しいのですね?わかりますよ」と声をかけた。
「久しぶりです。まだ風邪ひいてますか?」
「やっと治りました。ありがとう。心配してくれて」
「まだ声がいつもとちがうみたいに聞こえますね。ネパールでもインフルエンザで子どもたちが10人くらい亡くなったと、ネパールの新聞に出てました。日本でもすごい流行してますね」
「私たちも今回は大変でした。インフルエンザのウィルスって、ヒマラヤ方面からアジアを縦断して日本に上陸するんですってね。知ってますか?」
「はい、知ってますよ」(笑)
「今度はラダさんが来るから、今は淋しいけれど、それを励みに、がんばって待ちます」とポツリ。
「今朝ここに来る直前、客野さんと電話で話したけど、ラダさんが何日に来れるか、まだはっきりわからないようです」
「全てスタンバイOK なのだから、あとはラダさんが日本行きの飛行機に乗って来るだけなのに」
「ご両親のこととか、いろいろあるのではないですか?お嬢さんたちも学校、チェンジになるそうだし」
「子どもの学校のことは、私も心配です。町の方は、安全ではないので」
「心配ですね。でも、今は、世界中どこも危ないような状態になってしまっているけど・・・」
「日本がアメリカに協力するの、とても良くないことです!」ゴビンダさんは、きっぱりと言った。
「インドラさんとゴビンダさんは、そっくりですね」
「兄はとても聡明です。英語も上手」
「私は拘置所の待合室でお会いしました。ラダさんと約束したとおり、週に1回、面会に来ています。ゴビンダさんが1日も早く帰国できるよう、がんばりますとお話しましたよ」
「ありがとうございます」
久しぶりに会ったゴビンダさんは、少しやせて、肉親と再び離れたショックを隠せないのか、最後まで淋しげな様子で退席して行った。
「また来週の月曜日に来ます」と伝えると同時に、ドアが閉じてしまった。
ゴビンダさんのお兄さん〜インドラさん 2003年2月6日 今井恭平
きょう(正確には昨日〜5日)来日中のゴビンダさんの長兄のインドラさんについて小菅に面会に行って来ました。
いつもは物静かでにこやかなゴビンダさんが、猛烈に早口で、しゃべりまくっている姿を見て、久しぶりのお兄さんとの会話でようやく発散できているのだな、と思いました。
面会後、インドラさんを事件現場にご案内しました。やはりK荘とゴビンダさんの住居とのあまりの接近度には驚いたようです。こんなそばに自分が殺した死体がころがっていて、平気で生活を続けられるはずはない、と誰もが思うとおりの感想を彼も語っていました。
明日はインドラさんは、日本国民救援会の方たちや支える会の数名といっしょに、面会後、最高裁に要望書を手渡しに行くことになっています。
あなたの吹く笛の音を聞きたい 2003年1月31日日の出まえ ふえ吹きのかかし
28日火曜日と、きのうの木曜日、小菅へゴビンダさんに会いに行ってきました。
去年の暮れ、ちょっとウツぎみだった時に比べると、このごろは、だいぶ顔色も明るいみたいです。
>私は、いつも、彼との話題を考えないで行っちゃうし、このところ、彼と同様(と言ったら怒られるかな?)ほとんど居候先にひきこもってますので、ほんの短い面会の時でも、つい話題がとぎれてしまい、お互い困ってしまう時がちょくちょくあります。
彼はそのことを気づかってか、きのうの木曜日は、イラムから届いたネパール側のふもとから撮ったヒマラヤの写真の絵はがきを、自分の部屋から何枚か持ってきて、私に見せながら、山の名前なんかを、私にいろいろ説明してくれました。
そして、私がいつも首に下げている、顔の形をしている、お守り代わりのちっちゃな木の笛に目をつけ、「それ、笛でしょ? 聞いてみたいな!」って言って、となりの職員の人に目くばせしたら、職員の人は、ちょっと笑いながら首を横に振ってました。(ホントは、音の出る物を持って面会室に入っちゃイケナイらしいんだけどネ)
2/2、羽田に、お兄さんのインドラさんが到着することを彼に伝えました。彼は、その日にちをメモしながら、目を輝かせてました。何年ぶりに会うことになるんでしょうかね?
以上、とりとめのない、ひさびさの面会報告でした。毎日、さむいです。みなさん、風邪など引かぬようご自愛ください。
手紙をひらがなで書きたい 2003年1月27日 客野美喜子
雨のせいか、いつもより面会者が少なかったようです。ゴビンダさんは、暖かそうなセーターを着こんで、厚手の手袋をはめていました。「今日は月曜だけど、こうたろうくんが風邪で学校を休んでいるので、岡野さんの代わりに私が来たわよ」と言うと、「こんな雨で寒いのに、来てくれてありがとう」とニコニコしていました。
1)インドラさん、ラダさんの来日について
二人ともビザはとれている。インドラさんは、航空券の予約中。早ければ1週間後には来日する。日にち確定しだい連絡する。ラダさんは、家を留守にする間の準備がいろいろあるので、少し後からになる。どんなに遅くても2月末までにと、こちらは考えてる。以上のように伝えたところ、ゴビンダさんも、「まだ寒いから、ラダさんは、暖かくなってからの方がいいね」と言っていました。インドラさん滞日中の計画として、私たちの会としては、「ゴビンダさんへの面会」「最高裁への要請」「弁護団との話し合い」この3つは必ず実現させるつもりだが、他に何か希望は、と訊いたところ、「それでグッド!」と力強いガッツポーズをしていました。
なお「ゴビンダさんへの面会」については、シュレスタさんの時のように、神田先生から面会時間延長願いを出し、大使館の人に同席していただいて、「ネパール語での長時間面会(通訳付き)」ができるようにしたいと考えていると話したところ、そのようにお願いしますと同意していました。
2)長期勾留のつらさと支援者に対する感謝
「インドラさんと会うの、久しぶりでしょ?」と訊くと、「国を出てからずっと会ってない。だから、9年ぶり。写真見たけど、お兄さん、髪の毛、薄くなった。私もこんなに薄くなっちゃった。ここで部屋にじっと一人で座ってると、どんどん変な考え出てきて心配になって」と情けなさそうな顔になったので、「うん、わかる。でも、ゴビンダさんは、一人じゃないよ。年賀状、いっぱい来たでしょ?ゴビンダさんが無実だって思ってるから、年賀状書いてくれたのよ。こんどインドラさんやラダさんをよべるのも、たくさんの人たちがお金を出してくれてるからよ。今、日本の経済はよくないから、みんな生活苦しいのに、一度も会ったことないゴビンダさんのためにそうやって支援してくれるって、これはすごいことなのよ」などと励ましました。ゴビンダさんも、すぐに頷いて、「私のところにも、お金や服、よく送られてくる。この今着てるセーターと手袋もです。客野さんたちみたいに、私のこと信じてくれてる、心のいい人、たくさんいるね。みなさんに、伝えてください。みなさん、絶対に間違ったことしてない。だから安心してください」と、私の目をまっすぐに見て、きっぱり言いました。
なお、年賀状(平仮名)がとてもきれいに書けていたとほめたところ、今回の通信のための手紙は、間に合わないといけないと思って以前のようにローマ字で書いたが、この次からは、平仮名でがんばって書くとのことでした。
娘に会いたい 2003年1月24日 五明和久
1月24日、ロザールさんに会いました。上告趣意書の提出日はSさんが報告されたように3月頃のようです。トクナガさんのケースを紹介したところ同様の場合もあり得ると大塚弁護人から聞いているそうです。それがクリアーされれば2年くらいかかると言っていました。最高裁でひっくり返る可能性は低いとロザールさんは考えています。
服役した場合の面接や手紙についてです。フィリピン家族への手紙は許可される筈ですが、現在のところフィリピン家族へ手紙を送ってもなかなか返事はこないそうです。テレビでインタビューを受けていた姉はシンガーとして台湾に滞在しているとの事。ラスピニアスの住所は手紙で私に教えるとのことですから、 分かり次第、現地の家族と接触を試みたいと思います。
服役後の入管渡し、退去強制を免れることができないケースでは、(弁護人から国外退去については説明を受けているそうです)そもそも身元引受人自体があり得ないとも考えられます。実際はどうなのでしょうか。
仮釈放についてロザールさんは初犯ということで未決日を除いた刑期の3分の2を終えた時点で、(たぶん同房の人に教えられて)あり得ると考えているようですが、仮釈放がない可能性が大きいと思います。真実を伝えた方が(弁護人から)良いと思います。上告審の未決日も必ずしも認められるとは限らないのも含めてです。
ロザールさんが今一番心配していることはやはりAちゃんのことのようです。元夫の年齢からして父方の祖母はそんなに高齢とは考えていなかったのですが、どうも若くはないようです。年は取ることはあっても減ることはありません。加齢に伴ない孫の養育が困難になると考えるのが自然です。
手紙を送っても返事はこないそうです。せめて最近の様子だけども知りたいと訴えていました。この願いは叶えるのはそう難しい話ではありません。ロザールさんに住所などを教えてもらい、Aちゃんの近況を知らせたいと思います。言うまでもありませんが、 無実を勝ち取り、Aちゃんと日本に在留するのが彼女の希望です。
岡野さん、調子が悪いのですか? 2003年1月20日 岡野美津子
いつもの笑顔で入室してきたゴビンダさんである。
向かい合うなり、「ラダさん、いつ日本、来られますか? いつですか?」と、いきなり質問してきた。
「まだ連絡 がないので、わかりません。連絡がありしだい、私でなくても、誰か面会者が教えてくれるので、安心してくださいね」と答えた。
少々がっかり気味で、「じっとしていると、とても寒いです。週に2〜3回の運動日がとても楽しみです。体も暖かくなりますし。あとは週2回の風呂が楽しみです。それと面会室に来る時は動くので、少し良いです」と話し出した。
「年賀状が、数枚ずつ、まだ毎日届いてます!」ととても誇らしげに教えてくれた。
「よかったですね。 ゴビンダさんの年賀状も、本当に上手に書けていて、皆さん、感心していますよ」と言うと、嬉しそうにしてしていたが、ふと、
「岡野さん、調子が悪いのですか? いつもと顔が違いますね」と言い出したので、「じつは 風邪で、鼻水と咳が少しあるので・・・判りますか?」と言うと、
「判りますよ!私もその風邪と同じ風邪をひいてました。熱はないのですか?つらいでしょう。よく判りますよ。無理をしないでください。帰り道、寒いでしょ。コートとかマフラー、持ってますか?」などと、しきりに気遣ってくれた。
「運動日には、空を見ます。それも楽しみのひとつです。今日はどんな空ですか?風はありますか?」と訊かれたので、
「良い天気で青空ですよ。風も少しあります」と教えながら、ゴビンダさんは、いろいろな 想像をして辛い毎日を切り抜けているのだなと感じた。
いつも自分なりに精一杯、楽しい出来事を探しているようだ。今は、近いうちにラダさんに逢えるという希望を胸に微笑み、一日も早く拘置所を出られる日を神さまに祈りながら、じっと耐えているのだ。
200通の年賀状 2003年1月9日 客野美喜子
ゴビンダさんに面会に行って来ました。
差し入れ
1月分の支援金5,000円とネパール語の雑誌2冊。ネパールから届けられた新聞(ほぼ2か月分)は、昨日、宅急便で発送済み。来週早々には房下げになるみこみ。
年賀状
200枚近い。まだ続々届いている。支援者に対する感謝を、次回通信のゴビンダレターに書きますとのこと。
「ひつじは、何の意味?」と訊かれたので、十二支の説明を試みたが、ワカッタカナ?
風邪:
「もう熱はない。だいぶ快くなってきたが、洗濯する時、ものすごく水が冷たい。鼻水がとまらない」とのこと。
「シモヤケは大丈夫?」と訊くと、手袋を脱いで手を見せてくれたが、シモヤケにはなっていなかった。よかった。
正月休み:
「とにかく長かった!」。またすぐ3連休に入るが、「みなさん、お願いします。できるだけ、毎日、面会に来て」と、泣きそうな顔で手を合わせていた。
こんな寒い季節、冷蔵庫のような狭い独房にじっと座ったまま、身体を動かす自由さえないのだから、少しでも外に出ることのできる面会は、本当に「救い」なのだろうと思う。
拘留されてから、世界が拡がりました 2003年1月8日 K.MAI
きのうCさんと一緒にロザールさんにお会いしてきました。パンフでみたよりもずっとかわいらしい人。
小菅(拘置所)では年越しそばプラスおせち料理が一応ふるまわれたようです。 今本を書いてらっしゃるそうで、できたら なるべくたくさんの人に読んでもらいたいです。 5年間も無罪で拘留されておきながら、やはりロザールさんは(刑務所へ行った後) 日本で暮らしたいといいます。娘さんのこともあるし、あまりに若い時から住んでいるのでもう日本以外しかすむところがないのだと。彼女だったら、きっと冤罪事件にまきこまれた人のためのスポークスマンになるということもできるし、それがMISSIONなのかもしれないと。
やっぱゴビンダさんの日本語が上達しないのも、出た後どこで生きていきたいかという心の向きが違うからですね。
私が「ゴビンダさんやロザールさん事件を知ってから視野が広がった」ということを伝えると、彼女は「私も拘留されてから、世界が拡がりました。どん底を経験しても、これも神様が与えた試練なのかもしれないと思って」
というようなことをおっしゃいました。信仰ってこういうことか、と感動しました。
帰り際、ゴビンダさんにランの華(いいにおい)を差し入れてきました。
風邪をひいた 2003年1月8日 小野寺敦子
昨日、久々に3人一緒に面会できました。ゴビンダさんは風邪をひいていて、鼻水がとまらないらしいです。片手にティッシュ、片手に家族の写真で現れました。私たちの先に弁護士の方がみえていたようでしたが、お会いできませんでした。ゴビンダさんは、もうじきラダさんが来る、これも支援者のみなさんのおかげと、手を合わせていました。年賀状も200枚近く来て、まだ今日も来るだろうと、風邪にもかかわらず、明るい笑顔でした。
Yさんがネパールの写真集を差し入れました。どうして こんな美しい自然のある国から、こんな醜い国にやってきたのか、悔しい想いがします。
昨日の「門番」は、ムッとした嫌な人でした。時には、いい人もいて、5分くらいは延ばしてくれたりもしますが、この人は、さもイライラとした様子で連れ去りました。 ラダさん来日の知らせを待っています。事務局の皆様のご配慮に感謝。
年賀状がこんなにたくさんきました 2003年1月7日 岡野美津子
「あけましておめでとうございます」と入室してきたゴビンダさんである。
「よく来てくれたね。こうたろうくん、久しぶり」と挨拶するなり、「見てください、年賀状がこんなにたくさん来ましたよ!」と、嬉しそうに年賀状の束を取り出した。200枚くらいも届いたのだという。なんという心強い支援だろうか。ゴビンダさんは、七五三の和服を着た子供2人の写真入り年賀状を窓越しに見せ、「君に似ているね」と男の子の方を指で示して、こうたろうに笑顔で語りかける。「ゴビンダさんの年賀状の字と絵も、とても上手に書けてましたね、驚きました」とこうたろう。
「ありがとう。でも、10日間の休みはつらかった。風邪をひいてしまい、カイロをポケットに入れておいても寒くて。声がいつもと違うでしょう?」
そう言われてみれば、たしかに少し違うようだ。それでも、
「両全会の石鹸、差し入れありがとう。風呂で髪をシャンプーしたら、とてもいい香りで気持ちがよかった。少し熱があって頭が痛いけど、 寒いから、やっぱり風呂は楽しみです」とのこと。
拘置所の部屋がいかに冷えきっているかというと、暮れ(12日も前)に差し入れられたゆりの花が、まだ蕾のまま開かずに残っている のだそうだ。
面会のない時期は、ネパールの家族の写真を見て過ごしたらしい。
「これ、見てください。ネパールの二人の娘。蓮見さんと一緒に写っています。岡野さん、いつか、娘たちに逢ってください。こうたろうくん、君も逢いたいでしょ?」
だが、熱心に語りかけるゴビンダさんに対して、息子の返事は
「どっちでもいいです」という、何ともそっけないもの。親としては慌てて、
「ごめんなさいね。女の子にはまだ興味がないので、すみません」と訳のわからない言い訳をしてしまう。我ながら、情けない!
今週の面会予定表を見せてから、最後に「何か、困っていることは ありませんか?」と訊ねたところ、「今はありません。こうやって愛をください。情けをください(毎日面会を希望しているという意味)」。
「ゴビンダさんがネパールに帰る夢を見ました。今年はネパールに帰れるよう、がんばりましょう」と、こうたろうがエールを送ると、「こうたろうくん、春休み、夏休みも来てください。それから、ラダさんが日本に来たら面倒をみてください。頼みます」とゴビンダさんは息子に頭を下げた。本当に、2003年はネパールに帰国させてあげたいと、心から祈る私である。
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