2003年10月22日
最高裁判所は、2003年10月20日づけで、無実のネパール人被告ゴビンダ・プラサド・マイナリさんの上告を棄却し、東京地方裁判所による無罪判決(2000年4月14日)を逆転させた東京高等裁判所の有罪判決(2000年12月22日)を支持。有罪、無期懲役の判決が確定することになりました。
裁判に提出されたあらゆる証拠を見る限り、ゴビンダさんは無罪であると確信し、2001年3月以来、彼を支援してきた私たち「無実のゴビンダさんを支える会」は、言いようのない憤りと悲しみをもって、この最高裁判決を聞きました。
22日午前、弁護団の一人、神田安積弁護士が面会し、それに続いて、支える会事務局メンバー3名が、最高裁判決後はじめて、ゴビンダさんに面会しました。
「おかしな判決です」
顔をこわばらせて面会室に現れたゴビンダさんの第一声は、深い怒りをなんとか抑制しようと努力している様子が手にとるように分かるものでした。
彼は、前日の午後受け取ったという最高裁からの上告棄却を知らせる一枚の紙を示しながら、矢継ぎ早に私たちに問いかけてきました。
「被害者の手帳に書かれていた日付と、私の証言は一致していたではないですか、現場では第三者の体毛が発見されたではないですか、体液の鑑定結果も、私の証言が正しいことを立証しているではないですか。どうして有罪なのですか?」
彼の憤りに、私たちは答える言葉がありませんでした。
日本は経済が発達し、先進的ですばらしい国だ、とあこがれをいだいて来日し、裁判所はその文明国日本の最高の頭脳が真実を解明してくれる場所だと信じてきた彼の思いは、この一片の紙切れによって、みごとなまでにうち砕かれました。
「こんな決定のために、どうして3年もかかったんですか?ごまかすために時間だけかけてきたとしか思えない」
「どうか、一つひとつの事実をもう一度きちんと説明して、私が無実であることをみんなに知らせて下さい」
それでも彼は、一人でも多くの人たちに、自分が罪を犯していないことを知って欲しいと今でも望んでいます。
「無期懲役というのは、何年我慢すれば出られるのですか?」そう問いかける彼が最も心を痛めているのは、彼の帰りを信じて故郷のイラムで待ちわびている年老いたご両親のことです。
病身のお母様は76歳、お父様は83歳になられます。どんなに最短の刑期で仮釈放になったとしても、ご両親ともう二度と会うことはできない、と彼は心の中で計算しているようでした。
懸命に理性を保っていた彼が、ご両親の話をしたとたんに、泣き崩れました。
二度にわたって来日し、面会してきた妻のラダさんをもう一度呼んで欲しい、と彼は私たちに頼みました。そして、できれば兄のインドラさんにも会って、家族のことを相談したいとも述べました。
「この前ラダが来た時は、いいことばかり考えて話をした。こういう事態になったので、もう一度話をしておきたい」と。そして、以前から何度も、会いたいと述べていた幼い二人の娘たちについては、「こういう状況の中で会ってもいいことはない」と会うことをあきらめようとしています。
「刑務所は、悪いことをした人が、まじめに良くなるよう生活するところでしょ?悪いことしていない私は、この先どうやって生活すればいいんですか?どうか教えてください」
無罪判決によって冤罪が晴れたにもかかわらず、罪人のように獄につながれ続けた理不尽の結果が、さらに大きな説明のつかない理不尽として結果したことは、彼一人の不幸ではありません。
弁護団は、さる10月1日、上告趣意書を補強する補充書を提出したばかりでした。それからわずか3週間足らずの上告棄却は、最高裁が弁護側立証を十分検討したというポーズすらとることもなく、事実に目をふさぎ、拙速な結論を急いだことを示しています。
偏見と詭弁だけで成立した杜撰きわまりない東京高裁判決(高木俊夫裁判長)に全員一致でお墨付きを与えた最高裁第三小法廷の裁判官、藤田宙靖判事(裁判長)金谷利廣判事、濱田邦夫判事、上田豊三判事は、日本の司法の無能性と人種差別と官僚的硬直によって、日本社会そのものの不幸を立証した点で、特筆されるべき人々です。
私たち一介の市民の集団である「無実のゴビンダさんを支える会」は、彼が故国ネパールに帰国し、ご家族と再会する日まで、今後もできうる限りの支援を続けることで、私たちの「故国」日本の不幸に、少しでもあがらい続けたいと考えています。
ゴビンダさんの運命に心を寄せ、司法による暴力である冤罪、外国人への偏見と差別を憎むすべての皆さまに、これからもお力をお貸しいただけますよう、心からお願いいたします。
無実のゴビンダさんを支える会
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