第3回口頭弁論(1999年12月8日) 

準 備 書 面

 【目次】


第二章 米軍基地の実態

第一 米軍基地の性格と役割

一 はじめに

 第一章において、沖縄における米軍基地の土地接収の経過と違法性について述べた。米軍は、まず対日監視基地として沖縄に基地を作り、その後、1949年の中華人民共和国成立に伴って、沖縄の基地を中国や北朝鮮への前進基地として増強した。この性格は、沖縄の本土復帰後現在まで変わることはなく、沖縄の米軍基地は、アメリカの世界戦略に基づく出撃基地であり、日本の防衛とは何の関係もない。第二章では、このことを沖縄の米軍基地の実態を述べることによって明らかにする。

二 復帰後の沖縄基地の基本的性格

 1972年5月15日に発効した沖縄返還協定によって、沖縄の施政権が米国から日本に返還されると同時に、沖縄には日本国憲法が適用され、また、日米安保条約下の基地に関する諸取決めが本土と同様に適用されることとなり、沖縄の米軍基地は、法制上、本土のそれと同様の性格をもつものとなった。当時政府は、沖縄基地に関して、「施政権返還後は沖縄が軍事的に太平洋のキーストンとなるという事態はもはやなくなる」とか、「安保条約のもとに組み入れられることで沖縄基地は『核抜き・本土並み』になる」と説明した。しかし、復帰(施政権返還)が実現し、その後すでに27年余を経過した今日沖縄基地の基地としての基本的性格は、法制上の変化にかかわらず、復帰前と何ら変わることなく、むしろその機能は強化されそのもつ危険性はますます増大しているというのが現実である。復帰前、沖縄基地は、朝鮮戦争、ベトナム戦争等を通じて、自由出撃基地、核基地、前進拠点基地、補給基地、謀略・情報作戦基地等の性格と機能を有していたことが広く指摘された。「沖縄の基地がなければ、アメリカのベトナム戦争を遂行できなかっただろう」というベトナム戦争最中の米軍高官の発言に、このことは端的に示されている。そして、沖縄基地の周辺では、相次ぐ米軍人・軍属の犯罪、激化する演習や軍事行動に伴い、トレーラーなどのパラシュートからの落下事故、山火事、流弾事故、爆音等の基地被害が続発した。

 復帰前のこのような沖縄基地の基本的性格と実態が、復帰後27年余を経過した今日も、ほとんど変わらないのである。

三 アメリカの世界戦略

 アメリカの世界戦略は、ソ連崩壊後もはや敵なしとなった強大な軍事力を手段として、軍事・政治・経済面で世界を支配し、自国の利益を追求することである。

 このことは、米軍の行なった戦争や武力行使の実例を見れば明らかである。

 1983年、米軍はグレナダに侵攻し、左翼政権を打倒して親米政権を樹立した。これに対し、国連総会ではアメリカの侵攻を非難する決議が採決された。

 1989年、米軍はパナマへ侵攻した。これは、1999年末にパナマ運河の管理運営権のパナマへの移管と運河地帯に対するパナマの主権の回復を約束している新パナマ運河条約の発効を阻止することが目的であった。

 その後も、1998年8月のスーダンとアフガニスタンに対する空爆、1998年12月のイラクに対する空爆、1999年3月のユーゴスラビアに対する空爆等がある。これらの共通点は、アメリカが武力攻撃を受けたわけでもなく、国連の安全保障理事会の決議があるわけでもないのに武力行使が行われていることである。

 そして、最近に至って、アメリカは、ヨーロッパ・大西洋を中心とする地域においてはNATOの「新戦略概念」(1999年4月)と称する新しい軍事戦略によって、アジア・太平洋を中心とする地域においては日本との「新ガイドライン」(1997年9月)に基づく軍事協力体制によって、米国の戦略的利益のために同盟国の支援を得て全地球的規模で軍事行動を行う体制を確立した。

 日本は、すでに米国の全地球的規模の戦略の中に組み込まれており、日本国内に存在する米軍基地とりわけ沖縄に存在する米軍基地は、日本の安全保障のためではなく、米軍の戦略的利益のために存在し機能しているのが実態である。

四 NATOの「新戦略概念」について

 NATOにおいて、1999年4月24日に決定された「新戦略概念」で、NATO諸国外の地域での危機に対する戦争行動が決定された。

 北大西洋条約第五条では、締約国に対する武力攻撃を「全締約国に対する攻撃とみなす」とされ、同盟国の集団防衛が規定されているが、4月24日に決定された「新戦略概念」では、「非第5条危機」への対応が強調され、「第5条以外での危機対応作戦を通じて紛争の防止と危機管理に貢献する」とされている。つまり、同盟国への武力攻撃がなくても、「紛争の防止と危機管理」のためにNATOが軍事行動を取ることが方針化されたのである。

 「非5条危機」とは、NATOの「周縁地域」での「地域危機」と規定されている。「周縁地域」とは「ヨーロッパ・大西洋地域とその周辺」とされ、「地域危機」とは、「民族的、宗教的抗争、領土紛争、不適切な改革努力やその失敗、人権侵害、国家の解体」、「核・生物・化学兵器とその運搬手段の拡散」、「テロ行為、破壊行為、サボタージュ、組織犯罪を含めより広範な性質の危険、統制されない膨大な数の人間の移動」などが欧州、大西洋地域の安定を脅かす場合とされている。これは結局、NATOが右の場合に該当すると判断すれば武力で介入するということであるが、右の地域危機の内容として列挙されているものはほとんど内政干渉というべきものである。「新戦略概念」の採用は、NATO諸国の安全保障のためという従前のNATOの存在意義をも大きく変容させ、米国の戦略的利益に沿う形でNATOを再構築するものである。

五 アメリカの世界戦略と日本の関係

 アメリカと日本は、1996年4月、日米安全保障共同宣言を合意し、その中で、アジア・太平洋地域の安全保障のために、1978年の「日米防衛協力のための指針」の見直しを開始することが明記された。これにより、文言上は「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する」ことを目的とする日米安保条約が、実際は、アメリカの世界戦略の中で、アジア・太平洋地域を対象とすることが名実ともに明らかになった。

 そして、1997年9月には、「新ガイドライン」すなわち新たな「日米防衛協力のための指針」が決定された。この中では、日本周辺地域における事態の際の協力について初めて具体的に詳しく規定された。そして、「周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである。」とされた。では、事態の性質とは何を意味するかであるが、新ガイドラインの中には、「周辺事態の推移によっては日本に対する武力攻撃が差し迫ったものとなるような場合もあり得る」という一文があり、逆に言えば、周辺事態のすべてが日本に対する武力攻撃が差し迫った場合ではないことを認めているのである。したがって、新ガイドラインは日本の防衛を目的としたものではないことはこの点でも明らかである。

 このように、新ガイドラインによれば、日本に対する武力攻撃が差し迫った場合でなくても、日本が米軍に対する協力を行うこととなり、これは自衛権の行使ではなく、相手国から攻撃の対象とされる活動である。

 例えば、新ガイドラインで「後方地域支援」と言われているものは、国際法上「兵站活動」と呼ばれるものであり、1986年の国際司法裁判所判決によって、「兵器の供与や兵站その他の支援・・・は、武力による威嚇または武力の行使とみなし得る」とされている。また、弾薬等の補給についても、1907年の海戦中立条約によって、「中立国は、・・・交戦国に対し直接または間接に軍艦・弾薬または一切の軍用材料を交付することを得ず」とされている。

 その他、新ガイドラインで規定された日本が米軍に協力すべき活動は、どれも国際法上敵対行為とみなされるものばかりである。

 以上のように、日本の防衛と関係なく、アメリカの世界戦略に日本を協力させるために新ガイドラインが制定されたのであるが、その結果、米軍の地球規模の活動は日本の支援を受けてますます活発になり、沖縄の米軍基地がアメリカの世界戦略のための出撃に使用される危険はますます高まっている。

第二 米軍基地の実態とそれによって生じる被害について

一 米軍基地の概況

1 立ち遅れる施設返還の状況

沖縄には、1997年3月末現在、39施設、2万4286ヘクタールの米軍基地が存在しており、県土面積の10・7パーセントを占めている。

 沖縄県は、復帰後、常に、基地の整理・縮小と跡地利用を重点施策に掲げて施策を進めてきており、また、日米両政府に対しても、これまで、基地の整理・縮小をいくどとなく要請してきている。

 しかし、沖縄の基地の整理・縮小については、日米両政府ともその必要性を認めながら、実際は、遅々として進んでいない。それに比して、本土においてはいわゆる関東計画等による整理・縮小が着実に進展して来ている。実際に復帰時から現在までの施設の返還状況を本土と比較すると、次の通りである。

 米軍専用施設の返還状況(施設面積)
    1972年5月15日(本土は、1972年3月末)
      本土 1万9699ヘクタール
      沖縄 2万7850ヘクタール
    1997年3月末
      本土 7902ヘクタール(59・9パーセント)
      沖縄 2万3498ヘクタール(15・6パーセント)

以上により、基地の整理・縮小について、沖縄が本土に比べて、著しく立ち遅れた取扱いを受けていることが明白である(返還率15・2パーセント)。

2 在沖米軍施設の全国比率

 1997年3月末現在の米軍基地の状況を全国と比べてみると、沖縄の米軍基地面積は、全国の米軍基地面積の約25パーセントに相当し、北海道に次いで大きな面積を占めている。中でも米軍が常時使用できる「専用施設」に限ってみると実に全国の75パーセントが、国土面積のわずか0・6パーセントしかない沖縄県に集中しており、他の都道府県に比べて過重な基地の負担を強いられている。

 他の都道府県の面積に占める米軍基地の割合をみると、沖縄県の約10・7パーセントに対し、静岡県1・2パーセント、山梨県1・1パーセントが1パーセント台であるほかは、他は1パーセントにも満たない状況である。

 また、狭い沖縄本島の面積の19・3パーセント(約5分の1)を米軍施設が占めているのである。

 また、沖縄県においては米軍基地面積の約96パーセントが「米軍専用施設」であるのに対し、他の都道府県においては、米軍専用施設は米軍基地面積の約10パーセントに過ぎず、大半は自衛隊施設等を米軍が一時的に使用する形態となっている。

3 所有形態

 1997年3月末現在における沖縄県の米軍基地の所有形態をみると、私有地が33パーセント、市町村有地が30パーセント、県有地が3パーセントと、全体の66パーセントが「民公有地」となっており、「国有地」は33パーセントである。

 これは、本土の米軍基地面積の87パーセントが「国有地」で、「民公有地」は約13パーセントに過ぎないのに比べると、大きな特徴である。特に基地の集中する沖縄本島中部地区では約76パーセントが私有地となっているのである。本土の米軍基地の大半が戦前の旧日本軍の基地をそのまま使用してきたのに対し、沖縄県の米軍基地は、旧日本軍の基地の使用に留まらず、米軍による民公有地の新規接収が各地で行われた背景の違いを表している。

 また、市町村面積に占める基地面積割合が40パーセント以上の市町村が以下のとおりである。嘉手納が82・8パーセント、金武町が59・8パーセント、北谷町が56・4パーセント、宜野座村が51・5パーセント、読谷村が46・9パーセント及び東村が41・5パーセントとなっており、市町村の大部分が米軍基地で占められているといった深刻な状況下に置かれているのである。

4 用途別使用状況

 1995年3月末現在の沖縄県の米軍基地の用途状況をみると、「演習場」が施設数、面積とも多く、17施設、1万6851ヘクタール(全基地面積の68・9パーセント)となっている。この「演習場」施設には、県内の米軍基地で最大の面積を有する「北部訓練場」をはじめ、実弾射撃訓練に使用される「キャンプ・シュワブ」や「キャンプ・ハンセン」、パラシュート降下訓練が行われる「読谷補助飛行場」、部隊の上陸訓練が行われる「金武ブルービーチ訓練場」「金武レッドビーチ訓練場」などのほか、南部地区や八重山地区(尖閣諸島)の離島に存在する射爆撃場等がある。次に面積が大きいのは「倉庫」で、3施設、3280ヘクタール(全基地面積の13・4パーセント)を占めている。この施設には、各軍が必要とする弾薬の総合貯蔵・補給施設として重要な役割を果たしている「嘉手納弾薬庫地区」や「辺野古弾薬庫」の二つの弾薬庫のほか、在日米軍の中でも主要な兵站基地となっている「牧港補給地区」があるが、「嘉手納弾薬庫地区」だけで「倉庫」施設の面積の87・9パーセントを占めている。

 3番目に面積が大きいのが「飛行場」施設で、「嘉手納飛行場」と「普天間飛行場」の2施設、2479ヘクタールである。この両施設はいずれも中部地区に存在し、しかもそれぞれ空軍及び海兵隊の中枢基地となっているものである。このほか、沖縄県の米軍基地には、「キャンプ瑞慶覧」や「キャンプ・コートニー」等の「兵舎」施設が5施設、954ヘクタール、「象の檻」と呼ばれる施設を有し、軍事通信の傍受をしていると言われている「楚辺通信所」、陸軍特殊部隊(グリーンベレー)が配備されている「トリイ通信施設」等の「通信施設」が7施設、372ヘクタール存在する。また、第7艦隊の兵站支援港で原子力潜水艦の寄港地としても重要な役割を果たしている「ホワイト・ビーチ地区」や湾岸戦争の際の軍事物資の積み出し港として使用された「那覇港湾施設」等の「港湾」施設が3施設、218ヘクタール、軍病院が置かれている「医療」施設が1施設、107ヘクタールとなっているほか、事務所(工兵隊事務所)が1施設、4ヘクタール、明確な用途区分ができない「奥間レストセンター」や「陸軍貯油施設」等の「その他施設」が3施設、182ヘクタールとなっている。

5 米軍訓練水域及び空域

 1996年6月末現在、沖縄周辺には、米軍の訓練のための水域29箇所及び空域15箇所が設定されている。訓練水域については、常時立入り禁止、使用期間中立入り禁止、船舶の停泊、係留投錨、潜水及び網漁業並びにその他すべての継続的行為の禁止等の制限・禁止が行われている。訓練空域については、那覇空港の場合、発着する航空機を管制するための空域が、半径5陸マイル(約8キロメートル)高度2000フィート(600メートル)未満に制限されているため、通常の空域より、半径で1キロメートル、高度で300メートルも狭められている。このため、民間機は低空飛行を余儀なくされ、飛行にあたってのパイロットの精神的プレッシャーは大きいものがあるといわれている。

6 軍別状況

 1995年3月末現在、沖縄県に存在する米軍基地を軍別の管理形態によって区別すると、海兵隊、空軍、海軍及び陸軍となるが、これらの単独管理施設のほか、2以上の軍が共用している施設もある。

 (一)海兵隊

 海兵隊は施設数、施設面積とも最も大きく、1995年3月末現在、20施設、1万8458ヘクタール(全基地面積の75・5パーセント)を占めており、軍人数も1995年12月末現在、在沖米軍の総兵員数の59・7パーセント(1万6200人)が海兵隊員となっている。海兵隊には、「キャンプ・コートニー」にある第3海兵機動展開部隊の下に、第3海兵師団が同じく「キャンプ・コートニー」に配置され、その他に、第1海兵航空団が「キャンプ瑞慶覧」に、また第3部隊戦務支援隊が「牧港補給地区」に置かれている。

 (二)空軍

 空軍は、1995年3月末現在、8施設、2165ヘクタールで全基地面積の8・8パーセントとなっている。これに対し、軍人数は、1995年12月末現在で、総兵員数の26・7パーセント(7252人)と約4分の1を占めており、海兵隊と並び在沖米軍の主力となっている。空軍は、横田基地に司令部を置く第5空軍司令部の指揮監督下に、第18航空団が嘉手納飛行場に配置され、同航空団の指揮下には、第18支援群等が配置されている。

 (三)海軍

 海軍は、1995年3月末現在、7施設、374ヘクタールを有し、全基地面積の1・3三パーントとなっている。また、軍人数は1995年3月末現在、2794人で、総兵員数の10・4パーセントである。嘉手納飛行場内に沖縄艦隊基地隊嘉手納海軍航空施設隊があり、その他、沖縄航空哨戒群等が配置されている。

 (四)陸軍

 陸軍は、1995年3月末現在、4施設、386ヘクタールで、全基地面積の1・6パーセントである。また、軍人数は、1995年11月末現在、875人で、全兵員数の3・2パーセントである。陸軍は、トリイ通信施設に第10地域支援群を置く他、第1特殊部隊群(空挺)第1大隊等が配置されている。

二 米軍の演習・訓練及び事件・事故の状況

1 演習・訓練の概要

 1952年12月の日米合同委員会合意、1972年6月15日の防衛施設庁告示第12号等に基づく、那覇防衛施設局からの演習通報によると、米軍の演習・訓練は、水域、空域及び陸域において、恒常的に行われている。各水域においては、水対空、水対水、空対空各射撃訓練及び空対水射爆撃訓練、空対地模擬計器飛行訓練、船舶の係留、その他一般演習等が行われている。陸域においては、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンにおいて、一般演習、小銃射撃、実弾射撃、廃弾処理、爆破訓練が、北部訓練場、金武レッドビーチ訓練場、金武ブルービーチ訓練場、ギンバル訓練場、読谷補助飛行場等で一般演習が恒常的に行われている。

2 県道一〇四号線越え実弾砲撃演習実施状況

 キャンプ・ハンセン演習場における第3海兵師団第12海兵連隊による県道104号線越え実弾砲撃演習は、1973年3月30日の第1回から数えて1996年6月末までに171回実施されている。1997年3月までに合計180回の演習が実施された。

3 パラシュート降下訓練実施状況

 読谷補助飛行場におけるパラシュート降下訓練は、1979年11月6日以降1996年6月末までに185回実施されている。最近の訓練においては、2日間連続で、179人が降下訓練を行っている。1995年12月末までに、29件もの事故が発生しており、ほとんどが施設外降下である。復帰前には、1950年の燃料タンク落下による少女圧死、1965年のトレーラー落下による少女圧死等悲惨な事故も発生した。その後も提供施設外の農耕地や民家等に落下する事故が起きており、地域の住民生活に不安を与えている。

4 原子力軍艦寄港状況

 勝連半島の最先端に位置するホワイト・ビーチ地区は、神奈川県横須賀基地、長崎県佐世保基地とともに原子力軍艦の寄港地である。沖縄県における復帰後の原子力軍艦の寄港状況は、1972年6月、原潜フラッシャーの寄港以来、1996年6月末現在で116回を数える。とりわけ、1993年から1994年の2年間で、35回の寄港を数え、1994年は過去最高の18回を記録した。1980年3月のロングビーチ(巡洋艦)の寄港時においては、晴天時の平均値を上回る放射能が検出され、当該海域及び周辺海域の魚介類が売れなくなるなど地域住民に大きな不安と被害を与えた。1997年度の寄港は9回となっている。

5 事件・事故

(一)復帰後の米軍航空機事故等

 1972年5月の復帰以降1997年12月末までに、航空機関連事故は180件発生しており、態様別でみると、墜落事故23件、空中接触事故1件、移動中損壊2件、部品落下事故16件、着陸失敗13件、低空飛行1件、火炎噴射1件、緊急着陸13件、爆弾投下失敗1件となっている。また、発生場所でみると、基地内38件、基地外90件である。基地外については、住宅付近15件、民間空港18件、畑等13件、空地その他16件、海上29件である。最近の航空機墜落事故は、次の通りである。

(1)1994年4月4日のF―15墜落炎上事故(嘉手納弾薬庫地区内の黙認耕作地)
(2)1994年4月6日のCH―46墜落・機体大破事故(普天間飛行場内の滑走路)
(3)1994年8月17日のAV―8Bハリアー攻撃機墜落事故(粟国島近海)
(4)1994年11月16日のUH―1Nヘリコプター墜落事故(キャンプ・シュワブ内)
(5)1995年9月1日のAV―8Bハリアー攻撃機墜落事故(鳥島近海)
(6)1995年10月18日のF―15C戦闘機墜落事故(沖縄本島南南東海上105キロメートル)

 1995年10月18日のF―15C戦闘機墜落事故について、沖縄県議会は、11月30日に臨時議会を開催し、F―15イーグル戦闘機墜落事故に対する意見書・抗議決議を全会一致で可決している。同決議は、「現場海域は、米軍の訓練水域外で、県内外のマグロはえ縄漁やソデイカ漁の好漁場となっており、一歩間違えばこれら漁業操業者を直撃して大惨事を引き起こしかねない」と指摘した上で、 事故原因の徹底究明と調査結果の公表、 原因究明までの間のF―15イーグル戦闘機の訓練中止、 基地の整理縮小を求めている。同意見書は、村山首相、外務大臣等の日本政府要路あて、同決議は駐日米国大使館、在日米軍司令部等の米国政府あてとなっている。本件については、県議会の代表が直接要請・抗議活動を行った。また、沖縄市、浦添市、嘉手納町等県内市町村議会においても同様に意見書・抗議決議が採択された。なお、1995年9月3日付の地元紙の社説が、「これまでのところ、幸いというか、偶然というべきか、民間地域への墜落事故には至っていない。しかし、児童ら死者17人、負傷者120人余の犠牲者が出た1959年6月の石川市宮森小学校への米軍ジェット機墜落事故の再現がないとの保障はない。それどころか、いつ、私たちの頭上に墜落、爆発炎上してもおかしくない状況―と指摘、警鐘を鳴らす専門家は多い。」と、警告している。

(二)米軍構成員等による刑事事件について

 沖縄県警察本部の犯罪検挙状況に関する資料によれば、1972年5月から1997年12月末までの米軍人・軍属等による事件の検挙件数は、合計で4867件であり、全刑法犯(件数)の約2パーセントを占めている。また、犯罪検挙人数は、全刑法犯(人数)の約6パーセントを占めている。

 復帰後の米兵による民間人殺害事件に限っても、1995年12月末現在、12件発生している。2年に1件を越える発生状況である。近年の事件では、1993年2月の海軍兵による強姦致傷事件、同年4月の金武町における海兵隊員による殺人事件、1994年7月の海軍兵による強盗事件、1995年5月の海兵隊員による日本人女性殺害事件があり、最近(1995年9月)の在沖米兵3人による拉致及び暴行事件がある。このような凶悪事件の発生は、基地と隣り合わせの生活を余儀なくされている地域住民に大きな衝撃を与え、不安を招いている。また、1998(平成10)年10月7日には、北中城村の国道で米海兵隊による女子高校生ひき逃げ事件が発生した。米側が起訴前の身柄引き渡しを拒否したことから問題が起った。右事故の対応を見ていると過去の反省は全く生かされておらず、事故のたびに謝罪を述べても、その実質は復帰以前の状況と何ら変わってはいないのである。

三 環境破壊

1 自然環境の破壊

(一)水質汚濁

  米軍基地に起因する水質汚濁事例は、沖縄県が確認しただけでも、復帰後、1994年3月までに65回発生しており、し尿処理施設の汚水や油脂類等の漏出による河川・海域の水質汚染をもたらしている。

 基地の中でも、特に嘉手納飛行場からの油脂類等の汚染事例が多く、復帰後、1995年12月末現在、16回も発生している。県民の飲料水を採取している比謝川が嘉手納飛行場に隣接して流れており、また、飲料用地下水の取水井戸も同基地内に存在することから、度重なる油脂燃料類の流出は、環境の汚染はもとより県民の健康管理の面からも問題である。

 (ニ)土壌汚染

 1994年1月にマスコミを通じて、嘉手納飛行場内において1986年と1988年にPCB漏出事故が発生していたことが公表されるまで、米軍側はこの大きな事故について、県や関係市町村に報告せず、秘密裡に処理しようとした事実があった。また、PCB汚染物資を撤去する際、PCB入りトランクが野積み状態で保管されているのが確認されるなど、米軍の有毒物質の管理方法の問題が指摘された。

 最近返還されたフィリピンのクラーク、スービック両基地においても、当初、環境汚染はないとのことであったが、米軍撤退後の環境団体の調査によって、両基地とも石油精製物質や重金属などの化学物質で汚染されているとの報道があった。

 また、米国内での基地の閉鎖後、民間施設としての転用が期待通り進展しないのは、閉鎖された基地の環境が汚染され、その復元に莫大な費用と長期間を要するためであると言われている。
 1998(平成10)年5月には、米海兵隊が1995年12月から96年1月にかけ劣化ウラン弾を鳥島射爆撃場に発射した事件で、科学技術庁が鳥島周辺海域の環境影響調査を実施した。内容としては、さんご礁の端部付近で空間、水中放射線量率を測定すること、海水を採取し、日本分析センターでウラン濃度を測定する等が行われた。その結果、右島の土壌から高濃度のウランが検出されたことが発表されており、なおかつ、発射された劣化ウラン弾のうち1287発が未だ回収されておらず(平成9年度段階)、漁民をはじめ久米島住民に大きな不安を与えている。

(三)原野火災及び赤土汚染

 度重なる実弾演習により、キャンプ・ハンセン内の着弾地周辺は広範囲にわたって緑が失われ、無惨にも山肌をむき出しており、環境保全の面からも、自然の破壊は由々しい問題である。

 また、同キャンプ内のレンジで実弾を使用した射撃演習が日常的に実施されるため、発火性の高い照明弾や曳光弾から着弾地内の雑草に引火することがあり、原野火災が度々発生し、1972年5月から1997年12月末までに154件の火災が発生し、1731ヘクタールが延焼した。

 155ミリりゅう弾砲による山肌の崩壊や、発火性の強い曳光弾による山林火災は、演習場内の緑を失わせることにより、赤土流出による河川や海域汚染の原因ともなっている。 キャンプ・ハンセン内を流れる河川からの赤土流出は、ほとんどが米軍基地内の演習によるものであり、1993年8月の大雨時に採水して調査したところ、キャンプ・ハンセンを流れる三河川で1リットル当たり694ミリグラム、267ミリグラム、509ミリグラムの赤土流出が確認された。1988年に、沖縄県環境保健部が降雨時直後に145河川で行った調査での平均値1リットル当たり80ミリグラムと比較すると、キャンプ・ハンセン内を流れる河川はかなり濁っており、一見して赤土による底質の汚れがわかり、近隣海域の汚染の原因の一つとなっている。

2 騒音公害等

 (一)米軍による演習が周辺地域に与える影響は多岐にわたっているが、なかでも住宅地域に囲まれた嘉手納及び普天間飛行場では、昼夜を問わず、日常的に発生する航空機による騒音は広範囲にわたり、11市町村の約47万人(沖縄県人口の約37パーセント)の周辺住民の生活環境に大きな影響を及ぼしている。

 嘉手納飛行場においては、常駐機に加えて空母艦載機や国内外から飛来する航空機によるタッチ・アンド・ゴーなどの飛行訓練のほか、エンジン調整が絶え間なく行われ、同飛行場に隣接する地域住民は、その騒音により、精神的、身体的被害ならびに生活環境が著しく損なわれている。

  また、普天間飛行場においては、航空機の離着陸等、とりわけ、ヘリコプターの飛行場及び住宅地域上空での旋回訓練は間断なく騒音を発生させている。地上においてはエンジン調整音が長時間に及び、騒音による被害は、精神的、身体的ならびに生活環境の面からも看過できないものとなっている。

 このような現状にかんがみて、毎年、沖縄県は、関係市町村と協力して、嘉手納飛行場周辺では24地点、普天間飛行場周辺では15地点で騒音の測定を行っている。1997年度の測定の結果、嘉手納飛行場周辺においては18測定地点中11地点で、普天間飛行場周辺では17地点中8地点で、環境基準を上回っている。

 特に、嘉手納飛行場周辺では、通常訓練によって騒音禍を強いられているにもかかわらず、臨時的に行われるローリー演習(現地運用態勢)、ORI演習(行動態様監察)の演習期間中の騒音は一段と激しく、日常生活の会話や安眠はもとより、疲労の加重、聴力の減退、授業の中断、電話の中断、テレビ・ラジオの視聴困難等、その身体的、精神的ダメージは著しく、飛行場が住宅地域や市街地に隣接して存在するため、航空機から発生する騒音は周辺住民に甚大な悪影響を与え、日常生活に大きな障害となっている。

 (二)嘉手納基地爆音訴訟

 1982(昭和57)年、嘉手納基地周辺の6市町村の住民960人が、国に米軍機の夜間・早朝の飛行差し止めと騒音被害に対する損害賠償を求めた「嘉手納基地爆音訴訟」で、福岡高裁那覇支部は飛行差し止めは棄却したものの、W値(うるささ指数)75以上の地域の騒音は違法であるとして騒音の違法性を認め、過去分について救済枠を広げ賠償を命じた。また、より騒音の激しい地域に転居した原告については賠償が否定されるという「危険への接近法理」は一審と異なり適用を退けて、嘉手納基地爆音訴訟は16年もの歳月をかけてやっと終結したのである。嘉手納基地爆音訴訟は、基地周辺住民の「静かな夜を返せ」というごく当然でささやかな要求を実現するために提起された騒音公害訴訟であるが、基地の重圧にあえぐ沖縄の実状から、現実に多大な被害を被っていることは明白である。また、爆音による健康被害に関しては、県が1995年度から3カ年計画で実施してきた「航空機騒音による健康影響に関する調査報告」の結果及びこれに携わった医師および学者らの証言から、爆音被害との法的な因果関係がますます明らとなった。

四 米軍基地に起因する女性に対する人権侵害

 1995年10月21日、8万5000人を結集した県民集会が開かれた。

 この米軍基地の整理・縮小を求める県民世論の大きなうねりは、同年9月4日に発生した残虐きわまる米兵3名による暴行事件が契機となった。この事件でいたいけな少女の尊厳が踏みにじられた。これまでも繰り返されてきた基地被害がまたも悲惨な形で起こったことに、県民の怒りは爆発した。

 基地被害、中でも米兵による犯罪を採り上げるとき、戦闘行為を任務とする軍隊の本質を避けて通ることはできない。

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 苛烈な規律と緊張のもと、生命の危険に曝される極限状態での戦闘行為を強いられる兵隊が、その抑圧の反動として、性的な解放を求めて性暴力を惹起することはよく知られていることである。

  軍隊とは、そもそも武力・暴力によって敵を制圧し、力による優越的支配を貫徹させることがその目的であり、そのために隊の内部では指揮系統を統一して絶対服従の関係を貫くことが本質的に求められている。それは、民主主義、他者との対等、共生という人間の尊厳に基づく理念とは相反するものである。

 組織的にこのような訓練を受けた軍隊の構成員が―しかもその圧倒的多数は必然的に男性である―女性に対して人間の尊厳を踏みにじる行為に及んで平然とするようになっても何ら不思議なことではない。

 これは、決して一般社会でも起こりうる性犯罪と同質にはとらえられない構造的なものである。従軍慰安婦間題、南京大虐殺に伴う無数の婦女暴行事件などは、まさに軍隊がいかに性犯罪を必然的に引き起こすかを物語る歴史であった。さらに、沖縄占領直後の米軍もその点ではまさに同じだった。

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 対日平和条約の発効によって一応占領状態が終了しても、引き続き米軍統治下におかれた沖縄では、軍隊による性暴力は止むことがなかった。更に施政権返還後も、米軍基地は凶暴な顔を隠して居すわり続けた。米軍基地の実態に何ら変化がなかった以上、女性の人権は侵され続けたのである。

 それらの事件のうち、特に大きく問題とされた一部を挙げてみる(以下「異議申し立て基地沖縄」琉球新報社)。

  1. 1955年9月3日、軍曹が石川市の幼女を拉致、暴行後殺害
  2. 1966年7月21日、金武村の道路脇で基地内のクラブで働く34歳の女性が暴行され、殺害される
  3. 1970年5月28日、牧港の第二兵たん部隊内で早朝出勤途中の21歳の女子雇用員が米兵に暴行される
  4. 1970年5月30日、具志川市で下校中の女子高校生が米兵に襲われる。暴行末遂に終わるが、ナイフで刺され、全治2カ月の重傷
  5. 971年4月23日、宜野湾市大山で飲食店従業員の女性が暴行された後、石で撲殺される
  6. 1972年12月1日 沖縄市でキャンプ瑞慶覧所属の海兵隊員が22歳の女性を暴行、殺害
  7. 1973年5月28日、沖縄市で米兵10人が女性を乱暴
  8. 1975年4月19日、金武村で海兵隊員が女子中学生2人を乱暴
  9. 1982年7月31日、名護市でキャンプ・シユワブ所属の海兵隊員が33歳の女性を暴行しようとして殺人
  10. 1993年5月、25歳の陸軍兵士が、19歳の女性に暴行。この米兵は米軍により身柄を確保されたが、拘禁されていなかったために、司令書を偽造して那覇空港から米国に逃亡した。この事件は、逃亡を許した米軍当局の監視体制の甘さが問題になり、綱紀粛正を求める抗議、要請が、県知事、県議会及び弁護士会などから相次いだ。他方、被疑者は11月になって米国で逮捕されたが、被害者本人が告訴を取り下げ、結局その米兵は、1994年3月始めに米国で裁判を受け、降格処分を受けて軍から追放されただけであった。
  11. 1994年も、7月18日に19歳の米兵が宜野湾市の民家で女性に暴行するなど1年間で婦女暴行事件3件が報告されている。


 これらの事件をみると、女性の中でも特にいたいけな子どもが被害に遭うケースが目立つ。これらは氷山の一角であり、実際には被害を届け出なかったり告訴しなかったりした泣き寝入りのケースは数知れない。「実際のところ、被害者の10人に1人も、いや、100人に1人も訴え出ていない、というのが・・・実感である。」という婦人相談員経験者の声もある(高里鈴代「米軍基地―女性への暴力」)。

 1995年10月9日付米軍の準機関紙パシフィック・スターズ・アンド・ストライプスによると、世界の米海軍、海兵隊基地の中で1988年以降の性犯罪関係の軍法会議が169件とトップであり、空軍についても嘉手綱基地で性犯罪で検挙された隊員数は、米国のネリス基地に次いで2番目であった(琉球新報1995年10月15日朝刊)。

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 1995年11月27日、マッキー米太平洋軍司令官(海軍大将)が、米兵による暴行事件について、国防総省で「犯行に使用した車を借りる金があれば、女を買えたのに。3人はバカだ。」と発言し、即日辞任に追い込まれたことはまだ記憶に新しい。女性を蔑視するこの発言は、単に配慮を欠いたものとしてやり遇ごすことはできない。まさに先に述べた軍隊の性暴力に向かう本質の一端を明らかにしたものといえよう。

 根絶するためには、その根源となる米軍基地を整理・縮小しなければならない。

五 基地に侵害される子どもの権利

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 第1次世界大戦は、航空機やロケット等兵器の発達によって、戦地の兵士だけでなく、子どもや女性、老人にも戦争による犠牲を強いることになった。特に子どもの受けた犠牲は大きく、数知れない子どもの生命が奪われ、生き残った子ども達も、家や家族を失って過酷な生活を強いられた。そして、戦争による最も大きな被害者が子ども達であることが認識され、子どもの保護が人類的課題として自覚されるようになったのである。1922年の英国の児童救済基金団体憲章(世界児童憲章)には、「過去数年の国家間における災害は、児童の上にも重大な心身の退化をもたらした。しかも、それは長く子孫にまで影響する恐るべき事実であった。それ故に人類の進歩と幸福とが危険にさらされていることを認識して、われわれは、世界中の国が力をあわせて、児童の生命を守るよう呼びかける。」と述べられた。このように、国際的な子どもの保護への要請が、軍事のために子ども達を犠牲にしてはならない、という強い反省と願いから出発したものであることは、決して忘れてはならないことである。そして、世界児童憲章を基礎として、1924年に国際連盟で採択されたいわゆる「ジュネーブ宣言」は、その前文において「人類が子どもに対して最善のものを与える義務」を負うことを示し、一項で、子どもに「身体的および精神的両面の正常な発達に必要な手段が与えられ」ることを求めた。人権一般の国際的保障に対する取り組みが未発達な時代において、子どもの保護については、国際連盟の文書として宣言されたのである。

 ところが、人類は愚かにも第2次世界大戦を起こし、第1次世界大戦にも増して子どもに多大な犠牲を与えてしまった。この戦争に対する反省から、基本的人権の尊重こそが平和の条件であり、国際的人権保障が各国家の責務であることが共通認識として確立されるに至った。そして、子どもについては、その可能性に応じて正常に発達する権利を有することが認識され、発達や学習の権利という新しい権利が人権として保障されるようになった。

 国内的には、日本国憲法26条1項が「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と規定して、教育の権利を保障した。憲法は、発達の可能態としての子どもの独自性を認め、将来にわたってその可能性を開花させ、人間的に成長する権利を保障したのである。そして、憲法を受けて制定された教育基本法は、前文において、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普通的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」とその由来と理念を述べ、1条で「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と教育目的を定めた。そして、10条2項は、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」と規定し、教育に必要な諸条件の整備を行政に義務づけた。これは、子どもの教育を受ける権利には、教育条件整備要求権が包含されており、この権利に対応するものとして、行政の義務が定められたものに他ならない。 国際社会においては、1948年に国連総会で採択された世界人権宣言の26条で、「すべて人は教育を愛ける権利を有する」、「教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない」と規定され、発達・成長過程にある子どもの独自の権利の保障の必要性が、国際社会において、認められるようになった。

 さらに、子どもの人権宣言から20年を経た1970年を「国際子ども年」とし、これに向けて、ポーランドを中心とした子どもの権利保障のための国際条約化の動きがでてきた。同国が熱心に条約推進に努力したのは、戦争による子どもの被害が同国において最も顕著だったからである。国連では、12年に及ぶ審議を経て、子どもの権利宣言30周年の1989年11月20日総会における全会一致をもって、子どもの権利条約を採択した。子どもの権利条約は、前文において、既に国際的に承認されている国際人権規約等と同様に人間の尊厳と基本的人権の承認が世界の自由、正義及び平和の基礎をなすことなどを再確認するとともに、子どもは特別な保護及び援助についての権利を有することなどを確認し、3条で、「子どもの最善の利益」が本条約の指導原理であることを示した。

 以上のとおり、子ども達は、国内的にも、そして国際法においても、平和的生存と発達のための子ども固有の諸権利を保障されているのである。

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 ところが、沖縄の現実はどうか。子ども達の学ぶ校舎や運動場の上をジェット戦闘機や戦闘ヘリが飛びかい、騒音のため授業が中断されてしまう。学校から僅か数百メートルの砲座から実弾が発射され、教室は激しい振動と騒音に襲われる。

 窓の外に目をやれば、山肌が砲弾に抉られ、土煙をあげている姿が目に入る。しばしば山火事にすら脅かされる。空からパラシュートが降り、民家や農地へ着地する。戦闘機の騒音は、戦争時と同様に子どもを苦しめ、その授業を妨害する。子ども達の通学路を迷彩服の兵隊が銃をかかげて行進する。基地とフェンス一つ隔てて、学校や民家が密集しているため、子ども達が、米兵の犯罪行為の直接の被害者となる例も後を絶たない。子ども達の目に写る光景は戦争そのものであり、軍事基地の存在は子ども達の平和的生存と発達の権利を日常的に侵害している。このように、沖縄県において、子ども達の権利侵害が生じているのは、沖縄県への基地の集中によるものである。国土面積の約0・6パーセントにしか過ぎない沖縄県に、在日米軍基地専用施設の約75パーセントが集中しているため、子どもの成育・教育環境が基地に隣接せざるを得ず、基地の直接的な影響下に置かれているからである。そして、子ども達は、平和的生存と発達の権利を有するのであるから、沖縄への基地の集中を解消して成育・教育環境への基地の影響を断ち切ることを、子どもの権利として要求できるのであり、これを実現することは、日本国の国際社会における責務である。沖縄県民が、様々な立場の違いを超えて、県民の共通の悲願として基地の整理・縮小を求めていることの背景にあるのは、子ども達が将来の社会の担い手であり、その平和的生存と発達の権利を保障することは将来の世代に対する責任であるという、熱い思いにほかならない。1995年10月21日に8万5000人が参加して行われた「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」での高校生代表挨拶は、「私は今、決してあきらめてはいけないと思います。私たちがここであきらめてしまうことは、次の悲しい出来事を生みだすことになるのですから。いつまでも米兵に脅え、事故に脅え、危険にさらされながら生活を続けていくことは、私は嫌です。未来の自分の子供たちにも、そんな生活はさせたくありません。私たち生徒、子供、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。私は戦争が嫌いです。だから、人を殺すための道具が自分の周りにあるのも嫌です。次の世代を担う、私たち高校生や大学生、若者の一人ひとりが本当に嫌だと思うことを口に出して、行動していくことが大事だと思います。私たち若い世代に新しい沖縄のスタートをさせてほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。そのために私も、一歩一歩行動していきたい。私たちに静かな沖縄をください。軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください。」と結ばれている。

 この高校生の願いに応えることこそが、沖縄県の県益であり、日本国の国益であり、そして人類の未来への責任である。

六 振興開発の阻害

1 振興開発と米軍基地

 1992年9月に国において策定された第3次沖縄振興開発計画では、沖縄の米軍施設・区域について「そのほとんどが人口、産業が集積している沖縄本島に集中し、高密度な状況にあり、この広大な米軍施設・区域は、土地利用上大きな制約となっているほか、県民生活に様々な影響を及ぼしている。」という認識の下、「米軍施設・区域の整理縮小と跡地の有効利用について、米軍施設・区域をできるだけ早期に整理縮小する。」と県土利用の基本方向を明らかにしている。

 さらに、「返還される米軍施設・区域に関しては、地元の跡地利用に関する計画をも考慮しつつ、可能な限り速やかな返還に努める。」として、「返還跡地の利用に当たっては、生活環境や都市基盤の整備、産業の振興、自然環境の保全等に資するよう、地元の跡地利用に関する計画を尊重しつつ、その有効利用を図るための諸施策を推進する。」としている。

 このように、沖縄振興開発計画においては、本県における米軍の施設及び区域の大半が、本県の地域開発上重要な地域に存在しているため、地域の振興開発及び県土の均衡ある発展を図る上で大きな制約となっていることを自明のこととしている。

 具体的には、 都市再開発や環境整備を推進する上の障害、 道路交通体系整備上の障害、 住宅や公園整備上の障害、 企業誘致や工業誘致の対象となる工業用地の確保の障害、 農業の衰退や荒廃の原因であると同時に農業振興上の障害、 自然公園や自然環境保全施策上の障害等である。

2 読谷村の振興開発の阻害

 1994年3月末現在、米軍基地は県内25市町村に所在し、当該市町村の振興開発を著しく阻害している。楚辺通信所が存する読谷村の実例を示すことにする。

(一)軍用地の概況

 1995年3月末現在、読谷村には、米軍基地として、嘉手納弾薬庫地区、読谷補助飛行場、トリイ通信施設、瀬名波通信施設及び楚辺通信所の5施設がある。米軍基地は、同村の面積(3517へクター)の46・9パーセント(1648ヘクタール)を占めている。

(二)軍用地の特徴

  同村の中央部に位置する読谷補助飛行場を始めとする5米軍基地のうち、読谷補助飛行場以外の軍用地については、返還の目処がついていないため、同村の土地利用計画も基地を除いた地区だけの計画に限らざるを得なくなり将来的な課題となっている。

 また、国道58号と並行して嘉手納町からの幹線道路として国道バイパスが計画されているが、該道路計画には読谷補助飛行場、トリイ通信施設、嘉手納弾薬庫地区の3施設が存在し、計画推進の大きな阻害要因となっている。

 南北に走る国道バイパスと国道58号を連結し、同村を東西に走る幹線道路の「中央残波線」の計画がある。同路線については、一部道路認定等も終了している段階であるが、該道路が読谷補助飛行場を東西に通ることから、計画の推進の阻害要因となっている。

 また、将来的には、該道路は、沖縄市方面と結ぶ幹線道路とすることが予定されているが、嘉手納弾薬庫地区が大きく広がっており、計画の阻害

 読谷補助飛行場は、旧日本軍の強制接収以来、戦後処理問題を引きずってきた軍用地であり、その一刻も早い解決が必要である。同補助飛行場は、同村の中央部に位置しているため、その利用の如何が、同村の振興開発に大きな影響を与える。

 同村は、1987年に、すでに「読谷飛行場転用基本計画」を策定している。返還に向けた諸条件が煮詰まりつつある中で、その実現は大きな課題である。


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資料提供:違憲共闘会議


軍用地行政処分取消訴訟][沖縄県収用委員会・公開審理


沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック