沖縄県収用委員会 第10回審理記録
上原成信(土地所有者)
土地所有者(上原成信):
上原成信と申します。私は東京に住んでおりますけれども、今意見陳述をした吉田さんと同じ一坪反戦地主としてやっております。
私は、普天間の地主ですけれども、本来私が生まれ育ったところは、今、那覇軍港になっている那覇市住吉町2丁目というところで、私が育ったところは今全然まっ平らになってしまって、昔は丘もあり、クムイもあり、多分2万人ぐらい人が住んでい ただろうと思います。学校もありました。これ全部なくなって、本当にまっ平らで、自分たちの家がどこにあったか検討もつかないという、そういう状況になっております。
私が東京へ出たのは1944年1月で、そのころまで沖縄で戦争が起きるとはだれも思っておりませんでした。私も思っておりませんでした。ところが、私の父は戦争に巻き込まれて、どこで死んだか分からない。私の同級生たちはひめゆりの塔に祀られていたり、健児の塔に祀られていたり。私はそういう愚かなことを、人が殺し合うということは、もうこれだけ私どもは悲惨な経験をしたんだから、すべきではないと。そのためには、武力や戦争で国民が守られるというそのうそを、沖縄戦が実証したそのうそを見破って、憲法にもあるとおり、武力は持たない、基地は置かないという、こういうことを真剣に考えていかなくてはと思いまして、ここ十何年か、私は一坪反戦地主の一人として公開審理のたびにここへ来ております。
これは防衛施設局に申し上げたいんですけれども、防衛施設局の人たちは、反戦地主や一坪地主に対して、過酷な、そしてつじつまの合わない、強引な、そういう手続きに終始するんではなくて、困っている、基地で悩んでいる沖縄の人たちの気持ちを汲んで、いつまでも50年もたって、外国の軍隊に占領されているこの国は一体何なのだと。防衛施設局の諸君は、国を守るということが仕事の一部であるならば、やっぱり今占領されている状態をさっさと解消するために努めるのが先ではないかと思います。
これは有銘政夫さんが戦争難民という言葉を使いました。私ども那覇市の住吉町、垣花町は、全部もと自分たちのいたところから追い払われて、沖縄中あちこちに点在しております。これはやっぱり難民だと言うべきだと思っております。
ちょっとひとつ、私は、確か第1回のときだと思いますけれども、関東にも一坪地 主は約600人おります。このことは、収用委員の皆さんは十分ご承知のことと思います。この国の憲法で言うと、所有権という国の基本になるようなことについて、われわれの権利を制限する以上、やはり意見を述べたい。すべての地主の意見を聞くべきだと、そういうことで私は東京でも公開審理をお願いしますと申し上げました。これは残念ながら実現しておりません。ぜひやってもらいたかったと思っております。
私は、今は普天間の一坪地主として、普天間の返還を求める、強制使用裁決の申請を却下してもらいたいと思いますけれども、さっき申しましたように、私の生まれ育ったところは垣花でありまして、沖縄の軍事基地は全て開放してもらいたい。普天間のみならず。そのために収用委員の皆様頑張っていただきたいと思います。これはお願いすることなのか、お願いではなくて、皆さんが当然のこととして、ウチナーンチュの立場に立てば、橋本龍太郎の要求を蹴飛ばして、ウチナーンチュの解放ということをやっていただきたいと思います。以上で終わります。
当山会長:
ご苦労様でした。 金城馨さん、お願いします。