61 デモとパレードとピースウォーク――イラク反戦運動と今後の問題点 ( 『論座』 2004.03.) (04/03/04搭載)
以下は、朝日新聞社刊の月刊誌『論座』2004年3月号の『特集 泥沼イラクとアメリカ・日本』の中に掲載された小論です。タイトル、小見出しなどは同誌編集部が付けたものです。最初、初稿を書いてみたら、この3倍もの長さのものになってしまい、それを削りに削って以下のようなものにしたのでした。
デモとパレードとピースウォーク――イラク反戦運動と今後の問題点
吉 川 勇 一
新しい皮袋と新たな酒
一昨年暮れから昨年初めにかけて、日本でもイラク反戦の大衆行動が次第に盛り上がりつつあった時、私は、小熊英二さんが書いた『〈民主〉と〈愛国〉』の戦後思想における「用語」についての考察に触発された書評を書いた。その中で、現在では「デモ」という表現が少なくなり、「パレード」や「ピースウォーク」という呼称が好まれるようになっているということに触れた(二〇〇三年二月の季刊「運動〈経験〉八号)。そして、いずれ新しい若い運動参加者たちが、これまでとは違う、今の時代にふさわしい新たな運動を力強く創出し、そしてそれを表現する適切な言葉も生みだしてくれることを強く希望しながら、私は「パレード」表現の違和感は我慢してこの「パレード」を歩くことにしている、とも書いた。
この一年、その傾向はますます強まっている。確かめるために、昨年十二月初めから今年一月半ばまでの『赤旗』を含むいくつかの日刊紙、党派系週刊紙、市民運動体の発行するかなり多くのニュース誌や機関誌類に当たってみたが、昨年十二月六日の東京「中野ピース・ナウ」主催「キャンドル・ピースウォーク」から今年一月十八日「イラク派兵反対西東京実行委員会」主催の「イラク派兵やめよ!憲法9条まもれ!ピースウォーク西東京」にいたるまで、ひろい出した百七十三の事例の中で「パレード」や「ピースウォーク」は六十八例で「デモ」の三十二例をかなり上回っていた。
では、期待したような新しい表現に伴う新しい運動の質が生まれてきているのかとなると、残念ながら、私にはそうは思えないのだ。先の考察を書いたとき、私は三十年以上も前、つまりベトナム反戦運動の初期、私たち自身がそれまでの「国民的平和運動」などという表現を意識的に退けて「市民による反戟運動」と自称したことを想起し、その表現が「それまでになかった新しい運動を作り出すのだという意気込みの私たちにとっては、適切であり、必要な表現だと考えていた」とも書いた。六〇年代半ばに登場してきた新左翼党派や全共闘系の活動家、あるいは広くベトナム反戦市民運動が、「平和運動」あるいは「国民運動」ではなく、あえて「反戦運動」「市民運動」などと称した理由ははっきりとしていた。その当否はひとまず置いて、「戦後平和民主主義」と言われるものへの批判とそれとの区別、あるいは被害者意識に依拠する運動から脱して、日本帝国主義への正面からの批判と加害者意識の自覚などがそうした選択の背景にあったのだ。
昨年初め、イラク反戦運動が短期の高揚を見せた際、「これまでの運動とは違って」という際の「これまでの運動」への理解は、ずいぶんと皮相的、あるいは誤解によるものが多かったように思う。たとえば「これまでのデモ」なるもののイメージを聞くと、覆面をし、ヘルメットをかぶり、機動隊に何重にも囲まれながら、そばから聞いていたのではさっぱり理解できない用語で「……粉砕!」とか「最後の最後まで闘うぞ」というような独りよがりの叫びを発し、最後には機動隊と乱闘して逮捕者続出、周囲の人びとからはまったく孤立した行動。その行き着く先は、爆弾闘争か浅間山荘、リンチ殺人……といった理解なのだ。そんなものばかりじゃなかった、たとえばべ平連のデモは違ったというと、今度は、じや、べ平連は警察と仲良くやっていたんですねとなってしまう。
イメージが極端すぎるのだ。七〇年代まで、曲がりなりにも続いてきた運動経験の継承が、プラスにせよマイナスにせよ、ここではかなり断絶しかかっている。そして、新たな反戦運動のそれまでとは違う理念、あるいは新しい運動の思想は、いまだはっきりとした形では表明されるに至っていない。
新しい皮袋に、まだ新しい酒は入っていないように思えるのだ。
少ない反戦運動論
この一年の間、総合雑誌の誌上では、イラク情勢やアメリカの政策批判、あるいは小泉政権や自衛隊派遣を批判する論文があふれた。多すぎるほどだったとさえ言える。また、昨春には、新聞は万単位の反戦運動を大きく報じた。だが、一年を通じてふりかえってみると、反戦運動論と言えるようなものは非常に少なかった。総合雑誌では、わずかに『現代思想』二〇〇三年六月号の「特集・反戦平和の思想」と、『世界』の別冊がある程度。しかも『現代思想』の中で、鵜飼哲さんや道場親信さん、あるいは高和政さん、吉岡達也さんらは、運動に関してかなり重要な提起をしているのだが、それへの反応は、以後のメディアには一切出されていない。問題は黙
殺されてしまったかのようである。
日刊紙や週刊誌にいたってはなおさらで、日本でもようやく五、六万人という参加者の催しがあった前後は、センセーショナルに過ぎると思えるほどの記事が出たが、これもその後は何も報道されなくなり、運動の実態がどうなっているのかは、メディアからはまったくわからなくなってしまった。デモが華やかに展開しだした時には、私もだいぶ新聞の取材を受けたが、取材する記者自身がほとんど運動についての理解がなく、現象をそのときだけの記事として興味深く書けさえすればいいという安易な姿勢だったような印象を受けることが多かった。記事には「史上前例のない参加者数」とか、「これまでまったく運動には参加してこなかったような層が多
数参加」といった表現がよく使われた。私が、必ずしも前例がないわけではない、六〇年安保でもベトナム反戦でもこれを上回る参加者数のデモはあったと言ったり、それまでまったく運動に参加してこなかった新しい人びとが加わらない限り万単位のデモなど可能にはならないので、これまでだってそうだった、などと言うと、張り切って記事を書こうとしている姿勢に水をかけたように受け取られ、撫然とした表情をされることが多かった。運動の波が引いた今、そうした記者は、何を考えているのだろうか。現場の取材記者だけの問題でもなさそうだ。わずかな数だが、運動の経過に関心を持つ記者が苦心してまとめた記事も、理解も関心もないデスクが、あ
るいは没にし、あるいは無残に切り縮めることも多いようだ。
しかし、運動論が論壇にほとんど登場しないということは、運動側の実態の反映かもしれないとも思う。運動の中心部にある指導的活動家、主として、新しく登場してきた若い層は、運動の拡大のためにマスコミ受けをするような演出効果には熱心でも、ある程度の長いスパンの中で運動がどうあるべきか、どの方向に向かうべきかなどの議論を、あまり好まなかったようだ。ベトナム反戦市民運動が、十年近い経過と、その主体の連続性――たとえばベ平連の活動期間は九年間――だったのに比し、アフガニスタン戦争にせよ、イラク戦争にせよ、激しい戦闘は数ヵ月で終息してしまい、それとともに運動は規模を縮小させていったから、議論が成熟するには時
間がなさ過ぎたという事情はあるにせよ、こうした問題、特に歴史意識、社会意識を研ぎ澄ますような議論は、運動の中でほとんど展開されなかったように思う。
「優しさ」と知識人の後退
問題提起がなくはなかったのだが、それから議論が発展しない。意識的に避けられたような気もする。意見を発表すると、それへの反論、というより、弁解、時には批判者への甘えとすら思えるような「反論」はメールなどで送られてくるのだが、しばしば、これは個人的意見なので引用や公開はご遠慮ください、などという注文がついてくる。これでは議論などできはしないし、私的にやりあったところで、運動の共有資産にはならない。一例を挙げれば、昨春の大行動の主体、「WORLD
PEACE NOW」(以下「WPN」)の若手中心グループの一つの指導的メンバーによる警察との会食問題があった。それへの批判がなされ、当事者から釈明もなされたのだが、それでは不十分とする批判が後まで続き、更なる解明の申し入れ文書なども参加グループから出されているのだが、そこから先の議論は一向に目に見える形では展開されていない。したがって、この事件は運動参加者に広く共有される教訓とはなりえないで消えそうである。それ以外にも、とりあげられてしかるべき問題提起は、運動体の機関紙誌や、運動周辺の雑誌(たとえば隔月刊『インバクション』、季刊誌『運動〈経験〉』『ピープルズ・プラン』など)の上でいくつもなされてはいるのだが、それが運動の主体によって受け止められ、議論が展開されるということはほとんどない。こうした状況では、運動の思想面での深化はなかなか期待できないし、新しい思想がそこから生まれてくることも望み薄といわざるを得ないと危倶される。
若い世代が、「自虐史観」説にひきつけられたり、あるいは戦争責任論や日本の加害者性について反発したりするという現象、さらには議論が活発になされないということの理由は、反戦運動の側の不十分性もあるのだろうが、別の要因も指摘できると思う。たとえば、これは他でも述べたことだが(『現代思想』二〇〇三年六月号)、運動の中で知識人、学者の果たす役割が大きく後退し、こうした人びとが運動の「修羅場」に出てきて泥まみれになることをしていない、ということと関係する。かつての例をごくわずか挙げれば、原水爆禁止運動での安井郁、森滝市郎、早川康式、畑敏雄、六〇年安保での竹内好、鶴見俊輔、日高六郎、清水幾太郎、丸山眞男、あるいは吉本隆明、そしてベトナム反戦運動での小田実、開高健、鶴見俊輔、久野収といったような人びとが占めていた場にいる知識人や学者は、今は皆無だ。
これらの人びとは、本を書いたり、講演したり、シンポでのパネリストだけをしていたのではない。運動の現場で、汗と泥にまみれ、財布を空にし、他の参加者たちとまったく平等の立場で議論し、行動し、実務にも当たった。若者たちも、臆することなくこれらの先輩知識人と議論し、批判し、その中で、様々なことを学び取り、場合によれば、それを乗り越えもした。それまでの運動経験の長所、短所も継承され、社会意識、歴史意識はその中で研ぎ澄まされ、運動の現場での経験と合わさって、たとえば在日アジア人との関係や差別の問題、権力への警戒感、日本のもつ加害者性、世界史的動向の中での日本の歩むべき方向などを身につけていった。そう
いう外的認識ばかりではない。家庭や家族のあり方、性、職業といった人間としての生き方の知恵も、運動の中で身につけ、それはその後の人生に大きな影響を与えることになった。
最近の運動には、そういう議論の場がない。それまでの運動経験を豊かに持っている人やはっきりとした歴史観を持っている先輩知識人が運動の場にほとんどいないからでもあるし、またもう一つは、「優しさ」ということへの理解が違ってきているからかとも思う。今の若い人びとには、相手の考えの奥にまで踏み込んで批判し議論することは、人間関係を悪くすることであり、一定の垣根を越えるべきではない、という自制が働いているようにも思える。だから、意見が違っても、それはそれなりに「尊重する」ということで、それ以上に議論を進めない。それがお互いに「理解しあう」ことだと思っているようだ。もう一つ、「WPN」は共有の機関紙(誌)がないということも公開の議論を難しくさせる条件になっているとも思える。だが、社会的関心事の共有性がまず確認され、その上での議論がなければ、運動はいつまでも心情的・感情的レベルにとどまってしまう。現在の学者、知識人が、たとえば「WPN」の世話人会などに出てきて一緒に議論もすれば作業もするしデモもするといったような、もっと積極的な運動への参加、関与をここで要望、期待しておきたい。
本番はこれからだ
昨年五月の憲法記念日に、私たちは、『毎日新聞』にイラク戦争を批判する全面意見広告を出した。そしてそれに引き続いて、この一月十五日に『朝日新聞』全国版と『北海道新聞』とに、イラク派兵と憲法改悪の計画に反対し戦争協力を拒否する市民の宣言を、全面意見広告として載せた。全国紙の全面広告には、かなり膨大な費用がかかる。一千万を超えるような金額を広告などに使うよりも、もっと運動のためになる方法があるはずだ、という批判もよく受ける。だが、それは間違っていると思う。今ある金をどう使うかという問題ではないのだ。何もないところから一千万を超える費用を集めるという努力自体が運動なのである。その間に交わされる宣伝、
説得、勧誘、議論などの効果が重要なのだ。それに、集会やデモなどに様々な事情――たとえば、身体障害、病弱、高齢、身内の介護、産前産後などなど――から参加できず、しかし自分の反戦の意思をなんとか社会的に公に表現したいと思っている人びとは多数いるはずであり、そういう人びとの意見を顕在化する一つのチャンネルがこの運動だと私は理解している。これは、なだいなださんのバーチャル「老人党」構想の考え方ともある意味では通底していると思う。
今回の運動では、まさに前例のなかった経験なのだが、五千を超える団体・個人から賛同が寄せられ、募金額は三千万円に近づいた。とくに『朝日新聞』にこの運動の記事が出て以後は、事務局の電話は問い合わせでパンク状態になった。事務局に送られてくる分厚い郵便振替は、毎日百万から二百万円の払い込みを通知し、その用紙には、細かい字で、それぞれの賛同者の思いのたけが書き込まれている。そしてその中に、「やっと自分の反戦の意見を表明できる機会が見つかって、こんな嬉しいことはない」とか「自分の周りにはデモも集会もない、こんな大事なことをなぜもっと早く知らせてくれなかったのだ」というような趣旨の文が非常に多いのにも驚いた。私たちは、これまで、何十回もデモをやり、何十万枚もビラをまいてきた。それでも私たちの訴えが届いていない人びとがまだまだ全国に実に多数いるということを、あらためて痛感させられたのだった。
憲法の改悪をめぐる争いは、これから本番を迎える。その際、運動は、こうしたまだ表面に現れていない、しかし全国に多数いる層との接触、それとの連帯の方法を全力を挙げて追求しなければならないだろう。私たちは、募金とともに寄せられた意見をまとめて出版することも計画しているし、また、これまでまだやったことがなかったことなのだが、意見広告に賛同した人びとによびかけて、意見を交換して今後のことを相談する集まりを開くことも計画している。何とか、新しいつながりを作り出し、それを広げたいと希望するからだ。
だが、天野恵一さんが『インバクション』一三九号(今年一月)の鼎談「イラク派兵と『改憲』――反戦運動の課題をめぐって」で強調しているように、ベトナム反戦世代は、もはやこれからの運動の中心にはなりえない。当然ながら、今の若い世代に次の運動を託する以外にはない。三月二十日、開戦一周年の世界一斉同時行動と合わせ、日本でも「WPN」が万単位の行動を計画している。表面的世論の動向やとくにマスコミは既成事実に弱い。自衛隊派兵の後、反対意見は減少気味だという。三月二十日の行動は今後の運動のあり方を考える上での重要な指標となるかもしれない。以上の論に、私の苦情が多いように受け取られるかもしれないが、すべてはその期待のためだと了解していただければありがたい。
( 『論座』 2004年3月号)