60 「結局、イラク派兵は強行されてしまった――デモや意見広告などは効果があるのか?」という疑問に答える ( 1月15日の『朝日新聞』 「北海道新聞』に掲載された意見広告に賛同した5000人以上の人に発送した文書 2004.02.08) (04/02/09搭載)
「結局、イラク派兵は強行されてしまった――デモや意見広告などは効果があるのか?」という疑問に答える
吉 川 勇 一
集会やデモ(あるいはピース・ウォーク、あるいはパレード)もやった、意見広告も出した、しかし、結局、自衛隊のイラク派兵は強行されてしまった。国会で野党は欠席して抗議の意思を表したものの、ここでも派兵承認の決議は、ろくな議論もないままに採決されてしまった。反対の行動や意見広告などに、どれほどの効果があるのだろうか?
今回の意見広告運動に賛同された方のなかには、それほど多くはおられないとは思うものの、運動の外周に位置する人たちからは、そういう疑問もだされてくる。現に、1月末、東京で開かれた「新宿駅西口地下広場での行動1周年」に際しての「ティーチ・イン」の中では、これまでデモにも何度か参加してきたという若い人から、そういう疑問が出されていた。
■既成事実に弱い世論とマスコミ
表面的な世論、とりわけマスコミは既成事実に弱く、それに押されるままに後退してゆく。派兵が決まって以後の「世論調査」では、派兵をめぐる意見で、支持が増加しているという。
『朝日新聞』『東京新聞』などは、これまで、今回の派兵に反対する論を展開してきた。だが、その『朝日』の姿勢も、あくまでも今回のような条件下での派兵反対であって、私たちの主張とは、よってたつ基盤が異なっている。先遣隊が派遣された1月16日の『朝日』社説は「国際社会の総意で国づくりを助ける体制ができてから」なら「そのときの自衛隊派遣ならもっと広い支持が生まれるはずだ」とのべ、さらに、イラク派兵が衆議院で承認された1月31日の社説では「私たちも、国民の大勢の支持を背に自衛隊を送り出せる活動ならばと思う。いまの現実が残念でならない」として、世論の動向次第で、派兵反対の姿勢の転換があることを用意するような論をのせた。
■1930年代との対比
たった今、91歳になる私の母から電話があった。「夕刊(2月3日付け『朝日』)見たかい? 子どもが日の丸もって自衛隊を見送ってる写真も大きく載ってさ。昔とそっくり。わたしゃ、はっきり覚えてるからね。お前の父さんが出征したころ(1937年7月、父は中国戦線へ送られた)の新聞と同じだよ。やだね。やだね……」と。マスコミ各社の世論調査では派兵反対が多数を占めている。ならば、自衛隊派遣を報ずる際の写真は、日の丸を持って見送る写真ではなく、抗議のプラカードを持って見送った写真をのせるべきではないか(『赤旗』はその写真を載せている)。少なくとも、両者を並べるぐらいの姿勢は見せていいはずだ。今後、イラクでの自衛隊の動向を伝える報道とともに、紙面はますます既成事実によりそって後退をつづけ、世論をその方向に導きこうとすることになるのだろう。
私も、事態は楽観を許さない状態だと思う。万一、イラクに派遣された日本自衛隊員に死者が出たら、それは小泉政権にとって命取りになるだろう、という説がある。私は必ずしもそうなるとは思えない。命取りどころか、その死者を「尊い犠牲者」、「日本の誇り」として讃え、北朝鮮脅威論と合わせて、「その死を無駄にさせないためにも」として、自衛隊の正規国軍化への足場としようとする試みもなされるだろう。
昨秋の選挙に際して、マスコミは一斉に「二大政党」の対決選挙というキャンペーンをはりめぐらした。この「二大政党」態勢ということを、1927(昭和2)年以降の民政党・政友会の二大政党時代と重ね合わせ、1928年の総選挙の再来だという警告も聞かれる。その警告には耳を傾ける必要があるが、しかし現在を「昭和」初期の時代にそっくりだと考えてはなるまい。もしそうだとするなら、それから3年後の「満州事変」から1945年の原爆体験、敗戦までの歴史を再びたどることが必然ということになってしまう。似てはいるが、どこに違いがあるのかもはっきりさせておこう。
ジャン・ユンカーマン監督の映画『チョムスキー 9.11』(シグロ作品)からは、いろいろな示唆を受けたが、とりわけ私が感心したのは、講演が終わり、夫の健康状態を心配するチョムスキー夫人が袖を引っ張っているのに、彼を囲んで質問を次々と浴びせる参加者に、実に丁寧に意見を述べ続けるチョムスキーの姿だった。ある黒人青年が、「9・11時件以後の暗い状況の中で、あなたはなぜ、そんなに楽観的でいられるのですか、世の中はよくなっていると言えるのですか?」と問うたのにたいし、チョムスキーは「世の中がずっと悪くなっているというのでしたら、あなたは、200年前の奴隷制時代に戻った方がいいと思うのですか?」と切り替えした。質問者のびっくりしたような表情が印象的だった。
200年前へ、とまでは言わぬにしても、デモや意見広告の効果を、即時的に目に見える形で求めるのはどうかと思う。
さきの1月末の集会での疑問に対して、私が話したのはそういうことだった。この話は、すでにほかの場所でも書いたことがあるのだが、簡単にここでものべておこう。
■アメリカ国防総省のベトナム秘密文書の暴露の背景、そして1956〜7年砂川闘争の影響
あのベトナム戦争を
やめさせる上で決定的な影響をもった事件の一つに、ダニエル・エルズバーグ博士による国防総省の「ベトナム秘密文書」の暴露があった。当時、マクナマラ国防長官のもとで働いていたエルズバーグ博士にそれを決意させたものが、実は1967年10月21日、国防省を取り巻いた非暴力デモだったことはあまり知られていない。このデモでは、デイブ・デリンジャー氏や作家のノーマン・メイラーなど、多数の人びとが逮捕されたし、また、出動した兵士の銃口に花を差し入れている有名な写真もこの日の行動の1コマだった。
エルズバーグ博士はそのとき、国防省の建物の窓から外のデモを眺め、デモ隊が殴られ運ばれてゆくのを目にして、「この人たちは自分の良心に従って生きているのだ、彼らは自分の心と理性がある場所に自分の身体を置こうとしている。私だったどうなるのだろう?」と自問自答し、そして秘密文書の暴露を決意するに至ったのだという。だが、そうした事情が明らかにされるのは、ずっと後のことだ。このデモの直後には、反戦勢力の中でも、非暴力デモの限界性を指摘する意見が出され、暴力闘争の必要性を説いたり、爆弾闘争に走る若者たちも出てきたのだった。(D・デリンジャー『「アメリカ」が知らないアメリカ』藤原書店、361ページ)
私自身の体験を紹介しよう。
1998年冬、喜納昌吉さんが主催する反戦運動の記者会見に出たときのことだ。アメリカからデニス・バンクスさんも参加していた。彼は、会員30万人、原住民への差別に強い抗議運動を続けている「AIM――アメリカ・インディアン運動」の設立者だ。
日本人記者から、いつからこのような運動に関心を持つようになったのかと質問されたバンクスさんはこう答えた。
「19歳の時でした。駐留米軍の一兵士として立川基地に配属されていました。そのとき、砂川町の基地拡張反対運動が起こり、私のいたフェンスの目の前
で、主婦や学生、労働者たちが機動隊と激突しました。殴られても蹴られてもひるまない主婦や学生、そして棍棒の下で頭を割られ、血を流しながら、なおも非暴力でお経を唱え続ける僧侶たち。
それを目にして、自分はここでいったい何をやっているのだろうか、と考えさせられました。それがきっかけで、軍隊や戦争、そして政治や差別の問題に関心を持つようになったのです。私をこのような道に進ませる契機は砂川町での日本人の非暴力の闘いでした……」。
記者会見には、婦人民主クラブの山口泰子さんもいたが、私も山口さんもそれを聞いて驚いた。二人とも、まさにそのフェンスの外で殴られていた隊列の中にいたのだったから。
砂川町での激突は1956〜7年の秋だった。このデモの一つの結果は、こんな形で国境、人種、そして時代をこえて40年以上もたってから、私たちに知らされたのだった。バンクスさんも驚いていた。私たち3人が抱き合ったことは言うまでもない。
もうひとつ、一昨年、ベトナムを訪問したときに聞いた1972年の相模原補給廠での米軍戦車輸送阻止デモの影響についての感動的な体験があるのだが、長くなるし、『週刊金曜日』(2002年6月21日号)や『市民の意見30の会・東京ニュース』No.72(2002.6.1)で紹介したので、ここでは割愛する。
これらの例は、すべて反戦の行動が、それに参加した人の目には直接ふれない形ではあるが、重大な影響を周囲の人びとに与え、中には、歴史を変えるような決定的な効果をも生んでいるという実例だ。行動の効果を短い期間で即断することはできない、という実例である。
■意見広告の与えた波紋
小泉首相や与党の議員たちが、今度の私たちの意見広告に対しては、一顧だに与えていないように見受けられる。しかし、実際には、そうではなさそうだという事態も起こっている。
たとえば『週刊新潮』の記事である。同誌は、意見広告が出た直後の号(1月29日号)で、この意見広告への誹謗というか、揶揄というか批判の記事を載せたが、その質の低さは驚くばかりであった。一部をご紹介しよう。
……広告の中に書かれている〈反対する〉〈止める〉という言葉も、単に口先さきだけだという。
「反対してどうするのかと疑問に思っても、どこにも答えはない。一種のマスターベーションみたいなもので、この広告を出して一件落着。死んでもイラク派遣を阻止するという気迫はまるで感じられません」(拓殖大学の佐瀬昌盛教授)
朝日新聞OBの稲垣武氏もこういう。
「イギリスでは論争は水際までと言われていて、つまり、いったん国が決定した事は、もう論争は止めるのが健全な考えです。この時世にこんな広告を載せる新聞社の見識が問われます」
いやまさに、この広告自体が朝日そのものかもしれない。……
「いったん国が決定した事は、もう論争は止めるのが健全」とは、開いた口がふさがらない。この稲垣という人は民主主義ということがわかっているのだろうか。それこそ、こんな意見を載せる『週刊新潮』そのものの本性がこれで明らかだと言うほかない。
しかし、こんなお粗末、低次元の反対記事でも載せて、何とかこの意見広告の影響を消さなければ、と思わせるほど、この意見広告は彼らにショックを与えたのだということも言えるのだろう。このまま放置はしておけない、そう考えた右派グループは、「自衛隊の皆様に感謝と敬意を表し、任務達成と無事帰還を願う」意見広告を『産経新聞』に掲載しようというアピールを出して、一口5000円という募金「運動」を開始している。
■30年代との相違と今後の方向
似てはいるが、どこが違うか、という問題に戻ろう。
まず、民衆の中に、1930年代とは比べられないほどの膨大な反戦の世論があるということだ。すでに行動でその意思を表現している人びとだけではなく、適切な手段、チャンネルが与えられれば、さらに強力に表現されうる潜在的な反戦の意思があることは、今回の意見広告運動でもはっきりと示された。
今度の広告には、北海道から沖縄までの、当面の主要な行動予定や連絡先の案内も掲げた。それによって、全国の行動の結びつきはいっそう強くなったし、現に、そこに挙げられた行動に、この広告を見てはじめて参加してきた人びとがずいぶんいた。1月17日の「防衛庁抗議行動」には、急いで新しく作られた間に合わせの「意見広告運動」の旗のところには、これまでの行動で顔を見たことのない人びとがかなり参加し、それまでのデモとは少し違った雰囲気が生まれていた。東京以外ではどうだったろうか、知りたいところだ。
今回の意見広告運動では、まさに前例のなかった経験なのだが、5000を超える団体・個人から賛同が寄せられ、募金額は3000万円にもなった。とくに『朝日新聞』にこの運動の記事が出て以後は、事務局の電話は問い合わせでパンク状態になった。事務局に送られてくる分厚い郵便振替は、毎日100万から200万円の払い込みを通知し、その用紙には、細かい字で、それぞれの賛同者の思いのたけが書き込まれている。そしてその中に、「やっと自分の反戦の意見を表明できる機会が見つかって、こんな嬉しいことはない」とか「自分の周りにはデモも集会もない、こんな大事なことをなぜもっと早く知らせてくれなかったのだ」というような趣旨の文が非常に多いのにも驚いた。私たちは、これまで、何十回もデモをやり、何十万枚もビラをまいてきた。それでも私たちの訴えが届いていない人びとがまだまだ全国に実に多数いるということを、あらためて痛感させられたのだった。
また、自分のいる都道府県、あるいは市町村で、意見広告に賛同した仲間がいれば連絡をとりあいたい、今後、何かの運動を一緒にやれれば、と思うのだが、という希望も何人もの人から寄せられている。これも今までになかったことで、今後、その手段を追求してみたい。
意見広告運動だけの例を挙げたに過ぎないが、これらは1930年代にはまったく見えなかった可能性だ。
憲法の改悪をめぐる争いは、これから本番を迎える。その際、運動は、こうしたまだまだ表面に現れていない、しかし全国に多数いる層との接触、それとの連帯の方法を全力を挙げて追求しなければならないだろう。
私たちは、募金とともに寄せられた意見をまとめて出版することも計画しているし、また、これまでまだやったことがなかったことなのだが、意見広告に賛同した人びとによびかけて意見を交換する集まりも開いている。1月23日のシンポジウムは、200人が参加したが、これはその種の集まりの第一歩だった。まず、この意見広告運動に参加した5000の団体、人びとの間で、何とか、新しいつながりを作り出し、それを広げようではないか。
行動の効果がどうであったのか、そのかなりの部分は、私たちの今後の活動によって決まってくるのだと思う。
(2004年2月4日)(よしかわ・ゆういち、市民の意見30の会・東京)