68 友人(大橋堅固さん)の葬儀の話、バー「風紋」の話など (2011年10月02日  掲載)  

◎友人(大橋堅固さん)の葬儀:旧制浦高の同クラス(文甲)の友人、大橋堅固君(左の写真)が9月28日に逝去しました。私が半年早く生まれており、彼も80歳、今年の5月末にあった同クラス会の集まり(このクラス会についてはここをクリックに、いつも必ず来ていた彼が欠席していた のでしたが、そのころから肝臓がかなり悪くなってきていたようです。葬儀は10月1日午後、日本基督教団阿佐ヶ谷教会で行なわれ、それに出席してきました。大橋君は弁護士で、総評の争議での労組支援で、総評弁護団のメンバーで活躍もしていました。弁護士の多数が参加していましたが、浦高の同級生も10名前後出席していました。教会でのキリスト教の葬儀で、賛美歌を歌われされました。彼は音楽が好きで、子どもたちのうち、二人もヴァイオリニストやクラリネット奏者になっており、この葬儀でも、娘さんの多々良佳世子さんが、モーツァルトの 「クラリネットコンチェルト第2楽章」からの演奏が行なわれました(右の写真)。家族内はとてもいい関係のようでしたが、教会の牧師さんの式辞の中では、彼は家の中では相当な殿様で、いったん口で言い出したことは誰がなんと言っても通していたようでもあったと話して、毎年8月15日には、戦争の体験を思い出 すためと、必ず一家の食事には「すいとん」を食べさせることになっていたということでした。牧師さんは戦争体験には少し若すぎていたのでしょう、「どう見てもとてもうまい食べ物ではない はずの『すいとん』を断固として食べさせた」という表現をしていましたが、しかし、イモの茎だけを食べていたような戦争最後の頃の食事の中で、「すいとん」はご馳走だったのだとは思えなかったのですね。私は耳がかなり聞こえないようになっており、牧師の式辞はいくらか聞こえたのでしたが、友人の弁護士の弔辞や息子さんの最後のご挨拶などはよく聞こえませんでした。しかし、それにしても、大橋君は、音楽のほかに酒も大好きで、そのため肝臓を傷め、その結果私たちよりは少し早く他界したわけではあるものの、まずは幸福だった生涯と受け取れました。友人との話でも、同じ感想はでした。
 葬儀に「お花料」の封筒を持っていったのですが、受付の方からは家族から固辞されていますので、と言われてもって帰りました。彼からそのお金をもらったわけでしたので、今夜は少しおいしいものを食べさせてもらおうと思い、帰りに 、スーパーではありましたが、結構上等な刺身のパックを買い、夕食はそれを肴にビールを飲むことにしました。
◎『市民の意見』の発送作業:前日、9月30日(金)には、大橋君のお通夜(これは仏教用語でしょうから、キリスト教では別の言い方があるのでしょうが)がありました。しかし、私が参加している市民運動の機関誌『市民の意見』の発送の作業日で、私は毎回これには必ず参加していましたので、「お通夜」のほうは失礼して、事務局に顔を出していました。この号には、私自身が書いた書物案内の文も載っており、その著者である山本義隆さんや武藤一羊さんなどにそれを送る仕事などもやりました。(この文章は、全文を「読書ファンへ欄に載せました。)ところで、この事務局のあるビルの入り口に、「市民の意見30の会・東京」の案内看板が出されました。前から出そうと思っていたのでしたが、野澤信一新事務局長になってやっと実現してのでした。(左の写真)
◎バー「風紋」の話:しかし、この日はもうひとつの集まりともダブっていました。『朝日新聞』の9月28日号夕刊には、「文壇に愛されバー半世紀 新宿『風紋』、壇一雄らと交流」という記事が出ていました(右の写真)。その店を営むママ 、林聖子さんの話がいろいろ紹介され、この30日に日比谷公園の中の「松本楼」で50周年を祝う会が行なわれるという紹介でした。60年代の終わりから70年代半ば頃まで、私もこの店によく行っていました。文壇との仲間というわけではなかったですが、当時は筑摩書房の編集者や、その執筆者たちが多数顔を出しており、 ベ平連のメンバーともよく親しく付き合っていました。ベ平連では故鶴見良行さんが三日か四日に一度は「風紋」に通っていたのではなかったでしょうか。鶴見さんは、ママの林聖子さん をえらく好きでした。最初はビール、それからリザーブになったりローヤルになったり、そしてポケットからは黒い紙巻に金色の吸い口のついた「ソブラニー」の「ブラック・ラッシャン」をとりだして煙を吐くのでした。私は最初は酒は弱く、鶴見さんに連れて行って蕎麦 だけを食べさせられていたりいたのでしたが、だんだん私もウィスキーの量は増えてきて、そのうち、自分の名前が江戸文字で印刷されたシールを作ってくれて、それが貼った瓶が棚に載せてもらうようにもなったのでした。 今は、高いとは思いながらも、このソブラニーのブラックは楽しんでいます(左の写真)。カウンターや座席では、 みんな今では亡くなられた方がたですが、竹内好さんや藤田省三さん、あるいは安田武さん夫妻などとも一緒になりました。ベ平連からは、 小田実さんも時々は顔を出しましたが、福富節男さんや古山洋三さんは、事務所からの帰路の途中がこの新宿でしたので、よく行っていました。 帰りは電車はなくなり、鶴見さんも含め、4人がよくタクシーで一緒に帰りました。藤田省三さんと福富さんが、もう何が原因だったかはまったく忘れてしまいましたが、二人が議論から口論になり、 最後は胸をつかみ合い、外へ出ろ、などと怒鳴りあうようにまでなって、周りが必死で止めて引き分けたこともありましたな。 また、私個人のスキャンダルを記事にしようと、『週刊新潮』や『週刊文春』の記者が何人も毎日のように「風紋」に張り込んで私を待ち構えて、そのしつこさに参ったこともありました。とにかく、鶴見良行さんと ベ平連との思い出はこの「風紋」での舞台のことがいろいろあり、この日の「風紋」の集まりには参加したい、林聖子さんとも久しぶりにお会いしたいと思いは強くあったのでしたが、やはり『市民の意見』の発送作業 で、残念にもこの「風紋」の祝う会にも不参加になってしまいました。これはかなり悔しい欠席でした。
◎涼しくなって果物はおいしいと思い、手の指は荒れ始めています:涼しくなって、朝夕方は涼しくというよりは寒くなってきています。そしてそれとともに果物が実においしいと思うような季節です。もらったものが多いのですが、大きな粒の種無しの葡萄のロザリオや甲州路には驚きましたし、皮が気持ちよくすーっとむける白桃、あるいは先日、母を訪ずねる途中、川崎の路脇の店で買った稲城梨など、食べるときに幸福だなあとあらためて思うのです。しかし、同じ時期から、だんだん米を研ぐなど、炊事の水が辛くなってきて、つい、お湯を使いたく思ったりします。涼しくなっても脚の浮腫みはあまりよくならないのですが、手の指の荒れの方はもう始めています。濡れた手をよく拭き、指にあかぎれ阻止のクリームを刷り込むのですが、やはり指先のあちこちから血がにじんだりします。冬のうち、寝る前にかなりクリームを刷り込んで、手袋をはめて寝るのですが、それもそろそろ始めようか、と思うようになってきました。