19 藤本義一さんの告別式での弔辞 (1999. 10. 22.)
市民運動の仲間であった藤本義一さんの葬儀は、10月22日午前10時から、東京・代々幡斎場で行なわれました。そこで私がのべた藤本さんへの弔辞を以下に再録します。
お別れの言葉
藤本義一さん、市民運動の仲間の一人として、そしてガンとともに生きたいわゆる「いい人」の仲間の一人として、お別れの挨拶をします。
「お互いにガンガン仲間、藤本さんは人生の先輩、ガンでは私のほうが先輩、どっちが先にあの世に行くかはわかりませんが、それまでは、これまで同様、反戦のデモもするしワインも飲むし、せいいっぱい生きてゆくことでしょう。……」
藤本さんと並んで、こう、私が話したのは、今年の二月、木枯らしが強かった晩、あの六百人以上もの方が参集した新高輪プリンスホテルでの大ワイン会の席でした。 (写真は、2月の大ワイン会で)
そして藤本さんは、事実、せいいっぱいに生きられました。ガンで手術をなさり、それでも患部をとりきれず、いつ全身に転移するかわからないという状態で退院されてから、お亡くなりになるまでの藤本さんの生き方、死の迎え方は実に見事というほかないものでした。なかなか私どもには真似のできそうにないものです。藤本さんの生き方は、それを見守る周囲の多くの人たちに、生きるということがどういうものであるかということを教えてくれたのです。この半年、多くの人がお見舞いに行きました。ですが、力づけられ、生きる勇気を与えられたのは、むしろ、お見舞いをする私たちのほうだったのでしょう。
藤本さん、あなたと初めて運動の中でお会いしたのは三五年前、一九六五年のことでしね。藤本さんは作家の開高健さんらとともに、ベトナム反戦の市民運動、べ平連の行動に積極的に参加されたのでした。たびたびのデモには、いつも端然としたスーツに身を固め、ダンディな帽子を必ずかぶり、マイクを決して使わずに高らかに反戦のスローガンを叫ぶ藤本さんの姿が必ずあり、人びとに強い印象を与えました。べ平連のニュースが発行されるたびに、藤本さんは、勤務先のサントリー本社の廊下にそれを張り出し、反戦の意志を公然と示し、それは職場でも公認の事実となりました。
べ平連の最初の呼びかけにはこうありました。
……私たちは、ふつうの市民です。
ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、
つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて、
その私たちが言いたいことは、ただ一つ、「ベトナムに平和を!」……
べ平連を呼びかけた人びとの頭に描いていた市民像、それはまさに藤本さんのような人でした。市民運動の原理の一つに「言い出しっぺがやる」というのがありましたね。藤本さんは活動の中で、いろいろなことを言い出し、その先頭にたちました。その一つに「中年べ平連」の組織がありました。
状況が厳しくなり、反戦のデモが機動隊と衝突したり、逮捕者や負傷者も多く出るようになり、そこが若者たちの怒りの発散の場だけになろうとする空気が生れてきたとき、藤本さん、あなたは、家庭を持ち、職場と仕事をもつ、いわゆる中年の社会人による「中年べ平連」の行動を呼びかけたのでした。私たちは、『べ平連ニュース』が出るたびに、数寄屋橋の街頭に立ち、それを道行く人びとに売りました。あるときは、「ヤングべ平連」に挑戦状を出し、同じ時間に、数寄屋橋を挟む向かい合った道路で、どちらが多くのニュースを売りさばくかの競争もやりましたね。いつも「中年べ平連」の勝ちでした。藤本さんは、こうした行動を通じて、反戦の市民運動が決して怒れる若者たちだけの運動ではなく、広範な普通の市民の活動の場であるということを示そうとされたのでした。こんなことを挙げてゆけばきりがありません。
藤本さん、あなたの人生は、まさに、戦後民主主義のもっとも良質な部分をその生き方で示したものであり、六〇年台後半以降の「もっともよき市民像」の典型だったと言えるでしょう。
ただ、私など、あらゆる面でドロップアウトしてしまった人間には、ついてゆけない部分もありました。あなたは自己の信念に忠実に、ある意味では、頑固というか、かたくなにというべきか、それに断固こだわって生きると同時に、いわゆる職場の仕事にも大変な熱意を込めてとりくまれました。最後の病床でもあのウィスキーの新聞突き出し広告が念頭から離れなかったのでしたよね。藤本さんは「仕事人間」でもありましたよね。その意味でも、藤本さん、あなたは、一つの時代の典型的な市民だったと言えるのでしょう。
ワインを楽しみ、マラソンに汗を流し、詩を愛し、運動を楽しみ、仕事に尽くす――藤本さんの生き方は充実したものだったでしょう。
あなたがなくなられたことは、その一つの時代の終焉を象徴しています。一万に近い人員整理の計画が発表されても抗議のスト一つできない労働運動、法の規制さえなければ核武装と強姦をやりたいと公然と語る政務次官など、世紀末とともにひどい時代が始まろうとしています。二一世紀の世界と日本がどうなるのかは、これからの若い世代の生き方にかかっています。
藤本さんの生き方が、それにプラスの影響をあたえられるかどうか、この九月のワイン会の席で藤本さんが話されたように、もし、目玉だけでも生き残って世の動きを見つめておられるのなら、注目したいところでしょうね。
お別れです。さようなら。
一九九九年一〇月二二日
市民の意見30の会・東京
吉川 勇一
(告別式の写真は佐藤彰氏撮影)