news-button.gif (992 バイト) 18 ミツコの生きた時代 (映画『Mr.P.のダンシング・スシバー』用パンフレットに掲載)(1999. 9. 25.)  
 
  (この映画は、9月25日に封切られました → Mr.P's Dancing Sushi Bar また、2001年2月22日(木)午後9時から、NHKの衛星第2放送(BS-11)で放映されます。「News」欄のNo.8 をご覧下さい。

 

ミツコの生きた時代

(映画『Mr.P.のダンシング・スシバー』用パンフレットに掲載)

吉 川 勇 一

 

 第二次大戦後、日本が直接関与した戦争は、1950年すぐ隣国で始まった朝鮮戦争だった。だが、米軍の占領下にあって、報道には厳重な制限が課されていたし、それにテレビというものが存在していなかった。国民がその実態を知ることは少なかった。

 だが、ベトナム戦争は違った。米軍による大規模な北ベトナム爆撃が開始される1965年は、東京オリンピックの翌年であり、テレビは各家庭に普及していた。そして、報道は争って赤裸々な戦争の現実を映像として流した。

 ジャングルを吹き飛ばすナパーム爆弾の火焔、解放戦線軍の捕虜の拷問や処刑の場面、切り取った生首を手に下げる南ベトナム軍兵士、こういった映像が、カラーで日本の家庭の茶の間に持ち込まれたのだ。

 作家、開高健の『ベトナム戦記』、朝日の本多勝一による『戦場の村』、毎日の大森実による『泥と炎のインドシナ』といった、戦場の生々しいルポも人びとに衝撃を与えた。

 アジアの小さな一農業国に、世界最強の武力をもつアメリカが襲いかかる、なぜ、どうして? 人びとの関心は集まり、日本人特有の「判官びいき」(弱いものに声援を送る)もあって、アメリカへの批判は高まった。開高健が訴えた『ニューヨークタイムズ』に反戦の意見広告を出そうというアピールには、全国の小学生からお年寄りまでの広範な人びとが募金と熱い反戦のメッセージを送ってきたのだった。

 やがて、この戦争は「対岸の火事」ではないことも次第に認識されてきた。安保条約を通じて日本がそれに積極的に加担していることがわかってきたからだ。

 1967年になると、参戦している米軍兵士の中にまで、厭戦・反戦の気分が広がり、逃亡、脱走、集団反抗なども伝えられてきた。そして、その年の暮れ、ベトナム爆撃のあと横須賀に寄港した米空母「イントレピッド号」からは、四人の水兵が脱走し、日本の反戦市民運動「べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」に援助を求めるという事件が起こった。べ平連は、これを匿い、密かにソ連を経由して中立国スウェーデンに送り出した。

 この発表は、全国に衝撃を与えた。四人の反戦脱走兵の声明、動向は、逐一マスコミで報道され、各週刊誌はまるで『紅はこべ』(脚注)の冒険のように、べ平連の「地下活動」を特集した。べ平連の事務所には、よくぞやってくれた、自分も手伝いたい、などという賛同、激励の手紙とともに、毎日のように続々とカンパの金が全国から送られてきた。(もっとも、右翼も過敏に反応し、名古屋から上京してきた右翼にべ平連の事務所が襲われて破壊されるという事件も起こった。)

 当時の日本の空気を表すものとして、『読売新聞』にのった近藤日出造の時事漫画を紹介しておこう。これは、ワシントンにある有名なリンカーン像の前に、マスコミでよく知られるようになった四人の脱走兵の姿を配し、「脱走五人組」というタイトルがつけられていたのだ。つまり、この脱走兵の行為は、リンカーンの説く民主主義の伝統にのっとったものだ、という主張なのだ。

 それ以後、日本でも米脱走兵は続々と現れ、日本人の庇護を求めた。べ平連は、あるいは北海道から日本の漁船に潜ませてソ連経由スウェーデンへ、あるいはパスポートや出入国印鑑の偽造までやってのけて羽田からパリへ送り出すなど、米軍MPや日本警察の必死の捜査の目をかいくぐって、総計二〇名の反戦米脱走兵を国外へ送り出した。

 これには、多くの普通の日本市民が協力した。学者、作家、ジャーナリスト、宗教家などにかぎらず、浪人生、大学生、主婦……。とりわけ、この映画の主人公ミツコのような家庭の女性の力が大きかった。べ平連に渡すまで、一人で一年近くも脱走米兵を自分の家に匿っていた女性もいたのだった。

  表面的には、これは現代風に言えば、「格好いい」活動のように見えたが、しかし、実際にその活動に加わっていた人びとにとっては、大変な苦労だった。言葉や文化の違いはもちろん、脱走兵は、凄惨な戦闘体験から心に深い傷を受けていたり、二度と故郷に帰れないのではないかという心配もあったりで、援助する日本人との間にトラブルがおこることもあった。脱走兵を装ってもぐりこんできたCIAらしきスパイも現れたし、不審尋問に引っかかって逮捕される兵士も出てきた。実際の現場では、人間の強さや優しさとともに、弱さも出てきた。冒険小説『紅はこべ』のようなわけではなかったのだ。

 だが、平和憲法を持ちながら、アメリカのベトナム戦争に協力している日本政府――。

 その国民の一人として、殺すことを拒否して軍隊から逃れてきた米兵を助けることは、当然の責任だ、人びとはそう感じていたのだ。

(よしかわ・ゆういち/元べ平連事務局長)

 【参考】脱走兵援助活動の実態を記した『となりに脱走兵がいた時代』(坂元良江・関谷滋編 思想の科学社刊)
脱走兵自身の手記、『兄弟よ、俺はもう帰らない』(テリー・ホイットモア著 吉川勇一訳、第三書館) 
「旧べ平連のデータベース・ホームページアドレス
 (
http://www.jca.apc.org/beheiren/ )

脚注)「紅はこべ」 イギリスの女流作家オルツィ(1855〜1947)の劇作。後に小説化。革命下のフランスから貴族を次々脱出させた主人公「紅はこべ」の活躍を描いた冒険小説。(もとの個所に戻る)