所高生の自由と教育を考える委員会だより
発行:所沢高校PTA・所高生の自由と教育を考える委員会
発行日:1998年12月24日(木)
所高生の自由と教育を考える委員会だより
所沢高校PTA
1998.12.24 所高生の自由と教育を考える委員会発行
所高察のPTAの部屋に今年初めて「茶話コーナー」が設けられました。そこで開
催されたミニ学習会には、両日共約40名の方に参加戴き、いろいろと意義のあるこ
とを学ぶことができました。その報告を致します。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ミニ学習会の報告 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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│ 9月12日(土) 講師:君島和彦氏 (PTA会長) │
│ テーマ:学習指導要領とは? │
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校長先生の発音の中によく出てくる「学習指導要領」とはどのようなものなのか、
その中に卒業式や入学式はどのように書かれているのか、これは法律のようなものな
のか等についてお話して戴きました。
【学習指導要領ってどんなもの?】
教育課程編成の基準を示すものといわれています。各学年での教科内容とか、教科
以外の特別活動など、教育活動の大まかな基準が示されています。また、教科書検定
の基準にもなっています。
【卒業式・入学式について何が書かれているの?】
学習指導要領の第3章「特別活動」には、第1「目標」、第2「内容」、第3「指
導計画の作成と内容の取り扱い」という項目があります。
第1「目標」には「望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達と個性の
伸張をはかり、集団の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度
を育てるとともに、人間としての在り方生き方についての自覚を深め、自己を生かす
能力を養う」とあります。
第2「内容」にはA.ホームルーム活動、B.生徒会活動、C.クラブ活動、D.
学校行事について書かれてあります。
第3「指導計画の作成と内容の取り扱い」には次のことが書かれています。
1 指導計画の作成に当たっては、次の事項に配慮するものとする。・・・・・
2 内容の取り扱いに当たっては、次の事項に配慮するものとする。・・・・・
3 入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、
国歌を斉唱するよう指導するものとする。
4 特別活動の指導を担当する教師については、・・・・・・
上記の「3」の他に「入学式、卒業式」という文言が出てくる箇所はありません。
つまり、入学式・卒業式をどのようにやるかは各学校で判断すればよいことですし、
必ず入学式・卒業式をしなくてはならないという記述もありません。
【指導要領と違うことをやってもよいの?】
日本史や世界史を教科書の最後まで教わったという人は少ないのではないでしょう
か。終わらなかったといって先生が咎められることはありません。また、漢字の学習
については、どの学年でどの漢字を教える等指示されていますが、その通りに教える
ことは非常に難しいでしょう。このようなことからわかるように、学習指導要領の全
てに厳密に従えというのは無理な話で、それを求めている訳でもありません。
【学習指導要領って法律なの?】
文部省は現在、法的拘束力を持つと主張しています。しかし、教科を最後まで教え
られなかったからといって先生が罰せられるでしょうか。また、“我が国を愛する心
情を育てる”とか“関心を持つこと”など抽象的な記述のあるものが、法的拘束力を
持つことができるのでしょうか。いろいろな裁判結果の解釈や教育法学界の判断では
法的拘束力を持っとは言い切れません。
さらに、学習指導要領は文部省の「告示」であって、憲法や教育基本法に対して下
位であり、憲法や教育基本法に優先されることはあり得ません。
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│ 9月13日(日) 講師: 清水康幸氏(PTA副会長) │
│ テーマ:生徒は「指導される存在」なの?│
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校長先生の「生徒は指導されるもの、話し合いの対象ではない」との発言から、本
当に生徒はただ指導されるべき存在なのかをテーマの中心に置き、指導とは?、所高
の話し合いのシステム・自由とは?、などについてお話して戴きました。
【所高の校風としての「自主・自立」との関係は?】
「教育を受ける」とか「指導される」ということは決して一方的・受け身的な関係
ではありません。生徒は憲法や教育基本法、さらに子どもの権利条約で定められた
「教育を受ける権利」の主体です。
子どもは確かに「未熟」ですが、それは「発達途上」にあるということであり、
「発達する権利」を持っているということです。大人がやるべきことは、彼らが将来
の主権者として立派に成長するプロセスを励まし見守ること、そのような意味での
「教育的指導」が必要なのだということです。「自主・自立」はそのための最大の保
障であり前提なのです。
【所高の話し合いのシステムとは?】
主体的に取り組まれる学校行事を通して、生徒達は意見の違いを話し合いで解決し、
一致点に基づいて行動するという民主主義の基本的なルールを、実践的に体得してい
ます。
生徒と職員会議の決定が食い違った場合には、生徒の代表と教職員の代表による協
議会が開かれ、納得するまで話し合います。この生徒の意志を最大限に尊重した学校
運営を行うというシステムは、「子どもの権利条約」で定められた意見表明権、学校
運営への「参加」権を具体化したものです。
「子どもの権利条約」12条には「意見表明権」がうたわれていますが、「・・・・
自由に自己の見解を表明する権利を保障する。その際、子どもの見解が、その年齢及
び成熟に従い、正当に重視される。」と規定されています。生徒の意見はただ「聞く」
だけでなく、「正当に重視される」ものでなくてはなりません。
【生徒は何をしてもよいの?】
1990年に生徒総会で決定された「生徒会権利章典」では次の4項目を宣言して
います。
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1.学校は生徒と教職員によって構成されており、その構成員一人ひとりの個性
は認められ一人ひとりの主張は尊重される。
2.生活向上のための自治的かつ民主的な活動の自由は保障される。
3.服装、頭髪を含む表現の自由は保障される。
4.思想の自由は保障される。
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これは生徒自らを人権の主体ととらえ、「生徒自治」の論理を確立したものです。
自己主張ができ、同時に他人の主張をも認める力、一人ひとりの個性を互いに尊重
し合える関係を作り上げていくことは、一人前の社会人、将来の主権者として成長す
る上で不可欠なことです。
学校の中で何が許され、何が許されないのかということは、お互いの権利を認め合
うことを前提に、まずは自分で判断しなければなりません。さらに、そうした社会常
識的なルールをふまえて、生徒と教職員がよく話し合い、保護者の意見も参考にしな
がら、それぞれの学校で決めていくべきことなのです。学校の「決まり」は自治的に
決められなければ無意味です。
所高の「校内生活上の心得」には次のように書かれています。
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私達の自由は権利章典で保障されている。しかし、そのことの大切さを忘れたり、
意味をはき違えて行動すると、他人の自由を奪うだけでなく自分の自由も失ってしま
う。私達は自由であると同時に、自らの行動に責任を負っているのである。
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生徒は自由の意味をきちんと考えているようです。ある意味で、最もきつい要求を、
生徒白身が自らに課しているのだとも言えます。
とはいえ実際には、生徒の遅効、私語、ゴミが散らかっている等、まだまだ考える
べき問題がありそうです。こうした日常生活の行動も含めて、「自由」とはたえざる
自己反省・自己責任を伴うものであることをお互いが自覚しあうべきでしょう。
自由には2つの側面があります。「〜からの自由」(束縛から免れる)と「〜への
自由」(努力して新しい可能性を獲得していく)。所高生はあえて後者のしんどい課
題を自らに課しているといえましょう。先生方もそれをあたたかく見守る余裕を持っ
ています。
【先生と生徒の関係は?】
所高の先生は「教育の基本は信頼」とよく言われます。信頼関係の裏付けのない一
方的な「指導」は、ほとんど強制や押しつけに等しいものです。他方で、何の指導も
行わない放任は、無費任な教育の放棄といわざるを得ません。教師と生徒の間に営ま
れる教育的関係は大変に微妙なものです。
制度的には教師と生徒は「対等」とは言えません。教師には評価権や懲戒権があり
ます。しかし、信頼関係が築かれていれば生徒と先生は「話し合い」の場において独
立の人格を持つものとして互いの意見を対等に戦わすことが可能です。納得できない
ことでも「先生が言うのだから、、、」と生徒の側があきらめてしまったり、逆に教
師の側が「学校の決まりだからこうしろ」と押しつけるような関係は、そもそも「話
し合い」が成立していないのです。まして「生徒は話し合いの対象ではない」と言う
に至っては、人権主体としての生徒の存在や「指導」の意味が全くわかっていないと
言わざるを得ません。
「授業」においてはどうでしょうか。ここでは“知の伝達者”としての教師が優位
に立つことは確かですが、この関係も一方的なものではありません。教師もまた生徒
とともに考え学んでいく姿勢を持つことが求められます。いわば、“知的同行者”と
して理解することができます。
教育とは学習主体である生徒がいろいろな試行錯誤をしつつ、一つ一つの課題を達
成することを通じて、自己決定をできる自立した主体へと成長していく過程を励ます
ことではないでしょうか。そのためには、生徒を信頼し「任せる」「待つ」の姿勢が
重要といえるでしょう。
【校長先生ってどんな存在?】
法令に定められている校長の職務権限は、包括的規定としては「校長は、校務をつ
かさどり、所属職員を監督する」となっています。他方、生徒の「教育をつかさどる」
権限は教諭にあります。
校長と教職員の間には、「上司と部下」のような関係が成立しますが、学校は教育
活動を営む組織であり、企業のような単純な指揮命令関係では成り立たない組織です。
例えば、校長に「卒業の認定」権があるといっても、先生方の3年間にわたる教育活
動と評価の蓄積、最終的には卒業判定会議の結果を受けることなしに、校長個人の判
断でその権限を行使できるわけではありません。それは教職員の意志を尊重し、その
合意の上で行使されるものであるというべきです。
校長は単なる学校管理者ではありません。それなら役人でいいのです。教育活動を
行う組織の管理者である校長は、同時に教育者としての優れた力量や見識を持つこと
によって、初めてリーダ一シップを発揮することが可能になります。
よく似た言葉で「権力」と「権威」というものがあります。「権力」は制度的・物
理的なものですが、「権威」は人々から信頼や尊敬を受けることでおのずから生まれ
てくる戒厳のようなものと理解できます。校長の「権力」は教職員や生徒・保護者の
信頼と尊敬にもとづく「権威」の裏付けなしには、非常に空しいものになります。
「権威のない、むき出しの権力」を行使したとしたら、「教育」は生命を失うことに
なるでしょう。
(Web管理者記) ミニ学習会『生徒は「指導される存在」なの?』に詳しい資料があります。
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