生徒は「指導される存在」なの?
所高祭 PTA企画「ミニ学習会」資料
1998年9月13日(日)
(Web管理者記)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
このミニ学習会は、展示室の一角という小さなスペースでおこなわれたにもかか
わらず、30名以上の参加があり、立見が出るほどの盛況だったそうです。終わり
の方に「教育問題に関する法律クイズ」があります。解答もついていますので、試
してみて下さい。難しいですよ。(^^;)ゞ
所高祭 PTA企画「ミニ学習会」資料 1998.9.13 PM 2:00〜
生徒は「指導される存在」なの?
講師:清水康幸(PTA副会長)
Q1 所高の校風としての「自主・自立」との関係は?
▲「教育を受ける権利」主体
学校において「生徒」とはどんな存在なのでしょうか。確かに、「指導さ
れる存在」であることに間違いはありません(「児童・生徒」の法的意味)。
しかし、「教育を受ける」とか「指導される」ということは、決して一方
的・受け身的な関係ではありません。ここで大事なことは、生徒は憲法や教
育基本法、さらに子供の権利条約で定められた「教育を受ける権利」の主体
であるということです。この権利も「与えられる権利」だけでなく、主体的
に「求める権利」があることを忘れることはできません。
▲新しい世代の権利
生徒は何のために学校で学ぶのか? 簡単にいえば、将来一人前の社会人と
して豊かで幸福な生活を営むに必要な知識や常識を備えた人格を形成するため、
と言えますが、もう少し言い方を変えると、その意味は、人類が蓄えてきたさ
まざまな知的遺産のエッセンスを、「将来の主権者」として必要な教養として
主体的に学ぶことにあります。なぜなら、今日世界で問題になっている環境問
題や差別や人権の問題、平和の問題、等々は、どれをとっても大人自身が解決
できていない難問ですが、これらをやがて彼ら自身が引き受けなければならな
いからです。とすれば、「何を、どう学ぶか」、そして将来の日本や世界をど
のようなものとして創り上げていくかは、大人が勝手に決められることではな
く、いわば「新しい世代の権利」に属することなのです。子どもは旧世代が作
りあげてきた遺産に学びながら、それを乗り越えていく存在なのです。
とすれば、生徒を一方的に「指導される存在」とみなし、「学習主体」「権
利主体」として認めようとしない発想は、きわめて古い「教育」イメージにと
らわれたものと言えます。教育を現秩序維持の手段として、また生徒を管理の
対象としかとらえない発想です。ここには、子どもの権利や可能性に信頼を置
かず、すべてを大人の側で決定できるとする“おごり”があります《*1》。
▲「自主・自立」は子どもの発達権保障の前提
所沢高校の「自主・自立」の校風は、「学ぶ権利主体」としての生徒を最大
限に尊重し信頼するという考え方に立つものであり、きわめて当然のことです。
他方、“生徒は「指導される存在」なのだから「自主・自立」にも制限があっ
て当然”、という言い方には、“子どもは未熟であって、おとなしく大人の
「指導」を受けていればよい。「権利」などは一人前になってから主張すれば
よい”との発想が隠れています。
子どもは確かに「未熟」ですが、それは「発達途上」にあるということであ
り、「発達する権利」を持っているということです。大人がやるべきことは、
彼らが将来の主権者として立派に成長するプロセスを励まし見守ること、その
ような意味での「教育的指導」が必要なのだということです。「自主・自立」
はそのための最大の保障であり前提なのです。
Q2 所高の「話し合いのシステム」とは?
▲学校行事は生徒の手で
このように考えると、所沢高校の学校運営における「話し合いのシステム」
は、まことに理にかなったものといえます。
例えば、所高祭や体育祭のような学校行事については、生徒が実行委員会を
組織し、原案の作成と決定、予算の執行、当日の運営など、基本的に生徒自身
の手によって担われています。このために、行事執行規定やバックアップ委員
会などの組織規定が定められ、ホームルームにおける討論を基礎に民主的に運
営されています。
もちろん、このプロセスには教職員も関わります。教職員として必要と判断
した指導・助言は行ないますし、最終的には生徒の案を職員会議で承認するこ
とで学校の正式決定となるわけです。しかし教職員の指導・助言は、決して一
方的なものではなく、生徒の自主的判断や主体性を最大限に尊重した形で行な
われています。
このような信頼関係があるからこそ、生徒たちは実にのびのびと創意・工夫
をこらした取り組みを行なうことができます。それがどれほど生徒たちの自信
と喜びになっているかは、一言では言い表わせないほどです。このように主体
的に取り組まれる学校行事を通して、生徒たちは意見の違いを話し合いで解決
し、一致点に基づいて行動するという民主主義の基本的なルールを、実践的に
体得していくことができます。
▲「協議会」システム
しかし、時に生徒と教職員の見解が食い違うこともあります。このときは、
生徒と教職員が10名づつの代表を選出して「協議会」を設置し、双方が納得
するまで話し合いを続けるという制度があります(1982年以降4回実施)。
協議会を経ても、生徒側が職員会議の決定に納得しない場合、職員会議は再度
審議を行なわなければなりません。つまり、教職員は生徒の決定した意志を無
視した一方的な学校運営は行なわないという原則、生徒の意志を最大限に尊重
した学校運営を行なうというシステムが確立しているわけです。1989年以
降は、日常的に生徒と教職員の意志疎通を図るため、学期に1度の「定例連絡
会」も実施されるようになっています。
なお現在のところ、このような学校運営への生徒の「参加」は、学校行事以
外では生徒の日常生活に関わること(規則・服装etc.)に限定されています。
しかし、これまで述べたところからすれば、教育内容や授業のあり方、その評
価に関わる問題などにも拡大されて然るべきでしょう。国際的には1970年
代から、このような問題への生徒参加も当然のように認められつつあるからで
す《*2》。
▲子どもの権利条約・・・・意見表明権と参加権
このような考え方は憲法や教育基本法にも含まれていますが、より強力な根
拠となっているのは、1989年に国連で採択された「子どもの権利条約」で
す。この条約はすべての問題の基準を「子どもの最善の利益」において考えよ
うというものです。特に、第12条には子どもの「意見表明権」がうたわれて
おり、「自己の見解をまとめる能力のある子どもに対して、その子どもに影響
を与えるすべての事柄について自由に自己の見解を表明する権利を保障する。
その際、子どもの見解が、その年齢および成熟に従い、正当に重視される。」
と規定されています。生徒の意見はただ「聞く」だけでなく、「正当に重視さ
れる」ものでなくてはなりません。つまり「意見表明権」とは、生徒の意見を
尊重する義務を含むものであり、そのためには学校運営への「参加」という形
が重要な意味を持ってくるのです。
「参加」の形態にはいろいろありますが、少なくとも所沢高校のおける「話
し合いのシステム」は、子どもの権利条約の精神を具体化したものと評価でき
ますし、どこの高校においても実現されて当然のものです。それでさえ「先進
的」とか「行き過ぎ」とか評価されたりしている現状は、日本の教育制度や人々
の意識が、それだけ国際的な動向に後れをとっていることを示しているともい
えます。
Q3 所高の「自由」とは? 生徒は何をしてもいいの?
▲「生徒会権利章典」の思想
所高の「自由」を象徴するものとして、制服がないことがあげられます。こ
れは1969年当時、所高生が6項目の要求を学校に提出した中に「制服・頭
髪の決まりを廃止せよ」とあったのがきっかけになったようです。まもなく制
服は廃止され、今日に至っています。その後いろいろな経過がありましたが、
1990年に生徒総会で決定された「生徒会権利章典」では、前文で「人間は、
人間らしく自由に生きる権利を生まれながらに持っている。自由な高校生活を
送ることは、所高生の普遍的な願いである。そのために必要なさまざまな権利
がある。過去、所高生は数多くの努力を重ね、自由を手にしてきた。・・・そ
れら手にしてきた自由を持ち続けるために私たちは自治を確立する必要がある。
自治が崩れるということはそれらの権利を失うということである。・・・」と
述べた上で、次の4項目を宣言しています。
1 学校は生徒と教職員によって構成されており、その構成員一人一人の
個性は認められ一人一人の主張は尊重される。
2 生活向上のための自治的かつ民主的な活動の自由は保障される。
3 服装、頭髪を含む表現の自由は保障される。
4 思想の自由は保障される。
これは憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由
及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立
法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という精神や教育基本法の
「個人の尊厳」「自主的精神」等の原理を、学校の場に具体化したものといえ
ます。さらに1994年以降は、生徒規則等検討委員会が活動を開始し、生徒
規則の見直しを行なってきました。
生徒会権利章典が制定された当時は、全国的に「厳しすぎる校則」や「体罰」
の横行など、いわゆる「管理教育」の問題が社会的に議論されていた時期でし
た。ここでは、「生徒の人権や個性」をどう見るか、学校という場はそれらを
どこまで制限できるのか、という議論がなされていました。そのような中で所
高生は、生徒自らを人権の主体ととらえ、表現の自由、思想の自由をふくむ
「生徒自治」の論理を確立したのです。
自己主張ができ、同時に他人の主張をも認める力、一人ひとりの個性を互い
に尊重しあえる関係を作りあげていくことは、一人前の社会人、将来の主権者
として成長する上で不可欠なことです。厳しすぎる校則や種々の規制は、「み
んなと同じ」ことを要求する“同調脅迫”を生み、異質なものを排除するとい
う“いじめ”の温床ともなりかねません。その意味でも、「生徒会権利章典」
の思想は今日なお先駆的な意味を持ち続けていると思われます。
▲「自由」とはしんどいもの
もちろんこのことは、生徒が何でも好き勝手にふるまっていいということで
はありません。他人の権利を侵害したり、学校という勉学の場を混乱させるよ
うな行動が許されないのは当然です。しかし、学校の中で何が許され、何が許
されないのかということは、お互いの権利を認め合うことを前提に、まずは自
分で判断しなければならないことです。さらに、そうした社会常識的なルール
をふまえて、生徒と教職員がよく話し合い、保護者の意見も参考にしながら、
それぞれの学校で決めていくべきことなのです。学校の「決まり」は自治的に
決められなければ無意味です。
このようなことは、実際には大変なことです。現在の生徒手帳に載っている
「校内生活上の心得」では、次のようなことが書かれています。
「私達の自由は権利章典で保証されている。しかし、そのことの大切さを忘
れたり、意味を履き違えて行動すると、他人の自由を奪うだけでなく自分の自
由も失ってしまう。私達は自由であると同時に、自らの行動に責任を負ってい
るのである。」
自由であることは、自分の行動を自分の責任において決定し、責任をとらな
くてはいけないということです。「自分の頭で考える」ことを前提とする所沢
高校のやり方は、ある意味でもっともきつい要求を、生徒自身が自らに課して
いるのだとも言えます。
とはいえ実際には、生徒の遅刻、授業中の私語、掃除をさぼる、ゴミが散ら
かっている、等々、現在の所高生にもまだまだ考えるべき問題がありそうです。
こうした日常生活の行動も含めて、「自由」とはたえざる自己反省・自己責任
を伴うものであることをお互いが自覚しあうべきでしょう。しかし所高の良い
ところは、生徒の行動にさまざまな弱点があったとしても、それを頭ごなしに
規制するのではなく、生徒自身の自覚にまつという余裕が先生方にあるという
ことではないでしょうか。
Q4 先生とはどんな存在? 生徒との関係は?
▲教育の基本は信頼
「生徒とは指導される存在」と考えれば、「教師とは、生徒を指導する存在」
ということになります。しかしそんな形式論議は何の意味もありません。問題
は、「指導」の中味であり、教師と生徒のあいだにどんな関係が築かれている
かということです。
「教育の基本は信頼」とは、所高の先生方がよく口にされる言葉です。信頼
関係の裏付けのない一方的な「指導」は、ほとんど強制や押しつけに等しいも
のです。他方で、何の指導も行なわない放任は、無責任な教育の放棄といわざ
るをえません。教師と生徒の間に営まれる教育的関係は大変に微妙なものであ
り、教師の同じ一言でもその持つ意味は状況によって全く違ってきます。
「信頼関係」とは、教師側では、生徒の判断が未熟であったとしても「任せ
てみる」「待つ」という姿勢を持てること、生徒側では、「任されたからがん
ばれる」「失敗しても認めてもらえる」という安心感が持てる時にはじめて成
立するものです。
▲教師と生徒は対等?
では、教師と生徒は「対等」なのでしょうか? 答えはYesともNoともいえ
ます。制度的には、教師と生徒は「対等」とはいえません。端的には、教師に
は評価権や懲戒権というものがあります。一方が他方を評価し裁く権限を持ち、
その逆を認めていないのですから、この面で教師は明らかに「権力者」です。
実際、体罰のような暴力だけでなく、内申書のような評価権を盾にした“脅し”
も可能なのです。
しかし、上に述べたような信頼関係に立つ教師・生徒関係の場合はどうでしょ
うか。まず「話し合い」の場においては、生徒も教師も制度的な立場の違いを
超えて、各人が独立の人格を持つものとして互いの意見を対等にたたかわすこ
とが可能となります。話し合いとは、お互いが根拠を示しながら納得と合意を
実現する作業ですから、対等平等の関係であることが前提なのです。納得でき
ないことでも「先生が言うのだから・・・」と生徒の側があきらめてしまった
り、逆に教師の側が「学校のきまりだからこうしろ」と押しつけるような関係
は、そもそも「話し合い」が成立していないのです。まして「生徒は話し合い
の対象ではない」と言うに至っては、人権主体としての生徒の存在や「指導」
の意味がまったくわかっていないと言わざるを得ません。
「授業」においてはどうでしょうか。ここでは“知の伝達者”としての教師
が優位に立つことは確かですが、この関係も一方的なものではありません。学
習主体は生徒ですから、教師は生徒の「わかる」筋道にそった教え方を工夫す
る義務がありますし、そのような授業が充分に展開されるならば、今度は教え
る内容そのものについて再吟味を迫られる事態が起こってきます。例えば、世
の中には教科書では教えてくれない未解決な問題がたくさんありますが、こう
した問題については教師もまた生徒とともに考え学んでいく姿勢を持つことが
求められます。さきに、生徒は学校で「将来の主権者として必要な教養を学ぶ」
のだと言いましたが、実は大人もまた、現在の主権者として同じ課題を共有し
ているのだといえます。教師にとって必要なことは、学識において優れている
ことではなく(それは当然だから)、生徒とともに新たな課題を発見し解決を
めざそうとする知的関心の広さと豊かさ、そして謙虚さです。そう考えれば、
授業における教師と生徒の関係も、いわば“知的同行者”として理解すること
ができます。
▲「指導」とは
教師は「任せる」「待つ」姿勢が大事だといいましたが、それは放任するこ
とではなく、一定の「見通し」の上に生徒が納得できるような指導・助言をき
ちんとしておくことが前提になります。一番よい「指導」とは、生徒が教師の
指導を意識することなく、自分でやり遂げたという満足感を味わっていながら、
その実、教師はちゃんとした「見通し」をもって指導をしている、という形だ
といわれます。所高の先生方は、このあたりの機微をまことによくつかんでお
られるように思います。
教育は、学習主体である生徒がいろいろな試行錯誤をしつつ、いわば失敗を
含む「回り道」をしながら、一つ一つの課題を達成することを通じて、真に自
己決定をできる自立した主体へと成長していく過程を励ますことです。多くの
親や教師は、子どもの「失敗」を恐れるあまり、何事も先回りして「安全」な
道を進ませようとしがちです。しかし、大人が敷いたレールを走るだけでは、
「自立」への道は遠のくばかりです。
すでに自我を確立し、進路選択を含め自己の生き方を模索し始めている青年
期にあたる高校生は、「自分で決めたことを自分の力で実行したい」という欲
求を強く持っており、頭ごなしの命令や指図には反発をします。大人としては、
何よりも彼ら自身の「人間としての誇り」「自分が自分であることを肯定でき
る」感覚を大切にしなければなりません。そのためには、彼らの「回り道」を
保障するだけの“度量”が求められます。この点では、保護者もまた自らを省
みる必要があるといえましょう。
Q5 校長先生ってどんな存在?
▲校長の職務権限
法令に定められている校長の職務権限は、包括的規定としては「校長は、校
務をつかさどり、所属職員を監督する」(学校教育法第28条3項)となって
おり、具体的規定としては、生徒の懲戒、入学の許可、生徒の出席状況の掌握、
全課程修了者の通知、指導要録の作成、卒業の認定、職員の進退に関する意見
具申、等々、数十項目にのぼります。他方、生徒の「教育をつかさどる」権限
は教諭にある(学校教育法第28条6項)とされていますから、具体的な日々
の教育活動は教職員の権限です。校長は、その教職員の監督者という関係にな
ります。
ここで重要なことは、あらゆる教育活動を進める上での基準は、何よりも憲
法、子どもの権利条約、教育基本法という教育の根本を定めた基本法令に準拠
すべきであること、さらにその下に学校教育法その他の法律、政令、省令、通
知・告示といった下位法令が続くが、「上位法は下位法に優先する」という原
則があるということです。例えば学習指導要領などは告示であり、国会の決議
を経たものでもなく、ほぼ10年おきに大改訂を繰り返しているものです。
従って、校長の権限や判断は、何よりも憲法、子どもの権利条約、教育基本法
という基本法令にまず規制されており、学習指導要領が先にあるのではないと
いう原則を確認しておく必要があります。
▲校長と教職員の関係
校長と教職員の間には、地方公務員法にいう「上司と部下」の関係が成立し
ますが、大事なことは、学校は教職員と生徒との間の微妙で複雑な教育活動を
営む組織であり、行政機構や企業のような単純な指揮命令関係では成り立たな
い組織だということです。つまり個々の教職員は、高度の専門性を発揮する仕
事に日々従事しており、その教育活動が集約されて初めて校長権限の行使も可
能となります。例えば、校長に「卒業の認定」権があるといっても、先生方の
3年間にわたる教育活動と評価の蓄積、最終的には卒業判定会議の結果を受け
ることなしに、校長個人の判断でその権限を行使できるわけではありません。
「入学の許可」その他の事項も、基本的に同様です。法令上の校長の権限とは、
学校の業務を代表者の名で行なうということであり、校長個人に無制限の権限
を与えたものではありません。それは教職員の意志を尊重し、その合意の上で
行使されるものであるというべきです。
▲校長のリーダーシップとは
校長は単なる学校管理者ではありません。それなら役人でいいのです。教育
活動を行なう組織の管理者である校長は、同時に教育者としてのすぐれた力量
や見識を持つことによって、同じ教育専門職である教職員の納得と尊敬を得る
ことができ、そこで初めてリーダーシップを発揮することが可能になります。
例えば、学校には「職員会議」というものがあります。職員会議については
明確な法的定めがなく、学説上も見解が別れていますが《*3》、いずれにし
ても日々の教育活動を円滑に進めるために(連絡・調整など)、また教職員の
合意を図る組織として(学校としての意志決定)、そこでの審議内容や決定は
最大限に尊重されなければなりません。
こう言うと、「何でも職員会議で決められるのなら、校長は要らなくなって
しまうではないか」との反論があります。そんなことはありません。議会や裁
判所でも、賛否同数で結論が出ない場合は議長や裁判長が決定を下す権限があ
ります。同様のことは学校でもありえることです。その場合でも、学校という
教育活動の場は、議会や裁判所のような多数決がふさわしいとはいえない場面
が多いのであり、「教育」の本質に照らして教職員が納得できるような解決策
を提示できる力量こそ、校長に求められるリーダーシップであると言えましょ
う。
よく似た言葉で「権力」と「権威」というものがあります。これはどう違う
のでしょう。校長は法律によって「権力」が与えられていますが、必ずしも
「権威」があるとは限りません。この場合の「権力」は制度的・物理的なもの
ですが、「権威」とはもっと精神的なもので、人々から信頼や尊敬を受けるこ
とでおのずから生まれてくる威厳のようなものと理解できます。ですから「権
力はあるが権威はない」校長もざらに存在し得るわけです。しかし、学校とい
う場の性格からすれば、校長の「権力」は教職員や生徒、保護者の信頼と尊敬
にもとづく「権威」という裏付けなしには、非常に空しいものになります。ま
して、信頼や尊敬を得られないまま、いわば「権威のない、むき出しの権力」
を行使したとしたら、「教育」は生命を失うことになるでしょう。
現行法上の校長は、教育専門職としての性格と学校管理者としての性格が重
なっており、どちらかと言えば後者の性格が強くなっています。「校長の立場」
の難しさがここにあります。最近「校長権限の強化」を図る動きがありますが、
校長の役目が学校教育の現場に責任をもつことにあるとするなら、その権限は
教育委員会など「外」に向けて発揮されるべきであって、教職員や生徒など
「内」に向けられるべきものではないはずです。
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《*1》 このような議論の裏付けとして長く通用してきたのが「特別権力関係論」
という考えです。これは学校を刑務所や病院のような特殊な施設と見なし、
その収容者の権利が制限されることを当然と見なす考え方です。
《*2》 例えばドイツでは、州によって違いますが、生徒が校長の人事に関与する
権利、学校予算に関与する権利、生徒代表が教育委員会などの教育行政機関
に参加する権利、等々まで制度的に確立しており、さらに生徒だけでなく、
親もまた学校運営に参加する権利が保障されています。
《*3》 職員会議の法的性格については、大きくは二つ、細かくいえば4つの説が
あります。
(1) 議決機関説(最高意志決定機関説)・・・・教諭の「教育をつかさどる」
権限を根拠に、教育に関する重要事項は職員会議で決定されるべきで、そ
の決定は校長を含む全教職員を拘束するというもの。
(2) 部分的議決機関説・・・・教育課程の編成、進級・卒業の認定、生徒処
分などの全校的な教育の内的事項については職員会議が議決機関である。
学校予算、施設・設備、教職員人事などの外的事項についても職員会議に
よる自治が望ましいが、職員会議の役割は各学校の慣習にゆだねられると
する。
(3) 諮問機関説・・・・校長の諮問に応じて議題が提出され、教職員が意見
を述べる場。校長は職員会議の意見を尊重するが、教職員の意見が一致し
ない場合は校長が判断を下すというもの。
(4) 補助機関説・・・・校長の校務掌理権を根拠に、職員会議は校長の校務
遂行を補助するためのものであり、教職員は意見を述べることはできるが
校長の意志決定を拘束することはできないとするもの。
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教育問題に関する法律クイズ
■ 次の文章の中で正しいものに○、誤っているものに×をつけよ。
(1) 義務教育を行なう小・中学校では、原級留置(いわゆる落第)は行なわない。
(2) 出席日数が授業日数の2分の1以上でないと、進級は認められない。
(3) 小・中・高校においては、一度に2学年以上進級させること(いわゆる飛び級)
は、どんな場合にもできない。
(4) すでに学齢を超えた者は、かりに本人が希望しても、小・中学校に入学するこ
とはできない。
(5) 高校で原級留め置きになった場合、翌年度に前年度に単位を修得した科目を履
修する必要はない。
(6) いわゆる「通知票」は、法律で義務づけられている「指導要録」とは違うので、
学校としてこれを廃止し別の方法を考えてもよい。
(7) 学校を卒業するのは、卒業式の行なわれた日である。
(8) 卒業証書の様式には全国的な基準があるので、学校で勝手に変えてはいけない。
(9) 卒業証書を授与する権限は校長にある。
(10) 国旗掲揚と国歌斉唱は、すべての児童・生徒に必ずさせなければならない。
■ 卒業と卒業式
Q 卒業式で卒業証書を渡してから数日後に、卒業生の数人が卒業試験で集団カンニ
ングをしていたことがわかった。これら数人の生徒の処分について、次のような意
見が出た。あなたはどの意見に賛成か。
ア.卒業式を挙行した日に、すでに卒業してしまったのだから今さら処分はできない。
イ.卒業式は学校行事であり、必ずしも卒業認定とは関わりがない。むしろ卒業証書
の授与を持って、卒業認定と見るべきだ。
ウ.卒業証書に記載された日付で判断すべきだ。日付が卒業式当日ならすでに卒業し
ているので処分はできないが、3月31日付ならまだ卒業していないのだから処分
できる。
エ.卒業式や卒業証書の授与に関わりなく、3月31日までは卒業していないのだか
ら処分できる。
−−−−−−−−−−−−−−−【解答】−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■ ○か×か
(1) × 通常はほとんど行なわれないが、法律上は、病気や長期欠席などの場合、
小・中学校であっても原級留め置きを行なうことができる。
(2) × 進級に必要な出席日数については法規上の定めがない。そのため、2分の1
とか3分の2とか規準もいろいろ考えられてきたが、近年の不登校の増大によ
りこうした規準もあまり意味を持たない事態も増えてきた。実際には、保健室
登校、家庭訪問、教育委員会の「指導教室」やフリースクールのような教育施
設への参加をも出席に数えて、進級を認める措置が認められている。
(3) ○ 大学については飛び級(飛び卒業)が可能になったが、小・中・高は認めら
れていない。
(4) × 現に「夜間中学校」などが存在する。なお「学齢」とは、義務教育期間に当
たる年齢のことで、6歳から15歳までをさす。
(5) ○ 高校は単位制の建前なので、すでに単位を修得した科目を再履修させる必要
はない。実際、転校とか大検などの場合はちゃんとカウントされる。しかし実
際には、生徒指導上の配慮などから再履修させる場合が多い。
(6) ○ 指導要録は義務づけられているが、通知票は校長の判断で作成するかしない
か、どのような形式にするかを決めることができる。実際に、父母懇談会など
に代える例もある。
(7) × 法律上は、学年の始期は4月1日、終期は翌年の3月31日となっているの
で、卒業日は3月31日。ただし、指導要録への記載方法は都道府県によって
違う。
(8) × そういう規準はない。各学校で決めていいこと。
(9) ○ そうなっている。
(10)× 学習指導要領は校長や教職員に「指導する」ことを求めてはいるが、生徒や
父母には求めていない。また、指導の結果がどうなるかは責任の範囲ではない。
■ 卒業と卒業式
アの卒業式挙行日とイの卒業証書授与は、理論上は別だが、ほとんどの場合は一致
するので、事実上は同じことになる。そこで問題は、卒業証書に記載された日付の問
題になる。ウもエもそれなりの根拠があり、どちらも間違いとは言えないが、最も合
理的なのはエといえよう。学年の終わりは3月31日であり、この時まで在学関係は
残る。そうしないと、学籍上のブランクが生ずるからである。エの場合に困るのは、
卒業証書の日付と卒業日がずれることになり、卒業証書を読み上げる際にやりにくい
ということ。指導要録には卒業認定日を記入することになっているが、3月31日に
するのが普通(府県によっては卒業式の日付とするところもある)。同様の理屈で、
4月1日には合格した次の学校に自動的に入学したことになる。入学式の有無や出欠
などは関係ない。
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