<書評> エドワード・サイード著「オリエンタリズム」[平凡社(ライブラリー版では上下二巻)] イスラム世界を語る場合、この本を避けて通ることはできない。それだけでなく、今や世界の民族問題の理解にも欠かせない一冊である。 薄いベールをかぶった女性が笛の音に合わせて身をくねらせる。円月刀を抱え、ターバンを巻いた屈強な男たちが、街を練り歩く。白い煙と共に、街には魔術の匂いが溢れている。 日本にいてさえ伝わってくるこうしたイメージ。それが作られたものであるとしても、では実際の姿はと問うたとき、私たちに教科書的な知識以外の何があるのだろうか。幾千の年月を経た地域。それを表す手段が、西欧の手垢にまみれた歴史書でしかない。しかも我々自身、それに疑問を持ったことがあるだろうか。 18世紀のイギリス植民地支配時代のある議会演説が例にとられる。「我々はエジプトをよく知っている。その偉大な歴史は、英国のちっぽけな歴史などものともしない。だがそうした地域には、今まで民衆の自治が実現したことなどない。英国による支配のみが、それを原住民たちに与えるのだ。エジプトは英国の支配を必要としている。」 西欧がその支配の構図の中で、専制的な意識によって編み出したもの。「われわれはオリエントを知っている」。これが「オリエンタリズム」と呼ばれる植民地支配の論理である。その意味で、これはまちがいなく近代の産物である。西欧が「統治する側」として君臨することではじめて出てくる意識なのだから。歴史的な検証を繰り返しつつも、サイードが強調しているのはこの点だ。オリエンタリズムとは、支配者の意識のことである。 だから、今中東で起こっていること。それは太古からの争いが再燃しているわけではない。近代以降と現代の特殊な状況とが交錯し生み出した、むしろ新しい形態なのだ。それを認識し、近代オリエンタリズムから脱却すること。それなしには、現在の混沌とした状況を抜け出すことはできない。こう述べるサイードの脳裏には、おそらくイスラム勢力側にいる、復古主義者たちの姿も浮んでいるにちがいない。 植民地として支配された側も、支配者の意識から自由でいられるわけではない。気づいてみれば、「民族主義」の名で呼ばれる運動のほとんどが、自分たち自身、植民地主義が植え付けた民族のイメージをまとって登場しているのだ。 たとえば「東洋的」「アジア的」とか「日本的」とかいう場合、そこにはオリエンタリズムと同じ構造が横たわっていないだろうか。「近代の超克」を叫ぶ近代西欧社会の批判から生まれた「大東亜共栄圏」の構想は、とても「西欧的」ではなかったか。文化に「〜的」というレッテルをはることこそ植民地主義そのもの。オリエンタリズムは、一方でそう警告しているのだ。 著者のエドワード・サイードは、1935年パレスチナ生まれ、現在米国に居住する文学批評家。この「オリエンタリズム」の他、「イスラム報道」(みすず書房)や「文化と帝国主義」など、運動論と鋭利な分析とを合致させた中東情勢の評論で知られている。パレスチナ民族評議会(PNC)の議員を15年つとめ、かつてはPLOのアラファト議長に近い立場と言われていたが、後年には、アラファト議長に対する批判も活発におこなった。2003年、イスラエル軍によるパレスチナへの再度の侵攻が進む中、米国で病死。 [お薦めの参考書] |
「オートポイエーシス論」の法学分野への応用 |