ハイチ軍は時を戻している

チャールズ・アーサー
ZNet原文
2004年4月2日


ハイチについて、久しぶりに、もう一つ。短くて、これだけではあまり情報がありませんが。

ハイチの歴史年表については、ハイチ年表(力作です)を、ラテンアメリカに対する米国の介入について多少整理し分析したものとしては、ラテンアメリカにおける帝国の歴史をご覧下さい。ハイチの背景についてはここここを、今回のクーデターについての簡単な整理とアリスティドの声明はここを、アリスティドへのインタビューはここをご覧下さい。また、ポルトープランスからの声については、ここをご覧下さい。

イラク派兵について、色々な情報(へのリンク)がwww.creative.co.jpにアップされます。日本国内では、反戦のビラを自衛隊宿舎に配った人たちが逮捕されるなど、憲法を無視して踏みにじって侵略戦争への荷担に自衛隊を派遣したことから当然予測されたような、市民的自由への弾圧が進行しています(この人々は、アムネスティにより、「良心の囚人」と認定されました。その意味するところは、大きなものに思います。

イラク占領の米軍が5日、攻撃ヘリコプターでバグダッド北部シュラ地区にあるシーア派の占領反対強硬派指導者ムクタダ・サドル師の民兵組織「マハディ軍」の拠点を空爆したそうです。「復興支援」というのは、こういうことを言うのでしょうか。

ハイチの「新秩序」がその真の姿を現すまでに、さほど時間はかからなかった。アリスティド大統領が国を「立ち去って」亡命した翌日、ドミニカン・グルポ/M社が運営するウアナミント衣料工場で働く34名の労働組合員が解雇された。その翌朝には、600名強の労働者がストライキを決定すると、武装した一団が暴力的な襲撃に出た。労働組合員の中には手錠をはめられた者もおり、また、多くが殴られ、工場の中にむりやり押し返された。

攻撃者たちは、いわゆる「反乱部隊」のメンバーで、ジャン・ベルトラン・アリスティド大統領の政府に対して勝利を収めたばかりであった。攻撃者たちは、雇用者により工場に来ることを求められたと言っている。「問題を引き起こす」労働者に対処するために。

多くのハイチの町と同様、ウアナミントでも、反乱部隊が警察を乗っ取った。指導者たちは、自分たちは旧ハイチ軍FAD’Hのメンバーであると述べている。1995年にアリスティドが解散した部隊である。ギ・フィリップやジルベール・ドラゴンといった者たちは、エクアドルで米国から訓練を受け、ハイチに戻って1990年代半ばに新しいハイチ警察の上級の地位についた。

アリスティドの前任者であるルネ・プルヴァルが、2000年10月、これらの者たちによるクーデター計画に気付いたとき、フィリップやドラゴンなど数名の警察士官たちは、隣のドミニカ共和国に逃げ出した。そこで陰謀を続け、ポール・アルスランやジャン・バプティスト・ジョセフといったハイチの反対派や、ルイ・シャンブレンのような元FAD’H死の部隊RAPHのメンバーと会っていた。

2003年を通して、フィリップやドラゴンたち配下の者たちは、ドミニカ共和国との国境に近い地域で低強度反乱を続け、それにより約30名の死者が出ている。2004年2月、この作戦は突如として大規模になり、数週間で、武装反乱部隊がアリスティドを追放した。反乱部隊の指導者ギ・フィリップは首都ポルトープランスで誇らしげに「私がボスである」と宣言した。何を意味するか問われ、フィリップは「軍のボスだ」と答えた。

反乱部隊が、反アリスティド抗議運動を率いたグループ184を主導するビジネスマンたちにどう関係しているか詳細はわかっていないが、反乱の武装分子と非武装分子が密接に関係を持って行動していたことははっきりしている。

3月上旬、ポルトープランスのダウンタウンが略奪者により包囲されたとき、商工会議所の代表でありグループ184の中心人物であるモーリス・ラフォーチュンは、フィリップとその部下に、治安回復を求めた。搾取工場を所有するもう一人のグループ184の中心人物シャルル・アンリ・ベーカーは、「解放者たち」への賞賛をほとんど隠さず、「暴徒」からビジネスを守るために軍が必要であると語った。米国のお気に入りエバンス・ポールを含む政党の指導者たちは、フィリップをはじめとする反乱部隊の指導者たちと友好的な会話を行なっている。

アムネスティ・インターナショナルは、有罪判決を受けたシャンブレンやゴナイーブスのFRAPH指導者ジャン・タトゥーヌといった者たちが政治的な影響力を持っていることに抗議している。「過去に侵害を犯したものたちが指導的立場に付くべきでは決してない」と。

米国は、移行に際し、既存の権力構造を維持しようとしている。フィリップは、米軍介入部隊の上級士官から戒めを受けた後、速やかに、部下たちは武器を棄てると発表した。数日後、アリスティドの国外退去を祝うデモ参加者が殺された際、フィリップは「すぐに私は兵士たちに再び武器を取るよう命ぜざるを得なくなるだろう」と語った。

ハイチで暴力と不安定状態が続けば、FAD’Hを再建する圧力は増大するだろう。「平和維持部隊」を送っている外国政府は、できるだけ早く部隊を撤退させたがっており、暫定政権を統制する諸政党は、自分たちを政権の座につけてくれた部隊の恩恵を受けている。

舞台裏で、ハイチのわずかなエリート層、とりわけ政党に資金提供している組立工場部門のビジネスマンたちは、FAD’Hを再建して、既成秩序を守ってもらいたいと思っている。米国が1915年から34年までハイチを占領した際にハイチ軍を創設して以来、ずっとそうしてきたのである。

チャールズ・アーサーはハイチ支援グループの連帯代表で、「Haiti in Focus; a guide to the people, politics and culture」の著者。

ハイチへの人道支援を行なっている団体の方から、概略、次のようなメールをいただきました。すなわち、『自分は立場上「ハイチの人がどう感じているか」という視点で今回の政変を見守っている、ハイチの人たちが分裂しているように、メディアも分裂しており、どちらも一方的な情報しか伝えていないように思える、あなたのページは情報が豊富だが、アリスティドの落ち度に関する情報が見かけられないのはなぜか。もし意図的にアリスティドを批判する声を省いているならば、読者の方はハイチの人々の声を理解せぬままこの政変を見るだろう、今回の政変はたくさんの要因が複雑にからみあっていると思うが、「アリスティドが国民の信頼・支持を失っていた」という背景なしに今回の政変を語るのは一方的ではないか。基本線ではあなたの意見に賛成だが、ただしギャングに武器を渡して市民を弾圧したり、政府に批判的なジャーナリストを暗殺するような大統領を擁護するべきかと問われれば、擁護するべきではないと答えると思う。』・・・・・・こういった主旨のコメントでした。

私の返事の概略を以下にあげます。
アリスティドの落ち度に関する情報が見かけられないのはなぜ:おおきく二点あります。一つは、日本の大手メディアでもそれは書かれていること。もう一つは、現在ハイチで起きている事態をめぐる認識とは無関係であること。情報のバランスと受容、メディア・リテラシーをめぐる評価関数の最適化の観点から、今回の事態をめぐる認識に関してアリスティドの落ち度を出してバランスをとることには、貢献度がないと考えるからです。

たとえば、私は「テロにも戦争にも反対」とは言いません。そう言ったとしても、テロと戦争を無くすために、自分が、日本語で発言することによって無くすための回路を明晰にするためには、意味がないと判断するからです。むろん「テロにも戦争にも反対」と主張するグループの様々な活動の多くには敬意を持っていますし、そうしたグループが主催するピースパレードにも参加しますし、「テロにも戦争にも反対」ということが問題だとは言いません(問題だと指摘することにも、現状では貢献がないと判断するからです)。

意識と認識は違います。他者へ伝えるときに、事実関係に依拠して自分の意識において「バランス」を取っていると信じることと、受け取る人々が置かれている情報関係に依拠して「バランス」を実際に取ることとは違います。私は、「事実関係に依拠してバランスをとっている」という自己意識を遵守することを自分に対して評価しません。また、自分の発言が、自分の頭の中にある、ある理想的な状況において有意味であると思うことは、他人に伝える状況で有意味であるということを保証するものではないと判断します。

人が、私のページの情報からだけ情報を得ていると、考えてはいません。ですから、私が、自分が知っていることに対してバランスを取って他人に伝えているという自己意識は、他人のメディア・エクスポジャにおいて、バランスを取って受容し判断することにつながるかどうかの認識とはまったく別のことだと思っています[この認識はそれなりに妥当である場合も誤っている場合もあるでしょう。けれども、伝えるということは、そういうことだと思います]。

常に、人は情報を取捨選択します。自分一人の生活について説明しようとしても、言葉は離散系で体験は連続ですから、濃度が決定的に違います。0から1のあいだにある実数の数(濃度)は、無限の自然数よりも多いのです。それゆえ、選択とレベル分け、何がメディアの言説で問題となっているか、こうしたことについて、必然的に選択する必要があります。

ですから、私のページは、「フェアな事実関係」(しかしこのフェアさを支える公共化されうる関数系を、「フェア」さを主張する人から聞いたことが、実は私はありません)を伝えることを目的としていません(最初のページに書いてある通りです)。そのような「フェア」という意識自身、意識がその上に依拠している歴史の経緯に束縛されたものだと認識していることが、そもそもこのページを開いた一つの動機ですから(私が知っている限り、NHKに勤める人の少なからぬ部分は自分がフェアであるという「自己意識」を持っています)。「フェア」という意識自身、そうした歴史の経緯への束縛を見ない、自己内的な意識において、そしてほとんどの場合、その意識のみにおいて、妥当するだけのものになってしまうのではないか、との懐疑がありますから。

XXさんが「一方的」かどうかを語るとき、「一方的」であることを評価する関数を構成する背景と受容対象は、どのようになっているのでしょうか?

「アリスティドが国民の信頼・支持を失っていた」ということが、立憲民主制に対するクーデターという出来事に対する解釈の需要関数の値にどう影響を与えるのでしょうか?一部の情報を「意識的に落とす」ことをしないという自己意識を維持することができるような認識と世界の構造はいかなるものになるのでしょうか?

[そして「国民」とは、誰でしょうか?]

まったく個人的な状況で、アリスティドを支持するかしないか、というと、私は別に支持しません。けれども、そのように私が表明することが、日本語で情報を書くときに当然想定される受容層と受容の構図の中で、今回の出来事を認識するために、何かを意味するとも考えません。

しつこくなっちゃいますが、私は、自己意識における「バランス」よりも、(可能な限り数学的・形式的な)認識における関数の均衡を考えることの方が、情報の提供を考える際には適切だと思っています。むろん、一つ一つについて評価関数を厳密にたてるわけではありませんが。

今回のことをめぐっては、私は次のように状況を認識しています。

認識されるべきレベル:立憲君主制と選挙で選出された役割。このレベルでは、アリスティドもフィリップもアンディ・アペドも関係ありません。これは制度の問題で、今回の出来事をめぐって、ほかの要因がないとするならば、これのみが重要だと思っています。ですから、情報の提供は、基本的にこのレベルでの構造を明らかにするようなものを中心とすることになります。この中で、国際的な構図は、一つ示すべき事と考えています。

外部的要因:メディアでは、問題が、立憲君主制と選挙で選出された役割をめぐるものではないかのようにとらえられていること。

外部的要因:ギ・フィリップ等の固有名が、民主主義という名前とともに登場すること。

外部的要因:アリスティドの黒人主義レトリック等が少なからず紹介されること。

外部的要因:主流メディアでは、政治家が語ること。けれども、語る政治家は、なぜか、米国の政治家が多いこと。

本来的に、外部的要因がなければ、アリスティドがどうであるか(好意的なエピソードも逆のものも、あらゆることが)?ということ自体、認識されるべきレベルで果たすべき役割はない、と私は思います。そして、外部的要因を考慮するならば、アリスティドの声を伝えることは、意味があると判断します。一方で、アリスティド批判は、大手メディアがやってくれていますから。

ですから、アリスティドの落ち度に関して、「意識的に落としている」のではありません。全体として、ハイチをめぐる情報紹介を私がするならば、アリスティドの問題については紹介する場所がないようなかたちで、出来事と受容の構造とを認識している、ということです。あるいは、そのようなかたちで出来事を認識することが、今回の出来事の認識において必要であると判断した、ということです。

なお、「今回の政変はたくさんの要因が複雑にからみあっていると思います」と言うところで、私は、いつも「それは複雑で」というところで止まってしまう発言には懐疑的です。というのも、

(1) それ以上言葉に出来ないくらい複雑ならば、本来、そのような複雑さの前では、いかなる判断もできないはず、

(2) 一方で何らかの判断をしているならば、そこには認識の枠組みがあり、それは人間の認識能力の処理範囲内に入っているはず、したがって、複雑で、というに留まらず、その複雑さを要因に分解し、その関係を整理し、他者との対話の中できちんと呈示できるはず

という可能性の中で、ただ「複雑だ」とだけ言ってそれ以上進まないことは、どこにも位置づけを持たないように思えるからです。

ですから、できれば教えていただきたいのですが、

具体的に、どのような要因がどのように絡み合っているのですか?要因は可算で、有限ですか? たとえば2月までで事態を切断したとして、「たくさんの要因」は有限に数え上げ可能ですか? 

そのうち、日本の通常のメディアでは何が落ちていると思いますか?日本でそれらの要因を把握するにあたって、全体の背景、一般的なこの出来事の需要状況の中で落ちているのは何だとお考えですか?

私は、概念の理論負荷性を、その強いかたちで信じてはいません。けれども、「たくさんの要因」の中で、「この情報」が重要であるという判断を行なった評価関数を、最低限、リスト化するかたちで呈示されずに、「これが重要だ」という主張に関しては、建設的な議論は成り立たない、と考える程度には、認識の体系を最低限の粒度で呈示することは大切だと考えます。

そして、今回のXXさんのメールからは、その部分はわかりませんでした。そこで、よろしければ、XXさんは私へのメールで見解したような立場を取ることで、どのような認識のレベルを設定し、どのような認識を開こうとしているのか、それに対して、考慮されるべき外部要因についてどうお考えになっているのか、ご説明いただけませんでしょうか(私に対して、であっても、HP等で一般に公開して、でもどちらでも)。
何だか、いろいろごちゃごちゃ書いていますが、基本的には、自分が伝えようとする出来事をめぐって仮に誠実であろうと意識しても、それは伝えようとする出来事に対してその情報を受け取った人がそれなりに妥当な認識をすることには、直接はつながらない(自己意識なんか、犬も食わない)。そのような前提で、私は、記事を紹介したりものを書いたりするときに、出来事とそれを伝えることの位置づけを認識しようとしているし、それは、「事実を伝える」という無批判に適用されるならば概ね誤ったものになってしまう主張とは、頻繁に対立する、というようなことを言いたかったのでした。

このやりとりから3週間近く立ちましたが、XXさんからは、残念ながら、お返事をいただけませんでした。メールでのやりとり、というのは難しいものです。
2004年4月7日

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