ハイチ:2004年クーデター

MADRE背景説明からの要約
アリスティド3月6日声明


2004年2月のハイチ・クーデターを機に、ハイチの最近の背景をハイチ背景:1986年〜1994年及びハイチ:米軍協賛のクーデター? として紹介しました。

それを次いで、ここでは今回のクーデターの直接の経緯と、「亡命」した(追放された)アリスティド大統領の世界へ向けた声明とを紹介します。これまでの2つの背景説明と比べて、今度は、簡潔です。

ハイチの歴史年表については、ハイチ年表(力作です)を、ラテンアメリカに対する米国の介入について多少整理し分析したものとしては、ラテンアメリカにおける帝国の歴史をご覧下さい。

イラク派兵について、色々な情報(へのリンク)がwww.creative.co.jpにアップされます。また、3月20日ピースパレードが予定されています。日本国内では、反戦のビラを自衛隊宿舎に配った人たちが逮捕されるなど、憲法を無視して踏みにじって侵略戦争への荷担に自衛隊を派遣したことから当然予測されたような、市民的自由への弾圧が進行しています。さらに、大学入試センターに出題された「強制連行」問題をめぐって、自民党議員等が不当な振舞いに出ています(簡潔なまとめとしてはpublicityを参照して下さい)。

MADRE背景説明の要約

今回のクーデター前、2000年以来、ハイチでは政治的危機が醸成されていた。2004年2月、ジャン・ベルトラン・アリスティド大統領追放を狙う武装グループがハイチの町々を襲撃し数十名以上の人々を殺し、2月29日、アリスティド大統領は国外に脱出した。町々は現在、元準軍組織のメンバーからなる犯罪ギャングの手にあり、そのもとで人々の安全が心配されている。というのも、ギャングたちは道路封鎖をしたり電話連絡を切断したり、刑務所を開放したり、食料援助のコンボイを阻止しているからである。

2000年---ジョージ・ブッシュが米国大統領の座を盗み取ったと同じ年---、ハイチは全国の7500のポストをめぐる選挙を行なった。選挙監視者は、上院議員議席7議席の当選者について、その正当性に疑問を呈した。アリスティド大統領は当初それを否定したが、その後それを認め、7名の上院議員は辞職した。アリスティドの進歩的経済アジェンダに常々反対していたハイチのエリートたちは、この論争を、アリスティド政府を倒す機会として捕らえた。

2001年以来、ハイチにいる人権活動家や人道ワーカたちは、反アリスティド自警団が、国営発電所、診療所や警察、政府の車両を襲撃し、政府職員やそばにいた人を殺す事件を多数報告してきた。米国政府は、こうした殺害をまったく非難しなかった。

2004年1月、反対派は抗議行動をエスカレートさせた。いくつかのデモでは、ハイチの貧困層を代表する政府支持者たちが、反対派を襲撃した。このときになって始めて、米国国務長官コリン・パウエルは、一方的に「戦闘的アリスティド支持者」を非難する発表をした。

反アリスティド勢力というのは、ベネスエラの反チャペス「勢力」と同様、まったくの少数派である(2000年の世論調査では、8%に過ぎない)。民主的選挙で勝つチャンスがまったくないため、反対派は政治的危機を醸し出す暴力的手段に訴えて政府を転覆しようとしてきた。国際的なビジネスとのリンク、とりわけ企業メディアを使って、反対派は、自らがハイチにおける民主主義の真のチャンピオンであるというイメージを作り出してきた。

ハイチを制圧しているギャングたちは、伝えられるところによると、米国製M−16で武装しているという。これは、米国政府が最近ドミニカ共和国に送ったものである。ギャングたちは、ブッシュ政権が資金援助している民主コンバージェンスやG−184といったグループと直接関係をもっている。西半球問題委員会(Council on Hemispheric Affairs)によると、反アリスティド派の「唯一の政策目標は、軍の再建と厳しい構造調整プログラムの適用である」。

民主コンバージェンスは元FRAPHの準軍組織指導者(CIAの訓練を受け資金を受けたFRAPHは1991年クーデターでアリスティドを追放し、その後の4年間に5000人の民間人を殺した)に率いられ、ハイチのエリート層および米国民主主義資金(NED)と国際共和研究所(IRI)を通して米国共和党が支持している[2001年2月2日のワシントン・ポスト紙記事には、民主コンバージェンスがIRIから支援を得ているとある。IRIについては米国民主党に近い民主主義促進の組織(ママ)とあるが]。

G−184はデュバリエ支持者の米国市民アンディ・アペド(ハイチのパスポートをハイチで生まれたと偽ってごまかして入手した人物)を代表年ている。アペドはハイチに15の工場を有し、アリスティドが2003年に行なった最低賃金引き上げキャンペーンに反対した中心人物である(一日1ドル60セントの最低賃金は10年前よりも低い)。

米国は、ハイチの政治的難局の解決に際し、いちいち全てについて、こうした反アリスティド勢力を含めることを要求することで、反アリスティド勢力を勢いづけてきた。反対派がハイチの政治的窮状を維持し続ける一方、米国の経済封鎖はハイチの経済的困窮を確実なものとした。反アリスティド派は、これらによって、民主的な選挙では達成できないアリスティド追放という目的を達成しようとしたのである。

ハイチで何が起きているかがわかりにくい理由はいくつかある。

1.メディアの操作

反対派はメディアでアリスティドが専制的であり反対派は民主的な自由の戦士であるというイメージを作り出した。例えば、国際メディアは、反アリスティド派を、デュバリエ独裁を転覆した運動になぞらえるような報道を行なった。ハイチ政府は政府支持者による反対派への暴力を批判したが、国際メディアはそれを取り上げなかった。

ハイチに関するニュースの多くは、ロイターやAPといった大通信社のものである。これら通信社は、ハイチのエリートが所有する、ラジオ・メトロポルやテレハイチ、ラジオ・カリベ、ラジオ・ビジョン2000、ラジオ・キスキヤといったメディアを情報源としている。これらメディアは、反アリスティド派が所有している。例えば、アンディ・アペドはテレハイチを所有している。

2.米国の二枚舌

ブッシュは米国永年の伝統である、一方で民主主義を尊重するとかたりながら他方で非民主的な親ビジネス勢力を支援するという二枚舌を使っている。米国は反アリスティド派に選挙に参加しないよう奨励し、同時に、ハイチの選挙は反対派が参加したときに始めて正当なものと見なすと宣言している。

パウエルは米国はハイチの体制変更に関心がないといいながら、米国政府はメディアの情報操作キャンペーンを支持し、ハイチの貧しい人々に餓えと病気を悪化させる経済封鎖を維持しながら、何十人もの人々を既に殺してきた武装ギャングのスポンサーを支援している。米国はデュバリエ独裁を長い間支持してきた。アリスティドが民主的選挙で1990年大統領に選ばれたとき、米国はクーデター実行者たちを支持した。1994年人々の圧力とハイチ難民の処置に困ったクリントンは嫌々ながらアリスティドを復帰させる介入「ショー」を上演した。

共和党はこの介入に反対していた。1995年共和党が議会で多数派となったとき、ハイチに対する米国の援助をキャンセルさせ、アリスティドに反対するハイチのNGOに資金を割り当てた。2000年、米国共和党ハ、ハイチの選挙をめぐる論争を、アリスティドの信憑性を失わせるキャンペーンに利用した。ブッシュ政権は汎米開発銀行に圧力を欠けて、ハイチに対する開発援助と承認された貸付6500万ドル以上をキャンセルさせた---この金は、安全な飲み水と識字プログラム、保健サービスに用いられる予定だった。不正の批判を浴びた7人の上院議員が辞任してからも、ずっと経済封鎖は続けられた。

アリスティドはどうだったか? 米国は、アリスティドがネオリベラル経済政策に従うという条件で彼を復帰させた。アリスティドは米国の要求の一部に従い、米国産米の完全を引き下げて何千人ものハイチ農民を破産に追い込み、食べていくことができるよりも低い最低賃金を維持した。けれども、国営資源の私営化に対してアリスティドは抵抗した。彼の支持層から抗議があり、また富の源に対する統制を諦めたくなかったからである。

さらにアリスティドは最低賃金を二倍にし、経済封鎖にもかかわらず教育と保険を優先項目とした。学校を建設し公立病院を改善し、新たなHIV試験センターと医師訓練プログラムを導入し、教科書と制服への補助金プログラムを導入し、学校給食と通学バスを拡大した。

アリスティドはネオリベラル政策を求める米国と、自らの進歩的経済アジェンダとの間でバランスを取って進もうとしたのである。そのため、彼は、自らの支持基盤の一部からの米・ハイチのエリートたちからも支持されなくなった。

アリスティドはまた、支持層が犯した人権侵害には目をつぶり、忠誠を誓うものに資格にかかわらず政府のポストを提供したことで批判されている(このパトロン体制は、ブッシュ政権が元CEOと企業ロビイストで政府ポストを埋めたよりも包括的であった)。

進歩的な人々はアリスティドを支持すべきだろうか? 現在の危機は、アリスティドを支持するかしないかをめぐるものではなく、立憲民主制を守るかどうかに関するものである。民主主義のもとでは、最低限、自警暴力集団ではなく選挙が、「人々の意志」を計る基準であるべきである。アリスティドは繰り返し、反対派に選挙に参加するよう呼びかけてきたが、それを拒否したのは、選挙では勝てないと知っていた反対派である。

ハイチのちょっとした統計:

人口の1%がハイチの富の50%を支配する。

ヒューマン・デベロップメント・インデックスでハイチは173カ国中146位。

女性の平均寿命は52歳、男性は48歳。

成人の識字率は約50%。

失業率は約70%。

85%のハイチ人は一日1米ドル以下で生活している。

5歳以下の幼児死亡率でハイチは195カ国中第35位。

ハイチの反乱部隊は、ハイチ軍の再建を図ろうとしている。ハイチ軍は、もともと米軍占領下(1915年から34年)に創設されたものであり、ハイチのわずかなエリートたちを守るために作られたものであった。現在、デュバリエ独裁政権時代の人権侵害組織トントン・マクートと1990年から1994年の軍政下の準軍組織FRAPHが反乱部隊に参加している。また、民主コンバージェンスも、ハイチ軍の再建を支持してきた。

反乱部隊の指導者の一人ジャン・ピエール・バプティスト(ジャン・タトゥーヌ)は1985年デュバリエ独裁に対する反対者として名を知らしめた。その後、デュバリエ独裁に反対した人物として尊敬を受けていたが、1991年から94年にFRAPHの地方指導者として姿を現し、ロバトーでの虐殺を率いた。2000年にタトゥーヌは裁判で終身労働奉仕の判決を受けゴナイーブスの刑務所に入っていたが、2002年8月にそこから脱走。再び武器を取った。政府への反対・賛成を繰り返してきたが、2003年9月からは政府転覆勢力に合流。

また、ジャン=バプティスト・ジョセフは元ハイチ軍軍曹で、1995年にハイチ軍が解散された後はハイチ軍元兵士協会を代表。新デュバリエ主義者政党MDNにも関係したが、1996年8月17日、MDN党本部で政府転覆の陰謀を図ったとして逮捕された。その二日後、元ハイチ軍人と思われる20名ほどがポルトープランスの警察署に発砲し近くにいた一人を殺害。その後、2004年2月、反乱部隊の中で姿を現した。MDNは、民主コンバージェンスの中心メンバーの一つ。


アリスティドの声明:2004年3月6日

ジャン・ベルトラン・アリスティドがハイチの最後の瞬間について説明し、虐殺を阻止するよう呼びかける。

「私を追放することで、彼らは自由の幹を根元から倒したのだ。けれどもそれはまた育つだろう。その根は数多く、深く根付いているのだから」。私たち民族の先達トゥーサン・ルベルチュールのもと、私は宣言する。私を追放することで、彼らは平和の木の幹を根元から倒したが、その根はルベルチュール主義にあるのだから、再び育つだろうと。

ハイチの人々よ。中央アフリカ共和国の大地に立ち、アフリカから私の兄弟姉妹に呼びかける挨拶の最初に、私はこの言葉を贈ろう。この同じ言葉を今一度繰り返すことをお許しいただきたい。「私を追放することで、彼らは平和の木の幹を根元から倒したのだ」。2004年2月28日の夜、クーデターが起きた。これを地政学的誘拐と言うことも出来よう。私はこれを、外交の装いのもとでのテロリズムであると明言する。このクーデターと誘拐とは、25セント貨2枚と50セントを並べたようなものだ。

私はずっとこのクーデターの到来を批判してきたが、2月27日、まさに前日まで、この犯罪が誘拐を伴うとは予測していなかった。2月28日、その夜に突然、ポルトープランス全体に配備されていた米軍兵士がタバールの私の家に来て、最初に、ハイチ政府と接触のある全米国治安エージェントには、すぐさま出国して米国に行くか、戦って死ぬかの2つの選択肢しかないと私に告げた。第二に、彼らは私にハイチ政府が雇い2月29日に到着する予定だった25名の米国治安エージェントは現在足止めをくっており、来られないと言った。第三に、彼らは私に、外国人とハイチ人のテロリストたちは重武装して、既にポルトープランスに発砲する位置まで来ていると述べた。それから、アメリカ合州国人たちは、この武装集団は何千人もの人々を殺し、虐殺が起きるだろうと、まさにそう私に告げたのである。攻撃はまさに始まろうとしているし、最初の発砲がなされたならば何をもっても反乱部隊を止めることができず、政権奪取までは阻止できないだろう、その使命は私を生きていても死んでいても連れていくことだと。

そのとき、私はアメリカ合州国人たちに、私が何よりも気に掛けているのは、今夜、その何千人もの人々の命を救うことだと告げた。私自身の命について言えば、生きていようが死んでいようがそれほど重要ではない。私が外交手段を使おうとすればするほど、米国人たちが襲撃を開始する圧力は強まる。それにもかかわらず、私は、危険、虚勢、脅迫の度合いを測るために、デス・マシンの速度を緩める危険を犯した。

虚勢を張っているという以上に深刻なものだった。大統領宮は完全武装した白人に取り囲まれていた。タバール地区---住宅地---は完全武装した外国人に取り囲まれていた。ポルトープランス空港もそれらの者たちの統制のもとにあった。ポルトープランスのハイチ治安部隊責任者及び米国人治安担当と会談した際の最後の評価で、真実ははっきりしていた。我々は既に死体を地上に投げ捨て血を流し私を生きていようが死んでいようが誘拐する準備のある不法な外国の占領下にあるので、虐殺が起きるだろうというものだった。

会合が行われたのは午前3時だった。この悲劇を前にして私は訊ねた。「私が国外退去を決めれば虐殺は起こらないことを保証するのは何か?」と。

実際には、こうした外交的やりとりは全て無意味だった。というのも、誘拐作戦担当のこれら軍人たちは既に作戦が成功した、予定通り執り行ったと考えていたからである。この外交的やりとりも辞任手紙への強制的署名も、誘拐を隠蔽することはできない。

自宅から空港に行く間、至る所に殺人兵器で完全武装した米国軍人たちがいた。私を連れ去りにきた車列が空港の道路に近づいたとき、私を連れ去りにきた軍用機が空港に着陸した。我々が機内に入ったとき、行き先を知っているものは誰もいなかった。一度着陸したとき、それがどこか知っているものはいなかった。機内にいた一人は、米国治安エージェントの一人でハイチ人の妻を持つ人物の赤ん坊だった。彼らは降りることができなかった。4時間の間、どこにいるかわからずに過ごした。再び離陸した後も、どこに向かっているのか誰もわからなかった。

我々が到着する場所が中央アフリカ共和国であると公式に知らされたのは、着陸の20分前である。我々はフランス空軍基地に着陸したが、幸いにも、政府の5官僚が我々を歓迎するために待っていた。

我々が後にしたハイチでは苦しんでいる人々がおり、殺され、隠れている人々がいることを我々は知っている。けれどもまた、ハイチでは、ゲームを理解しながら諦めない人々がいることを知っている。というのも、諦めてしまえば、平和を見いだすかわりに死を見いだすことになるから。

だから、私は、命を愛する人々皆に、他の人々の命を守るために団結するようお願いする。虐殺を目にしたくない人全員に、血が流れ死体が転がるかわりに命が花咲くよう団結することをお願いする。10番目の州[海外]に住む全てのハイチの人々が、この誘拐の陰に隠されたこのクーデターの下に、どんな悲劇が隠されているか理解することができることを私は知っている。私もこうしたみんなも、連帯して立ち上がれば死の拡散を阻止し、生が広まる手助けができることを知っている。民主的に選出された一大統領に起きたと同じことは、どの国でも、いつでも起きうる。それだからこそ、生活と手を携える民主主義を守るための連帯が不可欠なのである。

憲法がこの生の基盤であり、生を保証する。連帯して憲法のもとに集結し、今目にしている死ではなく、生を育み平和が繁栄するようにしよう。勇気を、勇気を持とう。ファーストレディーとともにいるこの場所から、我々は、トゥーサン・ルベルチュールの言葉を忘れず、アフリカの全てに彼の言葉を贈り、あらゆるところにいるハイチの人々全てに、トゥーサン・ルベルチュールの精神を内に秘めた平和の木の根は生きているという信念を送る。クーデターがやったように山刀で木を切り倒すことはできるだろうが、平和の根を切り倒すことはできない。平和の根は、トゥーサン・ルベルチュールの精神をうちに秘め、再び育つだろう。



2004年3月8日

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