ウィリアム・ブルム著
キリング・ホープ 第55章より
2004年春、ハイチで、元独裁者パパ・ドックとベビー・ドック(デュバリエ親子)時代からのギャングたちが、選挙で選ばれたジャン・ベルトラン・アリスティド政権を転覆しようと武力展開をしていることはニュースで流れています。3月2日のBBCニュースでは、アリスティド大統領が軍に「誘拐」され中央アフリカ共和国に連れ去られたとの報道がなされました。米国は、表向きは選挙で選ばれた政権を尊重する態度を示してはいるものの、武装反乱ギャングへの武器援助などを行なっているとハイチ政府を代表する米国人弁護士は語っています。
ハイチは、元フランス植民地でフランスに莫大な富をもたらした地域であり、約200年前に独立した世界初の黒人中心の共和国。最近では、佐藤文則『ハイチ 圧政を生き抜く人々』(岩波フォト・ドキュメンタリー 世界の戦場から)で簡潔に紹介されていますが、日本ではあまり取り上げられることのない国です。女性の平均寿命が52歳、男性は48歳、失業率は70%、人口の1%が富の50%を所有する一方、85%のハイチ人が、一日1米ドル以下で暮らしています。
国際法違反の不法侵略・占領を行う米軍の支援のためにイラクに憲法違反の自衛隊派遣を日本政府が行なった状況で、他にも書いておきたいこと等は色々あるのですが、ここでは、あまり背景まで掘り下げられることのないニュースからハイチの事態を読み取る一助として、ウィリアム・ブルム著『希望の殺害』第55章「ハイチ」の章の粗訳を紹介することにしました。長くなりますが、ぜひお読み頂ければと思います。
ハイチの歴史年表については、ハイチ年表(力作です)を、ラテンアメリカに対する米国の介入について多少整理し分析したものとしては、ラテンアメリカにおける帝国の歴史をご覧下さい。
イラク派兵について、色々な情報(へのリンク)がwww.creative.co.jpにアップされます(見やすいので参考にしています)。また、3月20日ピースパレードがあります。
貧しい人々に食べ物をあげると、私は
聖人と呼ばれる。
貧しい人々には何故食べ物がないのか問うと、私は
共産主義者と呼ばれる。
ドン・ヘルダー・カマラ(ブラジルの大司教)
米国政府は以下の二つの選択肢があったとき、どちらを支援するだろうか。
(a)数千人を殺害し、体系的な拷問や広範にわたる強姦を行い、路上に手足を切り取られた遺体を残しておくといった犯罪を犯した軍の凶徒からなる全体主義的な集団か、
(b)合法的に選挙で大勝しながら凶徒たちに追放された非暴力の聖職者か?
ところで、その聖職者が「左派」だったらどうだろうか?
フランソワ・「パパ・ドック」・デュバリエ(一九五七年から一九七一年)と、ジャン−クロード・「ベビー・ドック」・デュバリエ(一九七一年から一九八六年)という、ともに「パパ」により終身大統領に指名された二代にわたるデュバリエ家独裁政権のもとで、米国は、ハイチの対ゲリラ部隊を訓練して武器を与えた。ただし、ハイチに対する米国の軍事援助のほとんどは、イスラエルを通して秘密裡に提供されたため、ワシントンは、残忍な政府を支援しているという困惑すべき問題を避けることができた。一九八六年二月、ジャン−クロードが亡命を余儀なくされたとき---彼は米国空軍のジェット機でフランスに逃れた---、ワシントンは公式の援助を再開した。そして、悲惨な状態に置かれたハイチの人々が、三〇年にわたるデュバリエイズムの終焉を祝っていたときに、米国は、その体制を別の新たな名前で維持することに専心していた。
ジャン−クロードがハイチを去ってから三週間のうちに、米国は、ハイチに二六六〇万ドルの経済・軍事援助を提供すると発表し、四月には、「ハイチをパトロールして秩序を維持するために、ハイチ軍にトラックと訓練、通信装置を提供するために必要な追加の四〇〇万ドルを求めていた」[1]。ハイチで「秩序を維持する」ことは、国内の弾圧と統制を意味する。そして、デュバリエの退位から一九八七年一一月に予定されていた選挙までの二一カ月の間に、あとを継いだハイチ政府は、ベビー・ドックが一五年間に生みだしたよりも多くの一般市民犠牲者を生みだしていた[2]。
この間、CIAは、デュバリエ時代にCIAが雇っていた者の二名を刑務所から釈放させ、海外で安全な亡命生活を送れるよう画策していた。この二人はともに悪名高い警察署長であったため、殺人と拷問の罪で死刑判決を受けることから逃れさせようとしていたのである。CIAはこうして、元拷問者たちに対する懲罰を熱心に求めるハイチの人々に反対する行動を取っていた[3]。九月に、ハイチ最大の労働組合の指導者であるイーブス・リシャールは、ワシントンが、予定されている選挙で左派の足を引っ張ろうと働きかけていると発表した。米国の援助組織が、地方の人々に、左派全体を同定し、それを「共産主義者」として拒絶するよう奨励していると彼は述べた[4]。改革と全面的な変化がハイチに根本的に求められていたことは明らかであった。ハイチは、過去においても、そして今も、西半球で最もよく知られた、経済的・医療的・政治的・司法上の・教育上の・そして環境上の破滅を抱えた存在である。
そして、このときには、ハイチの最も貧しいスラムに幅広い支持層を有し、デュバリエ時代に弾圧に反対して声を挙げた唯一の教会関係者としてカリスマ的な聖職者であったジャン−ベルトラン・アリスティドがいた。彼は、軍が支配する選挙を非難し、選挙プロセス全体を拒否するようハイチの人々に呼びかけていた。選挙キャンペーンにおける彼の活動は、米国の強い反感を買うものとして、十分に目立っていた。アリスティドは、後に、ロナルド・レーガンが自分を共産主義者と見なしたと書いている[5]。そして、米州問題担当国務次官補エリオット・アブラムズは、選挙キャンペーン期間中に、『タイム』誌に書いた手紙の中でアリスティドを攻撃し、ハイチ政府を賞賛するのが適切だと考えていた[6]。
アリスティドがハイチで名を知られるようになったのは、解放の神学の支持者としてであった。解放の神学は、キリストの教えを、貧しい人々を鼓吹し組織化し、弾圧に抵抗することと結びつけようとするものであった。CIAがアリスティドに反対しようとした理由を訊ねられた、上院諜報委員会の上級職員は次のように述べた。「解放の神学の支持者たちはCIAではあまり人気がない。恐らく、バチカンに次いで解放の神学を嫌っているのは、ラングリー〔CIA本部がある〕の人々であろう」。
アリスティドは、「軍こそが我々の第一の敵だ」と述べ、選挙ボイコットを呼びかけた。一方、CIAはといえば、一部の候補者に資金を与えていた。後に、CIAは、資金提供プログラムの目的はアリスティドに反対することではなく、「自由で開かれた選挙」を促すためだと述べた。この意味するところは、十分な資金を持たない候補者の一部を補助し、投票率を低めようというアリスティドの試み---それは「選挙の正当性を減ずる」ことになったろう---を阻害しようということであった。CIAがどの候補に資金を与えたかは知られていない。また、米国でも同様の状況が恒久的にあるにもかかわらず、何故、CIAと国務省---国務省が支援すべき候補を選んだらしい---が、ハイチでそのことを心配したのかは、分かっていない。
この作戦に直接関わっていた職員は、CIAが「一連の候補に一連の援助を与えることに関与していた」と述べた。アリスティドが有する相当の政治的人気に対抗することが、レーガン大統領と国家安全保障会議に承認されたCIAの関与を巡る唯一の論理的な説明であるように思われる。
上院諜報委員会が、ハイチでCIAは何を行なっていたのかそしてどの候補に資金を提供したか正確に知らせるよう求めたとき、CIAはそれを出し渋った。しばらくして、上院委員会は、秘密選挙活動を止めるよう命じた。同委員会で働いていた上級の情報筋によると、CIAのプログラムが停止させられたのは、「我々の中に、選挙の中立性を信じていた者もいたから」であった[7]。それにもかかわらず、実際にプログラムが停止されたかどうか確実には言うことはできない。
一九八七年一一月二九日に予定されていた選挙は、暴力により延期された。翌年一月に実施された選挙では、不正操作がなされたと多くの人々が見なした投票で、軍事政権が支持した候補が勝利を宣言した。この過程で、CIAは、選挙に影響を与えようとする試み---それは途中で中断された---に手を出していた[8]。
その後二年以上にわたって連綿と続いた政治暴力、クーデター計画、弾圧は、デュバリエ独裁の痕跡を消し去るほどの独裁を新たにもたらした。この状態は、一九九〇年三月、大規模な抗議行動によりプロスペ・アブリル将軍が退位を余儀なくされるまで続いた。その後を継いだ政府は、一種の文民政権であったが、軍が相当の支配力を維持していた。
米国は、自らの雇われ国家における「カオス」を好まなかった。支配にもビジネスにも不都合だし、誰がトップに来るかも予想できなかった。もしかすると、フィデル・カストロのような人物がもう一人出てくるかも知れなかったのである。米国がジャン−クロード・デュバリエに、フランス領リヴィエラで新たな闘いの生活に挑むときが来たと告げたのは、「大規模な国内蜂起」の危険を感じたからであった[9]。同様に混沌とした状況から、米国大使はアブリルに、引退の時だと告げた。再び、アンクル・サムは、この善良な将軍の亡命の足を無料で提供した[10]。
かくして、ポルトープランスの米国大使館は、ハイチの軍士官に圧力をかけて、新たな選挙を行うよう求めた。このときには、一九九〇年一二月に予定された選挙にアリスティドが立候補するとは、米国大使館もアリスティド自身も予想していなかった。とはいえ、当時、アリスティドは既に、バチカンの祝福のもとで教会の序列から追放されていた。というのも、様々な理由はあったが、とりわけ、彼が「憎悪と暴力を鼓吹し階級闘争を賛美した」ためである。たくさんのアリスティド信奉者や友人たちは、彼に立候補を勧めては果たせずに来ていた。この度は、ついに成功し、一〇月、アリスティドは、改革派の諸政党や組織の緩やかな連合の候補として立ったのである[11]。
選挙の前夜、米国の元国連大使アンドリュー・ヤングがアリスティドを訪問し、米国が後押しし資金を与えた候補マルク・バザンが勝利を収めたときには彼を大統領と認める手紙に署名するよう求めた。ヤングは、アリスティドが敗北すると、支持者たちが路上に出て選挙結果を拒否する恐れがあったと述べたことが報じられている[12]。ヤングは、自分の恩師であるジミー・カーター元大統領のために行動したと言われたが、恐らくは、ホワイトハウスも現状を正確に把握しており、アリスティドの指導者としてのカリスマと潜在能力が自分たちの手に余ることをはっきり示していた。
キャンペーンはテロと脅迫に妨害されたが、一〇〇〇名からなる国連と米州機構(OAS)の選挙監視員と常ならず慎重なハイチの将軍が、ある程度公平な投票が行われることを保証し、その結果、アリスティドが、六七・五%の票を得て勝利した。国際選挙監視員を勤めたある米国人ハイチ研究者は、「人々が、一〇人のどちらかといえばブルジョア候補ではなく彼を選んだのは」、「これまでのやり方に対して、彼がはっきりと妥協なしに反対したためである」と説明した[13]。実際、大衆的な支持基盤だけでなく、進歩的なブルジョアもアリスティド支持に回った。
直後の一九九一年一月のクーデター計画を乗り越えた聖職者大統領アリスティドは、二月に政権の座に就いた。六月に、ワシントン・ポスト紙は次のように報じている。
「政治革命」を主張する三七歳のアリスティドは、政府の仕事に希望と誠実さの精神を注入した。デュバリエ家の独裁及びその後の一連の軍事独裁政権下における何十年と続いてきた公式の金権政治とは、全く異なっていた。月額一万ドルの自分の給与を「スキャンダルであるだけでなく犯罪である」と宣言したアリスティドは、テレビで、自分の給料を慈善活動に寄付すると発表した[14]。
このカトリック聖職者アリスティドは、かなり以前から、米国外交政策に対する辛辣な批判者でもあった。米国政府がデュバリエ王朝とハイチ軍を支持していたためである。彼はまた、「援助」は裕福な人々の懐に入ることになるとして、これに懐疑的であった。「一九八〇年以来、援助額は年間二億ドルにも達するが、まさにこの一〇年間に、ハイチの一人当たりの富は四〇%も減少した!」[15]
アリスティドは詳細な経済政策を発表していなかったが、富の再分配が必要であることははっきりさせており、また、市場制の美徳よりも経済的正義について語った。後に彼は、次のように書いている。
しばしば、私は、政策がない、あるいは少なくとも政策が精密でないと批判を浴びた。時間がなかったからだったろうか?---粗雑な言い訳である。〔・・・・・・〕実際のところ、人々は自らの政策を持っていた。〔・・・・・・〕尊厳、透明な簡潔さ、参加である。これら三つの考えは、政治的・経済的領域に対してと同様に、道徳的領域にも上手く適用することができた。〔・・・・・・〕ブルジョアたちは、自らの利益のためにはある程度の譲歩が必要となることを理解することができるべきだった。我々は一七八九年を再現した。ブルジョアたちは、消極的に抵抗することで、腹を空かせた人々を、もっと急進的な手段に追い立てたかったのだろうか?[16]
ハイチには強力な伝統的左派が存在しないことに妨げられ、また、憲法上、大統領よりも強い権力を持っていながら麻痺した議会に反対されて、アリスティドは、法律を全く発効することが出来なかった。しかしながら、彼は、識字や公共保健、農地改革政策を開始し、日給の増加を急ぎ---しばしば三ドルに満たなかった---、生活必需品価格を凍結し、雇用創生のための公共事業政策を行なった。彼はまた、準軍組織のギャングたちの中心人物を多数逮捕して人々の安全感を高め、軍が小農民の生活を自由に支配するための主な道具となっていた地方長官(シェリフ)機構の解体に乗り出した。
大統領としての彼は、多くの者たちが予測したような妥協しない革命煽動者ではなかったが、腐敗を批判して、しばしば裕福なビジネス階級や議会、軍を怒らせた。とりわけ、軍は、麻薬密輸と運搬ビジネスに反対するとともに軍を非政治化しようとする彼の政策に苛立った。裕福な民間人---あるいはより知られた言葉で言うと、道徳的に不快なエリート---はと言えば、税金を払ったり、雇用を創生し海外でではなく国内で再投資を行うことで自分の収穫を分け合うことについてはあまり気にかけていなかった。彼らは、現在もそうであるが、このアリスティドという小さな聖人のように話す聖職者と彼の貧者への愛(ウェップ)に、まさに卒倒を起こさんばかりだった。
しかしながら、実際のところ、アリスティド政権は、反ビジネスではなかった。彼は、努めて、米国人政府関係者や海外の資本家、ハイチ軍の一部分子とうち解けようとした。アリスティドはまた、二〇〇〇人の政府職員を解雇して、国際通貨基金(IMF)と海外投資家を喜ばせたが、彼自身、これらの職は、ほとんど無用で腐敗した官僚的詰め物と見なしていた[17]。
ジャン−ベルトラン・アリスティドは、ハイチ大統領として就任してから八カ月と経たない一九九一年の九月二九日、軍事クーデターにより追放された。このクーデターでは、彼の支持者が何百人も虐殺され、さらに数千人がドミニカ共和国にあるいは海路でハイチから逃亡した。過去数年間、数度にわたる重大な暗殺未遂や彼の説教中の教会への放火などを生き延びてきた華奢なハイチ大統領アリスティドは、今度は、フランス大使の介入によって助けられた。
クーデターは、むろん、裕福なエリートたちに支えられていたが、新たな軍事政権を承認したのはバチカンだけだった。クーデターの中心人物で新たに警察長官となったジョセフ・ミシェル・フランソワは、「我々が彼らを救ったので」「彼らは我々を大いに助けてくれた」と述べている[18]。
このクーデターに米国が関与しているという証拠は出てこなかった。とはいえ、後で見るように、CIAは新たな軍事政権の重要人物全員に資金と訓練を与えていたし、クーデターを支持するあるハイチ政府関係者は、米国諜報オフィサたちが、クーデターが起きているときに軍本部にいたと述べた。ただし彼は、CIAとDIA(国防情報局)は軍本部に常駐していたのだからそれは「当たり前」のことだとも付け加えた[19]。
ニアラグアの章[第四九章]で、我々は、米国民主主義基金(NED)---CIAが秘密裡に行なっていたことを、あからさまに、それゆえより「上品に」行うために設置された---が、一九九〇年のニカラグア選挙に介入したことを見てきた。同じ時に、NEDは、米国国際開発局(USAID)とともに、ハイチでも忙しく活動していた。NEDは様々な市民団体に一八万九〇〇〇ドルを与えた。この中には、ジャン・ジャック・オノラ率いる「ハイチ権利と自由防衛センター」も含まれていた。アリスティドが追放されてまもなく、オノラはクーデター政府の首相となった。一九九三年、カナダ放送協会とのインタビューで、オノラは、「アリスティドの人権レコードを考えれば、クーデターは正当化できる」と語った。アリスティド追放後の大規模な人権侵害に対して、首相として何をしたのかと訊ねられたオノラは、「私は書類を持ってきていない」と答えた。
クーデター前の数年、NEDはまた、ハイチ研究開発協会(IHRED)に五〇万ドル以上を与えていた。IHREDは、一九九〇年の選挙で、元世銀の重役であり米国お気に入りのマルク・バザンに味方し、彼を支持する連合を造り出す(ちょうどNEDが同年少し前にニカラグアで連合を造り出しサンディニスタを敗北させたように)という、非常に党派的な活動を行なった。IHREDを率いていたレオポルド・ベルランジェは、一九九三年、オノラの後継でベルランジェの政治的な仲間であるバザンが首相の座に就くことを認めさせるために行われた軍事政権のイカサマ選挙を支持した。
NEDの贈り物を受け取っていたもう一つの組織は、ラジオ・ソレイユだった。このラジオ局は、カトリック教会が、その時々の独裁者の気にさわらないように、運営していた。このラジオ局の元局長ユーゴ・トリエによると、一九九一年のクーデターのとき、ラジオ・ソレイユは、アリスティドのメッセージの放送を拒んだ。
NEDは、さらに、米国財務省の金を使って一九八四年にデュバリエの承認のもとで作られた労働組合連合に資金を提供した。これまで労働組合運動を弾圧してきたデュバリエがこの組織を承認したのは、当時米国が進めていたカリブ開発構想(CBI)の経済パッケージを受け取るためであった[20]。
けれども、米国民主主義基金は、その名前と絶え間ないレトリックにもかかわらず、アリスティドを支持する連合に参加していくこととなった草の根組織に対しては、一ドルたりとも資金を与えなかった。
アリスティドが追放されてから一週間のうちに、ブッシュ政権はアリスティドから距離を取り始め、「ハイチに民主主義が回復したとワシントンが感じるためには彼の政権復帰が前提条件だと発表することを拒否した」とニューヨーク・タイムズ紙は報じた。ブッシュは、この態度を採った公の理由として、アリスティドの人権レコードには疑問があると述べた。というのも、ビジネス経営者たちや議員をはじめとする反対派たちが、アリスティドは、自分たちを脅迫するために暴徒を利用し、また、その暴力を暗黙に容認していると非難したためである[21]。ハイチの貧しい人々の中には、裕福な者に暴力を振るったり、放火したりした者もいた。けれども、人生を通して被ってきた極端な弾圧について、こうした人々が、弾圧者と見なされた相手に対する復讐---永年にわたり待ち望んでいた復讐---を求めて怒り心頭に発していたことを考えると、それについてアリスティドを批判するのは、アリスティドの態度がどうだったにせよ、無理な誇張である。
一年後、ボストン・グローブ紙は、社説で、ブッシュ大統領の、「ハイチ民主主義に対する軽蔑は言語道断である。〔・・・・・・〕ハイチで進められている大虐殺を認めることを拒否したことで、ブッシュ政権は、反乱者たちに祝福を授けたことになる」と述べた[22]。
その二カ月前、議会での証言で、CIAのラテンアメリカ問題に関する著名なアナリストであるブライアン・レイテルは、クーデターの指導者ラウル・セドラ准将のことを、「一九八六年にデュバリエ家独裁が転覆して以来現れた、最も有望なハイチ指導者のグループ」の一人であると述べた。彼はまた、ハイチで「抑圧的な支配が行われているという証拠は何もない」と語った[23]。
けれども、同じ年の国務省年次人権報告は次のように述べている。
一九九二年を通して、ハイチの人々は、頻繁に人権侵害を受けてきた。治安部隊による超法規的処刑、失踪、拘留者や囚人に対する殴打をはじめとする虐待、恣意的逮捕と拘留、司法プロセスに対する政府の介入などである[24]。
ニューヨーク・タイムズ紙のクーデターから一年後の状況報告は非常に直裁である。
アリスティド政権転覆直後から---このとき、ジェームズ・ベーカー国務長官は、イラクに関するブッシュ大統領の「この侵略はもたない」という有名な言葉を繰り返した---、米国の力を使ってハイチにおける米国の原則をバックアップすることはほとんど検討されなかった。〔・・・・・・〕最近、〔クーデター政権の〕補佐官が、軍隊を追い払うためにはワシントンからの「電話一本で事足りる」というアリスティド神父が以前から言っていた批判と同じ言葉を繰り返した。〔・・・・・・〕アリスティド神父の支持者も反対者も同意していることであるが、クーデター直後に適用された、抜け穴だらけの非効率的な経済封鎖以上のことは〔・・・・・・〕何一つ真面目に検討されなかった。このことは、しばしば米国のことを悪の要塞と呼びハイチの問題の多くの根は米国にあるとする左寄りの民族主義者に対する、ワシントンの根深いためらいを示している。〔・・・・・・〕ハイチ軍の手は血塗れであるにもかかわらず、米国の外交官たちは、軍を、アリスティド神父---彼の階級闘争的なレトリックが〔・・・・・・〕内外の伝統的な権力中枢を脅かし怒らせたのだが---の重要な対抗勢力と見なしている[25]。
この間、ハイチの地下新聞は、ポルトープランスに、夜間、沢山の米空軍機が着陸していたことを報じていた。これが、漏れの多い経済封鎖と関係していたかどうかは決して分かることがないかも知れない。これについて訊かれたある米国大使館職員は、この飛行は「日常業務」であると答えた[26]。
CIAのクライアントたち
一.一九八〇年代半ばから、少なくとも一九九一年のクーデターまで、ハイチ軍と政府首脳の主要人物はCIAに雇われていた。この費用について、米国政府官僚と下院諜報委員会のある議員は、それが通常のものであり、外国の情報を収集するために必要であると擁護した[27]。CIAの賄賂を擁護するためにしばしば用いられるこの議論は、次のような(本書で繰り返し述べてきた)単純な事実を無視している。すなわち、CIAの支払いにより、情報だけではなく、影響力と統制力も手に入るということである。そして、CIAの賄賂を受け取っていた時期のハイチ軍の反民主性と残虐さのレベルを見るならば、一体、CIAの影響とはどのようなものか、疑問に思わざるを得ない。さらに、支払いを擁護する者たちが、もし冷戦期に、議員とホワイトハウスの高官たちがKGBに雇われていたとすると、どのように思ったかも疑問である。冷戦が終結した後でも、我々は、CIA職員オルドリッチ・エームズの事件に対する衝撃的な反応を考えるべきだろう。彼は、情報を提供することでKGBから金を受け取っていただけであった。いずれにせよ、CIAが、ハイチのこれらの者たち及び以下に述べるグループに支払った資金は、明らかに、殺人行為といった目的のために利用することができた。リビアのカダフィが同じことをしたとき、「テロ支援」と呼ばれた。
ハイチ指導者たちは、CIAに提供した情報の中でクーデターを事前に告知していただろうか?その証拠は現れていないが、四〇年にわたるCIAの振舞いを考えるならば、その可能性は著しく高い。そうであるとして、CIAはクーデターを阻止するために何かしただろうか?ベビー・ドックを含むハイチの権力者たちが昔から関与していた麻薬取引について知りながら、CIAは何をしただろうか?[28]
二.一九八六年、CIAはハイチに国家諜報サービス(SIN)という新しい組織を創設した。この部隊は、全員が、汚職にまみれがちで非専門的な部隊と広く見なされていたハイチ軍の士官から構成された。SINは、コカイン貿易と戦うために創設されたとのことであったが、SINの士官たち自身が取引に関与し、さらに、この取引は、同様にCIAに雇われていたハイチ政府高官の一部から支援を受けそそのかされていた。
SINは、政治的テロの道具として機能し、アリスティド神父支持者その他の「反抗的分子」を虐待して拷問にかけ、CIAの訓練と器具を利用してこうした人々をスパイした。つまり、SINは、過去数十年間に、CIAが世界中---ギリシャや韓国、イラン、ウルグアイなど---で創設した他の諜報サービスとほとんど同じだったのである。そして、ハイチでSINが作られた理由も、恐らくはこれまでと同様だった。すなわち、しかるべく訓練され装備を身につけた誠実な統制の手段をCIAが手にすることである。SINが年間五〇万ドルから一〇〇万ドル相当を、機材や訓練、財政支援のかたちで受け取っていたと同じ時期に、米国議会は、ハイチ軍の人権侵害を理由として、軍に対する一五〇万ドルの援助を提供しなかった。
アリスティドは、SINを解散しようとしたが、成功しなかった。CIAは、米国市民に、この組織の改革については米国が責任を持つと述べたが、それが活動を続けることについては、当然とされていた。それからクーデターが起きた。米国政府職員によれば、後にCIAはSINとの関係を絶ったが、一九九二年、米国麻薬取締局(DEA)のある文書は、現在形で、SINを、「しばしばCIAと共同で活動する対麻薬秘密諜報部門」と記述している。同年九月、ハイチにおけるDEAの活動により、ハイチ当局からコカインを巡り告発されていたあるSINの士官が逮捕されることになった[29]。
三.ハイチで最悪の人権侵害者集団の一つは、「ハイチの進歩と発展のための戦線」(FRAPH)だった。FRAPHは実際には軍のための前線だった。この準軍組織は、日常的な殺人や公開殴打、貧しい地域への放火、山刀による手足の切断などにより、ハイチの人々に深い恐怖を広めた。FRAPH指導者のエマニュエル・コンスタンは、一九九二年初頭にCIAに雇われた。CIAによると、この関係は一九九四年半ばに終わった。この主張が本当であるかどうかは別として、その一〇月には、今度はハイチの米国大使館が、公に、コンスタン---今や生まれ変わった民主主義者だったという---が米国大使館に雇われていることを認めた。
コンスタンによると、アリスティドが追放されてすぐ、米国国防情報局のパトリック・コリンズ大佐が、コンスタンを促して、アリスティドの運動に対抗し、それに対する諜報活動を行うための戦線を組織させたと言う。この結果、コンスタンは、一九九三年八月、後にFRAPHとなる組織を結成した。FRAPHのメンバーたちは、米国国際開発局(USAID)から資金提供を受けた二つの社会サービス機関で働いていたし、恐らくは今も働いている。その一つは、ハイチの貧民たちの運動に関する要注意ファイルを維持する機関だった。
コンスタン---彼はクリントン就任記念パーティーに招待されて参加したことを詳しく述べている---は、一九九三年一〇月一一日の港での騒ぎを組織した。この騒ぎにより、国連合意(以下を参照)にハイチ軍を従わせておくためにやってきた米軍兵士を運ぶ船を追い払った。このときコンスタンはCIAに雇われていた。けれども、この事件は、CIAの上げ底世界から取り出された出来事だったのかも知れない。ワシントンは本当に軍事政権に挑戦しようとしたのだろうか?あるいは、その<ふり>をしただけだろうか?実際、コンスタンは、事前に、米国に対し、起きる予定のことを告げていた。それから、彼はラジオ局に行き、全ての「愛国的なハイチ人民」に、埠頭での大規模デモに参加するよう求めたのである。米国は、その前もその後も、船を旋回させて逃げ出すこと以外何もしなかった[30]。
一九九三年夏、ニューヨークのガヴァナーズ・アイランドで、亡命してワシントンに暮らすアリスティドとハイチ軍政との間で国連仲介による会談が行われ、合意が締結された。この合意は、軍事政権の指導者であるセドラ将軍が一〇月一五日までに退位し、一〇月三〇日にアリスティドを大統領としてハイチに帰還させるというものであった。けれども、予定された日がやってきて過ぎ去っても軍は約束を守らず、アリスティドの支援者に対する攻撃を続けた。九月には、アリスティドの著名な親友が、教会から引きずり出され、国連職員たちの目の前で射殺された。さらに、その一カ月後には、アリスティドの司法大臣ギ・マラリーが暗殺された。
ニューヨークでの合意を確保した「外交の成功」に喜んだクリントン政権は、どうやら、いかなる非道も全て喜んで大目に見ていたようである。
けれども、セドラの補佐官は、後に、軍が交渉に同意したのは、「全てが目くらましだった。我々が望んだのは経済封鎖が解除されることだった。〔・・・・・・〕けれども、我々は、ガヴァナーズ・アイランドで実際に何かに合意する意図など全くなかった。それについては、今、誰の目にも明らかであろう。我々は、時間稼ぎをしていたのである」と述べている。
アリスティド自身も、自分に対してクーデターを行なった者たちに恩赦を与える国連の計画を決して好ましく思わなかった。彼は、米国が彼に圧力をかけて署名させたのだと発表した[31]。
一〇月上旬、議会に対して、CIA職員ブライアン・レイテル---彼は以前にセドラとセドラの支配を賞賛していた---は、アリスティドが精神的平衡を欠いていると決めつけた。もしかすると、これは、ハイチ軍のエージェントがCIAに提供した情報に含まれていた情報だったのだろうか(選挙キャンペーン期間中、ハイチでアリスティドを貶す者たちは、実際にアリスティドが精神的な病気であるという噂を流した[32])?レイテルは、さらに、アリスティドは「民主的原則にほとんど注意を払わず」、「ネックレシング」という手段で反対派を殺すよう支持者に訴えたと証言した。「ネックレシング」とは、犠牲者の首にガソリンをしみこませたタイヤを掛けて、火を付けるものである。レイテルをはじめとして、誰一人、アリスティドが明らかな挑発に関与していたという証拠を何も示さなかった。とはいえ、一九八六年にデュバリエを追放した後と同様、ハイチの大衆が復讐としてネックレシングをしなかったというわけではない。
同時に、議員たちは、アリスティドの診療歴を示すとされる文書を見せられていた。そこでは、彼が一九八〇年にカナダの精神病院で診療を受け、躁鬱病と診断され大量の薬を処方されたことになっていた。メディアはこの主張の出もとはCIAであると報じたが、CIAはそれを否定し、以前その文書を目にしたことはあるが、一部ないしは全部が偽物であると判断したと述べた。しかしながら、同時に、CIAは、今でも、アリスティドが恐らく不安定であるという一九九二年のアリスティドの心理プロフィールを信じていると述べた。
こうした主張をアリスティドと彼の報道官は否定した。また、カナダのその病院を調べた結果、アリスティドがその病院の患者であったという記録はないことがわかった。それにもかかわらず、議会内のアリスティド反対派は、米国の彼に対する支援を制限しようとする理由を手にすることとなった。こうした議員の中には、そんな指導者のために米国はハイチの巻き添えになるべきではないと論ずる者もいた[33]。
レイテルの報告をよく知るある政府職員は、「彼〔レイテル〕は、あたうる限り極めて単純で一方的なメッセージを造り上げた---殺人者、精神病質者というものである」と述べた[34](一九六〇年、アイゼンハワー政権は、パックス・アメリカーナに従わないもう一人の黒人指導者パトリス・ルムンバを、「不安定」、「不合理でほとんど精神異常」と述べていた[35]。ネルソン・マンデラも、反対派から、しばしば同じように言われた。こうした批判者の一部は、体制の秩序に度を超えて反対するのは異常さの印であると、本当に信じていたのかも知れない)。
クリントン大統領がハイチに対する軍事行動命令を出すのではないかと心配していた軍事政権は喜んだ。ある報道官は、「アリスティドに関する情報がCIAにいる我々の友人たちから公にされ、議会が彼の悪辣さについて話し始めた後、我々は、侵略の可能性は無くなったと理解した」と語った[36]。
クリントン政権は、公に、アリスティドの精神的健康に関する主張をはっきりと否定したものの、ハイチの軍指導者たちと交渉を進めた。この政策は、アリスティドの支持者たちを唖然とさせた。米国の元駐エルサルバドル大使でアリスティドの顧問を謝礼なしに務めていたロバート・ホワイトは、「どうやら、ハイチ軍の善意に対するクリントン政権の感動的信頼を揺るがすものは何もないようだ」と述べた。
アリスティドの支持者たちは、こうした信念は、米軍士官たちとハイチの最高司令官セドラ及びフランソワ警察長官との、遙か昔から今も続く関係を反映したものであると断言した。セドラもフランソワも米国で軍事訓練を受けていた。『タイム』誌は、「何人かのハイチの共犯者たちに対する米国の態度は、レトリックが示しているほど敵意あるものではない」と書いている[37]。
この態度について、人権法律家委員会は、次のようにコメントしている。
〔アリスティドが〕急進的な改革を語ることに対して、古くからの根深いアメリカの本能が目を覚ました。それは、冷戦期と冷戦後とにわたって無数の国で繰り返しされた、次のことだった。すなわち、怪しいときは、安定と秩序を制度的に保証する唯一のものとして軍に頼れ[38]。
実際、レーガンとブッシュの両政権は、「安定」と「秩序」を求めて軍に頼り、ハイチ軍が民主主義に誠心誠意献身していると繰り返し褒め称えた[39]。
クリントン政権も、前任者たちと同様に、ハイチに関しては偽善的だった。このことは、商務長官に、高給を受け取って極めて活発にベビー−ドック・デュバリエ擁護のロビイストとして活動していたロン・ブラウンを選んだことからもわかる[40]。ワシントンは、セドラがガヴァナーズ・アイランド合意を裏切り顔に泥を塗ったよりも、アリスティドが軍と連立政権を作ることに合意しなかったことを遙かに厄介に思っていたようである[41]。一九九四年二月には、ワシントンが、ハイチの軍関係者から身を離すよりも喜んでアリスティドと身を離すであろうことは公然の秘密となっていた。ロサンゼルス・タイムズ紙は次のように報じている。「公式には、〔米国は〕アリスティド復帰を支持していることになっている。けれども、裏では、多くの政府関係者が、アリスティドは〔・・・・・・〕政治的に急進的過ぎるので、軍とハイチの裕福なエリートたちは彼が権力の座に戻ることを決して認めないだろうと述べていた」[42]。
感情的にではないにせよ、イデオロギー的には、米国政府高官たちのアリスティドの政策に対する敵意は、ハイチ支配層のアリスティドに対する敵意に勝るとも劣らないものであった。さらに、軍事独裁政権がワシントンの目に好ましく映らなかった理由は、恐るべき人権侵害そのものにあるのではなく、ハイチで進められている弾圧により、何万人ものハイチ人が国を逃げ出したため、米国がそれに対処するための巨大な問題を抱えることとなり、カリブ海とフロリダのイメージを損ねることとなり、さらに、何億ドルもの費用がかかったためである。
米国政府とアリスティドの間の溝は、ウォーレン・クリストファー国務大臣が、ハイチ国会議員のグループ---彼はこのグループを「中道」と呼んだ---が、ある計画を提案したと発表したことで、さらに深まった。この計画は、クーデターを行なった軍人たちに恩赦を与え、また、アリスティドの反対派が受け入れることができるような閣僚を創設する役割を担う首相をアリスティドに任命させようと求めるものであった。この計画によれば、こうしたステップは、連立政権が樹立され、アリスティドの政権復帰に道を開くものであった。
これについて相談を全く受けていなかったアリスティドは、残忍な悪党たちが処罰を逃れ、アリスティドの復帰の期日について何の言及もなく、彼が権力の座に復帰できるかどうかについて何の保証もなく、政治的に両立し得ない首相や同類の閣僚たちと権力を分け合わねばならないという、この計画を、全面的に拒否した。
クリストファーは、ハイチに対する経済封鎖を強化するかどうかは、アリスティドがこの計画を受け入れるかどうかにかかっていると付け加えた。米国は、ハイチに対する制裁の強化については、ハイチの人々の苦痛を増大させることになるため、とても慎重である、と彼は述べた[43]。同じ時、国務省の主席ハイチ専門官マイケル・コザックは、「双方の過激派」がこの計画を台無しにしていると非難した。これに対して、ハイチのあるアリスティド支持者は、これは、「アリスティドと軍が道徳的に等価だとするものである。それにより、アリスティドは、殺人者たちと同じレベルに貶められた」と語っている[44]。
ブッシュ政権も、国連とOASを利用しながら、同じような提案や最後通告を、包囲されたアリスティドに対し、何度か繰り返していた。アリスティドがそれを受け入れなかったため、米国政府職員やメディアの一部は、彼に、「非妥協的」というレッテルを貼った[45]。
アリスティドがこの計画を拒絶したことについてよりよく理解するためには、恐らく、ワシントンが、マイアミのキューバ人亡命者たちに対して、キューバ帰還に関してワシントンの支援を得たければカストロ主義者と連立政権を作らなくてはいけないと主張したことがあるかどうか、あるいは、イラク亡命者に、サダム・フセインと共存しなくてはならないと主張したことがあるかどうか考えてみるのがよいだろう。さらに、左派や社会主義者は言うまでもなく、あからさまなリベラル左派も政府高官職には誰一人おらず、普通の純粋なリベラルさえ政権内にほとんどいないブッシュ政権とクリントン政権が、アリスティドに対し、「広い基盤に基づく」政府、あるいは「国民合意」政府を受け入れるよう繰り返し主張するのは皮肉なことである。また、米国の経済封鎖によりキューバの人々が大きな苦しみを被っていることがブッシュ・クリントン両政権に何の影響も与えていない点も注目に値する。
その後まもなく、「超党派ハイチ立法府計画」と名付けられたこの計画が実際には米国国務省メモに基づいて作られたものであることがわかった。さらに悪いことに、この計画に対するハイチ側からの意見は、警察長官フランソワ自身を含むアリスティド追放の支持者たちから提出されていた[46]。
さらに、一九九四年四月、ハイチの米国大使館が国務省に送った報告も、米国政府がアリスティドから離反していることを示している。この報告は、軍政による広範かつ重大な人権侵害を認めながらも、アリスティドと「彼の支持者たちは、一貫して、人権侵害をプロパガンダの道具として利用し捏造さえしている」とし、アリスティド派を「強硬にイデオロギー的」であるとしている[47]
こうした中、米国議会のリベラル派議員たち、とりわけ黒人議員連盟が騒ぎ出した。これら議員たちの批判と圧力が高まる中、国務省のハイチ特使ローレンス・ペズーロ---このときまでには「立法府計画」の執筆者であると公に言われていた---が、辞任した。その一週間後、数名の議員がホワイトハウス前で抗議して逮捕された出来事は広くメディアで報じられた。
五月上旬、議会の圧力により、「ハイチ・グランド・プラン」は信用を失って破棄され、経済制裁は国際的なもの笑いの対象となり、難民がフロリダ沿岸に流れ着き続け、何千人ものハイチ人がキューバのグアンタナモ米軍基地に溢れかえるる中で、クリントン政権は---ジャン−ベルトラン・アリスティドという中道的でない考えを抱く人物のことを好ましく思ってはいなかったが---、彼を大統領に復帰させることなしにハイチでほんの僅かでも信憑性を得ることができる状態を造り出すことは不可能だと結論せざるを得なかった。ビル・クリントンは、抜き差しならない羽目に陥っていた。一九九二年の大統領選挙のとき、クリントンは、難民をハイチに送り返すブッシュの政策を「残忍」だと批判し、「私の政権は」、「民主主義のために立ち上がる」と宣言していた[48]。それ以来、彼が「ハイチ」という言葉を口に出す際には、かならず、「民主主義」に関する少なくとも三つの決まり文句を伴っていた。
何かしなくてはならなかった。さもなければ、選挙の年であるこの年に、共和党が涎を垂らして眺めているリストに、さらに「外交政策の失敗」が加わることになる・・・・・・けれども、何をすべきなのだろう?その後の四カ月にわたって、世界は、ドタバタの連続を目にすることになる---制裁や難民の取り扱い、軍政が荷物をまとめて退位するまでの時間(最大で六カ月が与えられた)などについての多くの態度変換、殺人に手を染めた軍と警察にどのような処罰あるいは恩赦を与えるべきか、米国は侵略すべきかどうか・・・・・・今回は本気だとか、この度は<本当に>本気だとか、「我々の忍耐も限界に来た」と三度目の通告をし、「武力行使の可能性を除外しない」と五度目の威嚇をし・・・・・・ハイチの軍政は、さほど怖じ気づかなかった。
この間、米州機構(OAS)の人権団は、ハイチの政権を、「ハイチに民主主義とジャン−ベルトラン・アリスティド大統領の復帰を求める人々を恐怖に陥れる体系的な作戦として、殺害、強姦、誘拐、拘留、拷問を行なっている」と非難していた。アムネスティ・インターナショナルも同様の報告を出している[49]。
時間ばかりが過ぎていった。そして、一日一日と過ぎるごとに、アリスティドがハイチで政権を司る時間も削られていった。アリスティドは、五年の任期のうち、既に三年近くを失っていたし、また、職務に就いていた最初の八カ月も任期から引かなくてはならない。
夏までに、ビル・クリントンは、議会の承認を求めてとげとげしい質問を受けることなしに、米国の侵攻なしに、米国人犠牲者を一人も出さずに、社会主義者の司祭のために戦争を開始せずに、軍政を政権の座から追放することを、絶望的に求めることになった。ワシントンが本気でジャン−ベルトラン・アリスティド神父を政権の座に復帰させたかったのならば、それまでの三年間の間、いつでも、CIAに命じてハイチの軍事政権を不安定化させることができたであろう。経験を積んだ信頼できる賄賂や脅迫、偽造文書、情報操作、噂、パラノイアを使い、また、武器や傭兵、暗殺、多国籍の経済締め付け、即席の小部隊、適切なタイミングで適切な相手に適切な量の恐怖を教え込むちょっとした空襲などである。実際、CIAは、イランやグアテマラ、エクアドルやブラジルから、ガーナやチリに至るまで、遙かに力を持ち安定した、遙かに大きな人々の支持を得ていた政府に対して、こうしたことを行なってきた。
ハイチの作戦で必要とされたであろうものは、ほとんど既に存在していた。CIA自身が創設した国家諜報サービス(SIN)や、FRAPHといった治安部隊内部の情報提供者や被雇用者の大規模なネットワーク、誰が信頼できる軍士官かについての知識などである[50]。米国諜報は、ハイチ軍の武器について、完全な一覧表を有してさえいた[51]。
クリントンがこの手を打たなかったのは、議員の多くや政府自身の外交専門家の一部が、何カ月にもわたって、クリントンにそれを求めていたことを考えると、特に不思議である[52]。ついに、一九九四年九月、政府筋は、CIAが「今月、ハイチ軍事政権を転覆させるための大規模な秘密作戦を開始した。〔・・・・・・〕けれども、これまでのところ、うまく行っていない」ことを明らかにした。あるCIA職員は、これは「効果を持つには遅すぎた」と述べている。クリントン政権は、何か月間も、どんな行動を取るべきか、それが合法であるかどうかについて議論をしていたという[53]。
あるいは、米国政府は、よく知られた「一本の電話」をかけることもできたはずである。例えば、「本気である」と伝えるような。
裏切り
「西半球で最も暴力的な政権」・・・・・・「強姦と拷問、手足切断作戦、人々は餓えている」・・・・・・「子供を処刑し、女性を強姦し、聖職者を殺害している」・・・・・・「アリスティド大統領自身、聖堂区の司祭だったときに孤児院を営んでいたというだけで、アリスティド大統領に共感を抱く」として「ハイチの孤児を殺している」・・・・・・「兵士や警官は、政治的反対派との疑いをかけた人々の妻や娘を強姦しており---一三歳や一六歳の若い少女もいる---、また、人々は殺され、他の人々への警告として切断された体の部分がそのまま残され、母親の顔が山刀で切られるところを子供たちは無理矢理見させられる」・・・・・・[54]。
ウィリアム・ジェファソン・クリントンは、米国の人々に対し、何故「ハイチに民主政権を回復」しようとしているかについて、このように説明した。
次に我々が耳にしたのは、米国が、ハイチの軍政指導者たちに対し、退位までに四週間を与えられること、いかなる犯罪も罪を問われないこと、お望みならばハイチに居続けることができること、お望みならば大統領に立候補することができること、どのようにして手に入れたものであれ財産を保持できることなどを告げたということだった。亡命を選んだ者たちには、ハイチの不動産を米国に貸し出すことで巨額の資金が提供され、そうした不動産に対する改善は無料で米国が担った。お好きな国にこれらの者たちを家具ごと運ぶために、米国は二機のジェット機をチャーターし、無料で運搬し、一年間は、家族全員と何十人もの親戚や友人に、家と生活費を支払った。その額は、合計で何百万ドルにも達した[55]。
大統領ビル・クリントンが(恐らくは人間ビル・クリントンと違って)このように振舞えた理由は、彼が、セドラとその仲間に対して、実際には嫌悪感を抱いていなかったためである。このことは、ホワイトハウスに就任した他の人物にもあてはまる。例えば、ジミー・カーターは、セドラを名誉ある人物と述べ、大いに尊敬していると語った。それというのも、セドラやその仲間たちは、合州国が二〇世紀のほとんどにわたってハイチに行使してきた経済的・戦略的統制に対して、イデオロギー的な抵抗を全く示さなかったからである。これは、ジャン−ベルトラン・アリスティドと大きく異なっていた。アリスティドは、わずか一年前に、「私は今でも、資本主義は道徳的な罪であると考えている」と語っていた[56]。キューバのフィデル・カストロも同様である。ここで疑問の余地が残らないように言っておかなくてはならないが、クリントンが上述のような発言をする直前に、ゴア副大統領は、テレビで、カストロは、ハイチの軍事指導者たちよりも酷い人権侵害記録を持っていると公言していたのである[57]。
クリント大統領がハイチ軍政の残虐行為を披露したのは、単に、軍事介入の支持を取り付けるためであった。これは、永年にわたって行われてきた軍事政権の麻薬取引を、今になって突然発見されたとして言及し始めたのと同様である。パナマに軍事介入する時になって、ノリエガによる永年の麻薬取引をついに批判し始めたのとも同じである。
けれども、最悪の裏切りは、まだ訪れていなかった。
一九九四年九月一九日、ここで述べたようなラウル・セドラとの合意に従い、米軍が、一〇月半ばのアリスティド帰還に備えるためにハイチに到着し始めた。ハイチの人々は、多大な幸福感でアメリカ人たちを迎え、米兵は、すぐに、生命に対する最悪の危険となっていた人々やハイチ社会で混沌を扇動した人々を武装解除し、逮捕し、あるいは射殺した。けれども、その前に、まず最初に、米兵は、道徳的に不快なエリートたちの住宅街に続く道路を封鎖するために、機関銃を積んだ戦車や車両を配備した。富裕層は、ワシントンの自然な仲間だったからである[58]。
ジャン−ベルトラン・アリスティドの帰国歓迎は、楽観的雰囲気に溢れた楽しいものだった。けれども、支持者たちはアリスティドを取り戻したかも知れないが、アリスティド主義を失ったかも知れないということを、彼を尊敬する支持者たちは知らなかった。ロサンゼルス・タイムズ紙は次のように報じている。
一連の個人的な会合で、米国政府官僚は、アリスティドに、階級闘争のレトリックを放棄し〔・・・・・・〕その代わりにハイチの富裕層と貧困層を和解させる道を求めるよう説き伏せた。政府はまた、アリスティドに、自由市場経済を遵守し、ハイチの憲法を遵守するよう求めた---ハイチ憲法では、大統領の権限を強く制限し、議会に大きな政治的権力を与えている。〔・・・・・・〕米国政府の官僚たちは、アリスティドに、新政権の樹立にあたっては、政治的に彼に反対する者たちにも手を差しのべ〔・・・・・・〕、広い基盤に基づく政府を樹立するよう要求した。米国政府は、アリスティドに対し、もし議会との合意を得られないならば、彼の政権を支えることはしないとはっきりと宣言した[59]。
富裕層への課税から軍の武装解除に至るまで、アリスティドが政権復帰する際の計画は、ほとんど全てにわたって、米国の官僚---アリスティドは毎日のように米国官僚と会っていた---や世銀、国際通貨基金その他の援助組織により検討されていた。その結果できあがった政策は、これら諸組織の優先事項を反映したものになっていた。〔・・・・・・〕アリスティドは、明らかに、ワシントンに亡命する前の特徴だった解放の神学と階級闘争のレトリックの声を弱めた[60]。
クリントン政権の上級官僚たちに訓練された「アリスティドは、民主主義の原則〔ママ〕、民族和解、市場経済などを、ワシントンが全ての第三世界指導者にそうさせたがるような熱意をもって受け入れた」[61]。
一九九四年一〇月一五日、追放されてから三年と二週間が経った後、アリスティドはハイチに帰還した。米国は、同じ条件---あるいはさらに良い条件で---、彼の帰還を遙かに早く実現できたかも知れない。けれども、ワシントンの職員たちは、ハイチに難民を連れ戻し、それが出来ないときにはグアンタナモ基地に押し込める政策により、問題---難民問題及びジャン−ベルトラン・アリスティド問題---を追いやることができると信じていた。アリスティドの政権復帰を迎えるにあたって、クリントンは、アリスティドから、亡命期間中に失った任期を回復するためにその期間分も大統領の座にいることはしないという確約を求め、それを受け取った---さらに、それを公に宣言した。むろん、クリントンはそれを「民主主義」と呼んだが、実際のところ、こうした行為は、クーデターを一部正当化するものであった[62]。上で言及したニュース記事からも推測できるように、アリスティドが実質上降服を受け入れたのは、全くこの点についてだけではなかった。
決定的に重要な首相の地位---首相が閣僚を任命する---について、彼が望んでいたのは、彼の考えと非常に似た考えを持つ女性クローデット・ウェルレイだったが、その選択肢は除外することをアリスティドは余儀なくされた。というのも、政治的な反対派が、ウェルレイの「左派指向」は海外援助と投資を受け入れる際に大きな障害となると主張し、強く反対したからである。代わりに、アリスティドは、結局、スマーク・ミシェルを指名した。ワシントンお気に入り候補の一人であった[63]。同時に、クリントン政権と国際金融諸機関は、アリスティドが、誰を財務相、計画相、中央銀行総裁に任命するか、しっかりと見つめていた[64]。
これらの地位を占める候補としてワシントンがお気に入りだった人物の二人は、一九九四年八月二二日パリで国際金融機関と面会しており、ハイチが七億ドルの投資と貸付を受けるにあたっての合意の条件を調整していた。第三世界とのこうした合意に典型的に見られるように、この合意も、経済に対する政府の関与を劇的に減らし、公共サービスを私営化することにより、私企業部門の役割を拡大することを求めていた。ハイチの国際的な役割は、関税などの輸入規制をほとんど最小限しか設けずに、海外の投資と商売に国を開放して多国籍企業に奉仕し、自らを、主として組み立て工場に対する安価な労働力輸出源とするものだった。労働力の値段は、本当に極めて安く、その当時の一時間一〇から二五セントからほとんど増えず、これは、心身を維持し餓えを遠ざけるために痛ましいまでに不十分であった。こうした生活は、米国国際開発局(USAID)などの米国政府機関が、投資家のために永年にわたって促進してきたものである[65](組立産業を米国企業に非常に大切なものとみなしていたワシントンは、ハイチに経済制裁をしている最中に、これらの工場が操業を再開するために必要な輸出入ができるよう貿易封鎖を「微調整」していると発表した)[66]。
この合意では、さらに、議会の権力を強化することも強調していた。大統領府については言及すらされていなかった。「正義」という言葉も見られなかった[67]。
本章を執筆している時点(一九九四年一〇月末)で、生活に十分な賃金と文明化した労働条件をハイチの大衆に実現すること、社会保障年金体制、きちんとした教育、住居、保健、公共交通手段などの、アリスティドの夢だったことは、まさに、夢のままにとどまっているようである。確実だと思われるのは、裕福な者たちがますます裕福になり、貧しい者たちはラテンアメリカの最底辺に留まるだろうということである。アリスティドの後継者のもとでは---現在ワシントンが誰を後継に仕立てようとしているかにかかわらず---、状況はさらに悪くなるだけだろう。
急進的な改革者であるアリスティドは、これら全てを理解しており、そして九月ないしは一〇月の時点では、アリスティドがクリントンを必要としていたと同じくらいクリントンがアリスティドを必要としていた時があったため、遙かによい取引をすることができたかも知れない。アリスティドが、進められつつあった裏切りにのことを人々に訴えると声を大にして主張し、全世界が新聞の見出しに載った決まり文句以上のことを理解し、ビル・クリントンが「民主主義」やハイチの人々の福祉に憂慮を表明しているというのがいかにインチキか理解したならば、クリントンはスキャンダラスなまでの困惑に直面していたことだろう。
けれども、聖職者たるアリスティドは、世界を異なる観点から眺めていた。
政治的な力と神学的な力とを比べてみよう。一方で、伝統的な政治的道具を行使する者たちがいる。武器や金、独裁、クーデター、弾圧などである。もう一方で、二〇〇〇年前に使われていた道具がある。連帯や抵抗、勇気、決意、尊厳のための闘い、献身、尊敬、力である。超越性と、正義たる神への信仰を見ることができる。今や、我々が問う問題は次のようなものである。政治的な力と神学的な力のどちらが強いのか?私は、後者が強いことを確信している。私はまた、これら二つの力の一致が可能であることも信じている。そして、その一致は、決定的な違いをもたらすだろう[68]。
注:
1. New York Times, 27 February 1986, p. 3; 11 April 1986, p. 4.
2. Fritz Longchamp and Worth Cooley-Prost, "Hope for Haiti", Covert
Action Information Bulletin (Washington), No. 36, Spring 1991, p.
58. Longchamp は、ハイチの情勢分析と教育に従事する組織、ワシントン・オフィス・オン・ハイチの代表; Paul Farmer, The Uses of Haiti (Common Courage Press, Monroe, Maine, 1994), pp. 128-9.
3. The Guardian (London), 22 September 1986.
4. 同。
5. レーガンについては、Jean-Bertrand Aristide, An Autobiography (Orbis Books, Maryknoll, NY, 1993, translation from 1992 French edition), p. 79. 以下、本書は Aristide Autobiography と表記する。
6. Time magazine, 30 November 1987, p. 7.
7. CIA and the 1987-88 election: Los Angeles Times, 31 October 1993, p. 1; New York Times, 1 November 1993, p. 8.
8. New York Times, 1 November 1993, p. 8.
9. Allan Nairn, "The Eagle is Landing", The Nation, 3 October 1994, p. 344; この作戦に従事したカリブ地域の元米軍作戦主任スティーブン・バトラー大佐の言葉を引用している。
10. Farmer, p. 150; New York Times, 13 March 1990, p. 1.
11. Aristide Autobiography, pp. 105-6, 118-21.
12. Haitian Information Bureau, "Chronology: Events in Haiti, October 15, 1990 - May 11, 1994", in James Ridgeway, ed., The Haiti Files: Decoding the Crisis (Essential Books, Washington, 1994), p.
205.
13. Robert I. Rotberg, Washington Post, 20 December 1990, p. A23.
14. Washington Post, 6 June, 1991, p. A23. アリスティドは、前掲した自伝の一四七〜八ページで、自分の給与を一万ドルから四〇〇〇ドルに下げ、多くの高額手当を廃止したと述べている。
15. Aristide Autobiography, p. 144.
16. 同、pp. 127-8, 139.
17. アリスティドの大統領としての政策については、
a) Washington Post, 6 June, 1991, p. A23; 7 October 1991, p. 10;
b) Aristide Autobiography, chapter 12;
c) Farmer, pp. 167-180;
d) Multinational Monitor (Washington, DC), March 1994, pp. 18-23
(土地改革と労働組合について)
18. San Francisco Chronicle, 22 October 1991, p. A16.
19. Alan Nairn, "Our Man in FRAPH: Behind Haiti's Paramilitaries",
The Nation, 24 October 1994, p. 460. FRAPHのボスであるエマニュエル・コンスタンに言及している。
20. NEDなどについては、
a) The Nation, 29 November 1993, p. 648. デービッド・コーンのコラム;
b) Haitian Information Bureau, "Subverting Democracy", Multinational
Monitor (Washington, DC), March 1994, pp. 13-15.
c) National Endowment for Democracy, Washington, D.C., Annual
Report, 1989, p. 33; Annual Report, 1990, p. 41.
d) Aristide Autobiography, p. 111, ラジオ・ソレイユが軍政に迎合したことについて。
21. New York Times, 8 October 1991, p. 10.
22. Boston Globe, 1 October 1992.
23. New York Times, 1 November 1993, p. 8; 14 November, p. 12. レイテルの報告は一九九二年七月に提出された。
24. 同、14 November 1993, p. 12.
25. Howard French, New York Times, 27 September 1992, p. E5.
26. "Chronology", The Haiti Files, 前掲、p. 211.
27. New York Times, 1 November 1993, p. 1.
28. 麻薬については、同、p. 8; The Nation, 3 October 1994, p. 344, 前掲; Los Angeles Times, 20 May 1994, p. 11.
29. SINについては、New York Times, 14 November 1993, p. 1; The Nation, 3 October 1994, p. 346, 前掲。
30. a) The Nation, 24 October 1994, pp. 458-461, 前掲; Allan Nairn, "He's Our S.O.B.", 31 October 1994, pp. 481-2.
b) Washington Post, 8 October 1994, p. A8;
c) Los Angeles Times, 8 October 1994, p. 12;
d) New York Daily News, 12 October 1993, フアン・ゴンサレスによる記事で、船の事件があらかじめ仕組まれたものであることにさらなる信憑性を与えている。
31. Time, 8 November 1993, pp. 45-6.
32. Farmer, p. 152.
33. アリスティドの心理状態については、
a) Los Angeles Times, 23 October 1993, p. 14; 31 October, p. 16; 2 November, p. 8.
b) New York Times, 31 October 1993, p. 12 (偽の文書について).
c) Washington Post, 22 October 1993, p. A26.
d) CBS News, 13 October 1993; 2 December 1993, ボブ・フォーの報告で、「モントリオールにあるこの病院は、マイアミ・ヘラルド紙に対し、アリスティドを心理障害で治療したことはないと述べた」と言っている。
34. New York Times, 23 October 1993, p. 1.
35. Dwight Eisenhower, The White House Years: Waging Peace,
1956-1961 (New York, 1965), p. 573; Jonathan Kwitny, Endless Enemies:
The Making of an Unfriendly World (New York, 1984), p. 57.
36. Time, 8 November 1993, p. 46.
37. クリントン政権のハイチ指導者たちとの関係については、 同、p. 45.
38. George Black and Robert O. Weiner, Los Angeles Times, 19 October 1993 の論説。
Black は編集主幹であり、Weinerは人権法律家委員会の米州プログラム・コーディネータ。
39. Washington Post, 2 December 1987, p. A32; 11 September 1989, p. C22, ジャック・アンダーソンのコラム; The Guardian (London), 22 September 1986.
40. Juan Gonzalez, "As Brown Fiddled, Haiti Burned", New York Daily News, 9 February 1994.
41. New York Times, 18 December 1993, p. 7.
42. Los Angeles Times, 16 February 1994, p. 6.
43. 同、24 February 1994, 26 February; Multinational Monitor, March 1994, 前掲、p. 15.
44. Los Angeles Times, 14 April 1994, p. 4. コザックの発言は二月になされたもの。
45. Kim Ives, "The Unmaking of a President", in The Haiti Files, 前掲、pp. 87-103.
46. Multinational Monitor, March 1994, 前掲、p. 15; Los Angeles Times, 14 April 1994, p. 4.
47. Murray Kempton, syndicated column, Los Angeles Times, 12 May 1994.
48. Los Angeles Times, 25 September 1994, p. 10.
49. 同、21, 24 May 1994; 文言はロサンゼルス・タイムズ紙によるもの; Amnesty Action (AI, New York), Fall 1994, p. 4.
50. The Nation, 3 October 1994, p. 346, 前掲。
51. Los Angeles Times, 23 September 1994, p. 5.
52. 同、24 June 1994, p. 7.
53. 同、16 September 1994.
54. 同、16 September 1994, p. 8.
55. 同、14 October 1994, p. 1.
56. Isabel Hilton, "Aristide's Dream", The Independent (London), 30 October 1993, p. 29. Farmer, p. 175 に引用されている。アリスティドは、さらに、「けれども、米国では、現実は異なっている」と述べている。
57. Los Angeles Times, 5 September 1994, p. 18. ゴアの、「報道との面会」における談話。
58. 同、1 October 1994.
59. 同、17 September 1994, pp. 1 and 10; p. 9 も参照のこと。
60. 同、1 October 1994, p. 5.
61. 同、8 October 1994, p. 12.
62. New York Times, 16 September 1994.
63. Los Angeles Times, 24, 25 October 1994.
64. 同、19 October 1994.
65. ハイチの経済計画に関するわずかに短い版は、 Multinational Monitor (Washington, DC), July/August 1994, pp. 7-9 にある。ハイチの抑圧的な組立工場部門の記述については、National Labor Committee, "Sweatshop Development", The Haiti Files, 前掲、pp. 134-54 を参照。
66. New York Times, 5 February 1992, p. 8.
67. Multinational Monitor, July/August 1994, 前掲。
68. Aristide Autobiography, pp. 166-7.
ちょっととってつけたようですが、終わりに・・・・・・イラク派兵について、色々な情報(へのリンク)がwww.creative.co.jpにアップされます(見やすいので参考にしています)。また、3月20日ピースパレードがあります。