民主的治安:ハビエル・ヒラルドへのインタビュー

ハビエル・ヒラルド & ジャスティン・ポドゥール
2004年3月16日
ZNet原文


永年の平和・人権活動家であるハビエル・ヒラルド神父は、1988年に「正義と平和」を設立し、コロンビアの人権のために精力的な活動を続けてきた。また、1990年代に手に入れることのできたコロンビア人権状況に関する最も有用な入門書『コロンビア:ジェノサイド民主主義』の著者でもある。2004年2月22日、彼にインタビューを行なった[殺害脅迫のためにしばらく亡命していたが、コロンビアに戻った]。

ウリベは自分の戦争政策を「民主的治安」と呼んでいます。これについて、どう思いますか?

私はこれまでに、ウリベの演説の4つか5つに目を通しました。定義を探していたのです。彼は最近、コスタリカで、民主的治安について演説しています。レトリックはいつも同じです。「民主的治安」は国全体を対象とするものだ、労働者にも企業経営者にも、政府側でも反対者でも、平等に機能するものだ、というのです。ウリベの主張、そのレトリックでは、それが全てのコロンビア人を保護するということになっています。

実際のところを分析すると、いくつかのモードがあることがわかります。

第一に、この政策は、パラミリタリー(準軍組織)を使った戦略を先鋭化するものです。パラミリタリズムは、さらに多くの文民層を、内戦に引き込むものです。政策のエッセンスはここにあります。そして、ウリベは、アンティオキア州[州都はメデジン]の州知事だった時代から、こうした政策を擁護していきたのです。このような文脈で、中立性などというものはありません。すべての人が、「善」の側か「悪」の側かに参加しなくてはならないことになります。この戦略の礎石は軍で、「民主的治安」の全ての道は軍に通じます。この政策は、軍を支援し、軍に従うための政策なのです。

これには背景があります。アンティオキアの例です。平和コミュニティ運動が始まったとき、「中立」を宣言した農民と先住民のコミュニティがありました。内戦には何の関与もしたがらなかったのです。この運動は、ウリベがアンティオキア州知事だったときに始まりました。サン・ホセ・デ・アパルタドの平和コミュニティは、これが結実したものです。イシアイアス・ドゥアルテ・カンシノ司教---後にカリで殺されましたが---がこの活動に参加していました。アパルタド地域はとても「ホットな」地域で、武器や銃の戦略的要路であり、武装グループが争奪戦を繰り広げていた地域でした。市民層は中立を望んでいました。その考えを議論するために一連の会議が行われました。当時アンティオキア州知事だったウリベは、自ら招待された者として、演説することを決め、その演説で、彼は自分の提案を「積極的中立」と呼びました。実際に彼が意味していたのは、軍を支持し支援することだったのです。司教は公式に賛成しないと発表しました。彼は、州知事、申し訳ないけれど、あなたの計画は、私たちの計画と違う、と言ったのです。ウリベは激怒して立ち去りました。そのことがあってから、その同じ夜、運動の名前とスローガンは「積極的中立」から「平和コミュニティ」に変更されたのです。

ウリベは、アンティオキア州の知事として、CONVIVIRにより自分の提案を遂行しました。不法パラミリタリー部隊です。CONVIVIRは、軍により武装された文民で、私的治安監督(Superintendent of Private Security)の統制下に置かれました---1989年に最高裁が、パラミリタリーを合法化する法律(1965年から1968年にできたものです)を違憲であると裁定した事実をすり抜けて、パラミリタリーを合法化しようという企てでした。アンティオキア以上の大きなCONVIVIRを擁する州はありませんでした。この動きにより、パラミリタリーは信任状を得たことになったのです。アパルタドでは、CONVIVIRのメンバーの3人はパラミリタリー兵士でした。軍の第17旅団に訓練を受けていたのです。これがウリベの背景です。


ウリベがますます多くの一般市民を内戦に引き込もうと意図しているとすると、一般市民はそれにどう対応しているのでしょうか?

「一般市民」という言葉はちょっと広すぎます。産業家や富裕層、権力者層を含むので。けれどもプロセスがあります。1995年に、セルパはパラミリタリーとの対話を試みました。当時の提案は、メディアでスキャンダルを引き起こしました。当時なされた議論は明確でした:パラミリタリーは政府に反対していない。ゲリラは反対しており、憲法そのものが、武装反対派集団との対話の法的可能性を提供しているのです。その一方、パラミリタリーは、政府の一部です。ですから、どうすれば政府がパラミリタリーと対話できるというのでしょう? スキャンダルにより、セルパは自分の提案を撤回しました。

1995年から2002年まで、社会をパラミリタリズムに順化させるプロセスでした。特に、メディアの中で。このため、カスタニョが目に見える場所に出てきて、有名人となったのです。最初に大きなカスタニョとのインタビューを掲載したのはアリスメンディのカラコルでしたが、エル・ティエンポもセマナもカムビオも、主要メディアは全て、その後に続いたのです。彼のイメージをクリーンなものにし、それを管理し、諸問題に対して見解を述べる公的存在に仕立て上げようというのが主旨でした。

これは、パストラナの「和平プロセス」とサン・ビンセンテ・デル・カグアンでの「対話」と並行していたのです。和平プロセスについて、主流メディアは、極めて表面的に分析し扱いました。対話は、その出発点で、政府とFARCが合意した47項目を共有していました。これが対話開始時点でのことです。そこからは、全てが戦争でした。パラミリタリーが非武装地域に侵略を始めたのです。軍も上空の飛行を開始しました。FARCは独自の動きをしました。政府は対話を真剣に考えてはいなかったのです。47項目のアジェンダを実施するためにただの一人として担当を指名しませんでした。カグアンに公式使節を一つも送りませんでした。メディアは対話の失敗を「ゲリラの無責任」のせいであるとhなんしましたが、政府の側にも多くの無責任があったのです!けれども、メディアのキャンペーンにより、人々の意見は、FARCが悪いのだという考えを受け入れがちでした。それはパラミリタリーに有利となり、そこからウリベ誕生のステージが生まれたのです。当時のFARCの振舞いも疑問の余地の大きなものでした。パラミリタリアンを殺し、襲撃や誘拐をしていたのです。


パラミリタリー司令官のサルバトレ・マンクソはウリベが大統領候補だったときにそれを支持し、大統領選でウリベが勝ったときにはそれを支持する声明を発表しました。CONVIVIR以外に、ウリベとパラミリタリーとの間に関係はあるのでしょうか?

ウリベにとても近い一族があります。オチョア一族で、麻薬商人です。私は、彼らが知り合いだという意味で近いと言っているのではなく、一緒にのし上がってきたという意味で近いと言っているのですが。

米国はその一人、一番若いファビオ・オチョアの身柄引き渡しを望んでいます。けれども、コロンビアの法律では、ある人がコロンビアで手配されていると同時に別の司法管轄で手配されているときには、コロンビアでの刑期を終えない限り身柄引き渡しをすることはできないことになっています。カルロス・カスタニョの弁護士が、カスタニョの身柄引き渡しを避けるために持ち出している議論もこれです。オチョアの弁護士も同じ主張をしましたが、でも身柄を引き渡されました。彼は米国で優秀な弁護士を雇い、CIAとDEA(米国麻薬取締局)は交渉の条件を提示しました:身柄を引き渡さないかわりに3000万ドルを求めたのです。オチョアは米国で軽い判決を受け、それから新たなパスポートを手にしてまた旅することが可能になるでしょう(エル・ティエンポ紙・2002年11月28日・11−20ページ)。写真家のバルチュ・ベガがこの交渉の仲介役です。これについての文書があります。身柄引き渡し手続きの際のものです。結果は、パラミリタリーに資金を提供するための、秘密の不法資金です。バルチュ・ベガは、麻薬商人が払った金を使ってCIAとDEAとがカスタニョに金を渡したパナマでの会談の目撃者です。

パラミリタリーが資金を得るもう一つのメカニズムはよく知られています。鉱山法では、金を見つけた場所で税を払わなくてはならないことになっています。採掘したものに対する政府の税金です。最も豊富な金山はボリバル州にあり、コルドバ州(パラミリタリーの拠点です)は生産量は少ないのです。けれども、共和国銀行の統計を見ると、相対的に生産量の少ないコルドバ州が高い税を支払っており、ボリバルはそうではないことがわかります。この部分の金は、パラミリタリーの手に入るのです。

ウリベの父は、アンティオキア州にある自分の大農園グアチャラカスで、FARCに殺されました。彼はそのときヘリコプターに乗っていました。そのヘリコプターは麻薬商人の所有で、DAS(コロンビア治安局)に押収され、それから所有者に戻されました。

検察庁には文書があります。グアチャラカスの財産に関する、鉱山産業関係の小規模ビジネスマンの証言です。彼は、アンティオキア州で、数人の労働者を擁するどちらかというと小さなビジネスをしていました。彼は現地のパラミリタリーの主任に会わせられました。パラミリタリーは彼を脅したのです。ゲリラに保護資金を払っているが、それは死刑宣告に値すると。彼は、割り当てを払わないとゲリラが私を殺すから払わなくてはならない、と言いました。どうすればよいのか?と。パラミリタリーは彼を許し、そのときからは割り当てをパラミリタリーに払うよう言い渡しました。一月25万ペソです。

そのうち、彼は保護資金を払うことさえできなくなりました。そこで、パラミリタリーの基地に行って、商売上がったりなので立ち去る予定だと告げました。パラミリタリーは、ちょっとまて、金の採掘にもっと良いところを見つけてやろう、と言ったのです。会議の後戻ってくるから、ここで待っていろと。そこで待っていたところ、色々な人がやってきました:パラミリタリー関係者と、それからアンティオキア州知事ウリベ本人です。会議の後、パラミリタリーの主任が戻ってきて言いました---グアチャラカスに行ってそこで金を採掘するように、と。その資産の管理者ビジェガ氏に割当金を支払うように、と。

この証人は、グアチャラカスの土地に40人のパラミリタリーがいて、夜になると殺人に出かけていったと語っています。パラミリタリーが殺害のために彼の車を使わせるよう求めたとき、彼はそこから逃げ出しました。けれどもその前に、彼は、グアチャラカスで、一人の農夫がゲリラに協力しているとして殺されたのを目撃していたのです。その土地から盗みを働いたと疑われた少年が「失踪」したのも目撃しました。パラミリタリーはそれを解決するための「パトロン」を呼びました。この「パトロン」はアレバロ・ウリベ・ベレスだったのです。この少年の姿は、それ以来、目撃されていません。

また別のケースは、マセオ市区のサン・ロケに近いラ・ムンディアル・アシエンダでのことです。1980年代、ウリベが州知事になる前のことでした。当時、アシエンダでの労働に対する支払いを求めていたカンペシノの組織がありました。アシエンダの所有者ウリベ一家は、支払いは出来ないが、アシエンダを3カ月留守にするので、その間に生産できた余剰収入を自分のものとしてよいと言いました。カンペシノは喜んでそうし、負債の支払いさえしました。これが記録されているのはアンティオキア州の労働局です。

3カ月後、カンペシノたちは土地を返却しようとしていましたが、ウリベは労働者抜きで土地だけの返却を望みました。そこで、ウリベ一家は、一見したところ寛大にも、カンペシノたちに、土地を持っていてよいと告げました。その直後、軍が人々を拘留して「失踪」させはじめ、虐殺も何件か起きました。証言をした生存者たちは、この背後にウリベがいたことは間違いがない、と言っています。


私はさきに、一般市民の対応について聞きました。というのも、2003年10月25日の国民投票は、ウリベにとって大きな逆風で、2003年10月26日に多くの都市や州で反対派の候補が当選したことも、ウリベの大きな後退だと考えるコメンテータたちがいるからです。これらの出来事は、2002年に彼が選挙で勝利してから世論がウリベに逆風となっていることを現していると考えますか?

第一の問題は、2002年、どのようなかたちでウリベが勝利したか、です。私はエーリッヒ・フロムの『自由からの闘争』を先日読み返していました。ドイツでヒトラーが権力を握った過程にかんすることです。社会心理学的な説明です。そして、恐らくは、そこで言われていることのいくつかが、ここで機能しているのです。2002年3月から5月、選挙前の機関を見てみましょう:私はメタにいました。追放された人々、マピリパンのプエルト・アルビラの人々と一緒に。パラミリタリーによりかくも多くのものを失った人々が、これまでと同様のことをもっと多くと主張する大統領に投票することがいかにしてあり得るのかと自問しました。人々は、莫大なイカサマがあったことを証言しました。パラミリタリーが投票ブースにいたのです。また、破棄された投票がありました。投票日が終わる頃、市長が投票ブースに、社会サービスを受けた人々のリストを持ってやってきました。そこでそのリストと投票者のリストを見て、誰が棄権したかをチェックしました。それから、棄権者の名前を使って投票したのです。これはオンブツマンに報告されましたが、何も起こりませんでした。バランカベルメハでは、ウリベが勝たなければパラミリタリーは虐殺を行うと宣言しました。ほかのケースも知っています。恐怖のために、人々は公の批判をしませんでしたが。投票した人々は、膨大な圧力のもとで投票したのです。

2002年3月の議会選挙後、マンクソは勝利宣言を発表しました。パラミリタリーが国会の33%を支配していると述べたのです。ジャーナリストたちが内務相に、本当にそうなのかと聞いたとき、内務相はそうだと答えました。ですから、今、パラミリタリー大統領に同調するパラミリタリー議会があるというわけです。

国民投票とその後の選挙は、これに対する否定と見ることができますが、脆弱なものです。この類の反対の声は、都市部では表明することができます。全国的には、自由党が、国民投票を棄権するよう求めて大きな役割を果たしました。けれども脆さは二つあります。一つは、とりわけ地方部での、恐怖とパラミリタリーのテロです。もう一つは、独立メディアの不在とメディアによる情報操作の連続です。


ゲリラは「民主的治安」にどう対応していると思いますか?

お答えするのはとても難しいです。対話が終わってから、FARCは沈黙の政策を維持しています。以前は沢山話していましたが、今はほとんど話をせず、これ以上話をする意図はないと宣言しています。

けれどもFARCの中には異なる流れがあります。より軍事的なものと、より政治的なものです。はっきりしているのは、和平交渉をめぐるこれまでのモデルは失敗したことです。これまで3つのモデルがありました。

第一は、ベタンクール政権下のもので、1983年から84年のプロセスです。当時は、少なくとも戦争の原因をめぐる談話がありました。和平メカニズムにそれが組み込まれることはありませんでしたが、少なくとも議論はされたのです。けれども、現実的な問題は、武装解除、社会復帰、恩赦などなどでした。武装解除・解散の条件をめぐるものだったのです。何が起きたでしょうか?軍がそれに反対し、武装解除した多くの人々が殺されたのです。

次の交渉のときには、社会問題が原因であることを考慮することさえ拒否され、さらに武装解除に議論が集中しました。農地改革をめぐる問題は提起されませんでした。一部の集団の間の交渉で、社会全体が関係する社会プロセスではなかったのです。そのかわりに政府は次のように言いました:署名すれば、現金をいくらか受け取り、社会に再統合されることになると。皮肉なことに、これは狭い意味で最も「成功した」交渉でした。8つのグループが解散合意に署名したのです。けれども、それ以来その8つのグループは、実質上破壊されました。たとえば、M−19は、その中で最大の最有力グループで、今は政党となっていますが、とても小さなものです。M−19はしばらくの間自らのテレビ番組AMPNを持ってさえいましたが、資金不足でそれもなくなりました。

三番目の試みは、この二つを合わせたものでした。政府とシモン・ボリバル・ゲリラ協調(CGSB)との間で行われたカラカス交渉です。交渉と手段と社会改革について話し合いが行われました。数カ月続いたあと、EPLがある政治家を誘拐し殺害したために撤回されました。パストラナはカグアン交渉でこのモデルを適用しようとしました。交渉の場に具体的な提案はありませんでしたが、テーマはあり、当初の100テーマは10項に大別される47のテーマになりました。カグアン交渉では社会問題が交渉の場に再び持ち出されましたが、既に言ったように、政府はそれに従事するために半人分のスタッフさえ割り当てなかったのです。


あなたは、これらの交渉がイカサマだと言ってきました。交渉をよりよく行うためには何が必要でしょうか?

戦争の論理を理解することが必要です。戦争にはそれ自身の論理があります。政治の論理と同じではありません。戦争にはそれ自身の恐ろしい法があるのです。こうした戦争では、国際人道法も人権法も遵守されていません。戦争は1960年代に始まりました。1962年、米国の新しい学校、つまりフォート・ブラッグにある「特別戦争学校」の使節団が、ベトナム戦争で学んだことを適用しにコロンビアにやってきました。1962年2月、ヤーバラ将軍がコロンビアにやってきたのです。マイケル・マクリントックがその文書を公開しています。ヤーバラ・ミッションと呼ばれるもので、共産主義と戦うためにおおっぴらにテロリズムを用いるべきと提唱しています。これらの文書と対ゲリラ・マニュアルを見ると、あからさまなパラミリタリー作戦であることがわかります。時間関係に注目して下さい。というのも、FARCが結成されたのは1964年〜65年のことだからです。けれども当時はパラミリタリーを使った手段に訴える必要などなかったのです。というのも、軍が汚い仕事をおおっぴらにやってもOKという政治的雰囲気だったからです。1970年代後半から1780年代にかけて、「人権」がより重要なものとなりました。アムネスティ・インターナショナルがコロンビアを最初に公式訪問したのが1980年です。そして、パラミリタリー戦略が始まったのも1980年代です。汚い仕事を続けながら、政府のイメージを改善することができるように。それから、1985年、準軍組織は麻薬商人と結びつき、自らの論理を戦争に持ち込みます。その戦略は、つねに、市民社会への漸次的侵入でした。ベタンクールの和平イニシャチブは、少なくとも、対立の根には社会的不正義があることを認めていました。けれども、今日までいつも、政府の中に、社会問題を解決せずに戦争を終わらせようと言う願望があるのです。パストラナ時代よりもウリベ政権下の方が社会投資は少なくなっています。紛争の社会的起源を認めずに、紛争を終わらせることはあり得ません。


政府がゲリラを打倒することで「勝利」することはできないというのですか?

実際のところ、政府がゲリラと社会運動とを破壊することで「勝利」することはできると思います。ウリベは「暴力」を20%減らしたと言います。米国でも他の所でも、これは進歩として賞賛されます。人権の改善として。けれども、グアテマラで働き非暴力平和隊を支援している心理学者カルロス・ベリスタインが最近の講演で言ったことがあてはまると思います。心理学の古典的研究についての話です。出入り口のある籠にラットを入れます。空腹になったラットは籠から出ようとしますが、出口に近づくと、電気ショックを受けるようになっています。そのうち、ラットは学習して、出口から脱出しようとしなくなります。それから出口を開いて電気ショックをオフにしても、ラットはもう出ていこうと試みないというものです。

ウリベ政権下での事態はこんなかんじです。これまでの虐殺や失踪、暗殺は電気ショックのようなものです。政府は今、労働組合員への暗殺は少なくなっていると言いますが、それは、政府が国営企業を売り渡し労働「改革」を推進しているからです。暗殺する必要がもうないというわけです。この論理を拡張し続けるならば、政府の基準に従った「勝利」を手にすることはできるでしょう。


その逆も成り立ちますか?ゲリラが「勝利」することも可能ですか?

軍事的にはノーです。そして、実際の所、ゲリラ戦士たちの大部分は、自分たちでも勝てると信じていないと思います。司令官はそう言いますが、実際には勝とうとさえしていないようです。この世界では、勝てません。そのかわりにしているのは、社会モデルをボイコットしようということです。パイプラインを爆破したり代償を払わせたりして、怒りを表明しているのです。


けれども、コロンビアにはとても強力な運動とイニシャチブがありますが・・・・・・

その通りです。数年前に社会フォーラムの進歩が始まったとき、人々は「もう一つの世界は可能だ」と言っていました。まるで神経症のように見えましたが、実質があったのです。私はそこにいませんでしたが、どうやらある年、彼らがコロンビアの人々に次のように言ったのです:泣くのを止めよう。支援できる運動を起こそう!と。そこで運動が生まれましたが、さらなる弾圧がコロンビアで起きました。コロンビアには今、抵抗のコミュニティがあります。サン・ホセ・デ・アパルタドの平和コミュニティをはじめ、様々なものが。今でも人々は、非常に高い代償にもかかわらず、平和と正義を求めて闘争を続けているのです。


都教委が「君が代」不起立の教員を大量処分した問題について、メディアがいろいろに報じています。東京都教育委員会に抗議の声を届けるための案内はこちらにあります。さらに、反戦ビラ撒きに対する逮捕と起訴・追起訴。肩書きを使って「ね、わかるだろう」と自分の見解の不在を押しつけること以外に何もできない、コミュニケーション能力に欠いた汚らしい人々が、国内では、その押しつけに反対する人々に強制的な手段で危害を加え、国外では、膨大な武器と金を使っての脅迫・殺戮・買収以外に何一つできないアメリカ合州国の、さらにその傘の下で、卑屈に侵略荷担を行なっています。

2002年10月23日、チェチェン独立派の武装集団が、ロシアによるチェチェン侵略戦争の停止とロシア軍のチェチェンからの撤退を要求するためにモスクワ市内の劇場を占拠した、「モスクワ劇場占拠事件」。占拠したチェチェン人グループ側はロシアによる戦争の停止とロシア軍の撤退をロシア政府が約束すれば人質は解放すると述べていました。そして、仲介役にあたったロシア人ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスクカヤは、具体的な交渉を進めていました。

ところが、26日、ロシア軍特殊部隊が劇場に突入。100人以上の死者のほとんど大多数は、この際にロシア軍が用いたガスが原因によるものだそうです(林・大富『チェチェンで何が起こっているのか』高文研)。

「我々はテロに屈しない」。はやりの言葉では、ロシアの対応は、こう説明されるのでしょう。「テロに屈するな」。10万ものロシア軍を駐留させ、民間人に対する殺害や拷問、強姦、虐殺を続ける、つまり自ら巨大なテロ行為を続けるロシア政府が、それをごまかすために。「国際社会が団結してテロに屈しないことを示す必要がある」。イラクの不法占領と民間人殺害、イスラエルによるパレスチナの破壊とパレスチナ人の殺害を実行し荷担してきた人々が、「テロに屈しないことを示す」と。日本の政治家も、同じような空疎な言葉を繰り返します。

コミュニケーションへの意志を失い、自らのテロに耳をふさぎ目を閉じるためにコミュニケーションの回路を遮断し、金と暴力ですべてを片付けようという人々の言葉の軽さと崩壊は、小泉首相をはじめとする現政権の面々が示している通りです。そうした中、日本でしばしば叫ばれている「国際的コミュニケーション力」という言葉の、何とニセモノに響くことでしょう。
益岡賢 2004年4月4日

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