わがまま音楽紀行(連載第12回)★韓国編その2
大阪市職労 宮本雄一郎
慶州駅に立つ「あ〜暑う〜」
1 韓国の旅から
冬がやってきます。北国ではもうストーブに火が燃えている頃でしょうが、音協会員の皆さん、お元気でしょうか。私は、十二月が来るといつもジョン・レノンの歌を想い起こします。ジョンのラストソング「スターティング・オーバー」は、彼が人々のために残したメッセージだったのでしょうか。彼の歌声を聞くと、音楽の持つ永遠なる力に感動を覚えます。
ところで、二十世紀もまもなく幕が降りようとしていますが、この世紀を代表する音楽家といったらいったい誰になるんでしょうか。世紀末の記念に音協会員で一度人気投票をしてみたら面白いのになあ、などと暇なことを考えています。さて、わがまま音楽紀行は、二十一世紀と無関係にいつもどおり自由きままに放浪を続けます。
旅の続きは、ソウルから鉄道で南へ慶州をめざします。韓国の誇る特急セマウル号は車内が広く、座席も二人掛でゆったりとして快適です。私の隣の席に座ったのは大学生で、声をかけると「釜山へ向かうところだ」といって、持っている本にじっと没頭しています。特急は初秋の農村地帯を南下し、4時間半をかけて慶州に到着します。古都慶州は小さな街です。列車を降り、慶州の駅前を歩きます。露天でおばさんたちが物を並べて売っています。バス停の場所を教えてもらい、郊外にある慶州バスターミナルというところへ向かいます。ターミナルに着くと、周辺の旅館に入って尋ねます。「今日、泊めてもらいたいのですが、部屋はありますか」
ターミナルの近くには「ヨグワン(旅館)」と呼ばれる安宿が集まっています。私が飛び込んだのはバス停の前、一応はホテルと書かれてある宿泊所です。フロントでは、暇そうな若い係員がひとりで店番をしています。デイバッグを背負った私が入っていって泊めてくれと言うと、何やら言いながら人を呼びに出ていきます。かわりに入ってきたのは制服を着たがっちりとした体格の男で、この旅館、いやホテルのフロントの責任者のようです。どうやらこのホテルは暇です。「部屋ありますよ。5万ウォンです。でもディスカウントで4万2千ウォンでいいですよ」。なぜか、むこうから勝手に部屋代をディスカウントしています。ホテルには、私以外に客らしい人間は見あたりません。幸運にもオフシーズンに当たったのでしょう。私は、泊まる旨を告げ、パスポートを取り出して制服男に渡します。
2 ロック音楽の日本語
いつものことながら、話は勝手に飛躍して再び日本のロック音楽のことに飛びます。日本のロック音楽は、米国の影響から始まりました。日本ロックの初期は、原曲をそのまままねることに始まり、次に、向こうの原曲に日本語の歌詞をつけて歌う「カバーポップ」と呼ばれる時代に移っていきました。
そうした模倣から、時代はすこしづつ歩みを進め、日本語による日本独自のロック音楽を生み出すまでの比較的長い準備期間が続きます。「上を向いて歩こう」の成功は、その準備途上の日本語によるポピュラー音楽の可能性を示すものでした。
そして、最後に日本語によるロック音楽を自分の手で作りだす者が登場します。一九六〇年代末のロックグループの登場です。ここに至るまで、米国の模倣から始まって、実に十年以上の年月が経っていたのです。
この時期、おそらく日本中に同じようなグループがいくつも誕生していたはずです。ただ、マスコミに登場したのはこの中のごく一部、ジャックスやはっぴいえんどといった有名なグループでした。ところで、この六十年代末に、大ヒットした日本のフォークソングがあります。それが何だったかお分かりになるでしょうか。かぐや姫の歌った「神田川」という歌です。東京のアパートに住むカップルが、冬の夜、手ぬぐいを持って一緒にお風呂に行く、という光景を歌ったこの歌は、六十年代の若者の情景を描き出した作品でした。
この頃を最後に、時代は劇的に変化します。七十年代は、生まれたばかりの日本語のロック音楽が、成長を果たさないままに商業主義に取り込まれていく時代でした。すでに恋人たちは車に乗って中央フリーウェイを翔ける存在となり、生活の匂いのする言葉は歌詞から追放されていきます。
以前から存在していた「ロックのリズムに日本語は乗りが悪い」などという偏見は、より助長されていくようになります。そして、日本語を邪魔者扱いするような傾向さえ生まれてきます。「神田川」は二度と生まれなかったのです。ロック音楽の日本語は、誕生直後から日陰の道を歩まなければなりませんでした。
3 韓国は何を食べてもマシッソヨ
旅の楽しみのひとつは、その国や地方の食です。慶州に着いた日、ホテルの部屋に荷物を放り込んで、私は市内散策をかねて大通りへと歩き出しました。どこの国や地方であれ旅行に行くといつも、夕食までの時間をあてもなく散策するのが旅の楽しみのひとつです。街の市場などがあれば、面白いものがいくつかころがっていたりするのです。
それはとにかく、慶州市内に向かって歩いていくと、古墳公園の入口近くで「東海食堂」という看板をあげた店に出くわしました。デイバッグを背負って店に入ると、テーブルに案内してくれます。メニューの字はよく分からないのですが、料理は写真で紹介してあるので誰にでも分かります。一番大きな写真に「定食(ジョンシク)」と書いてあるので、それを指差して注文します。この東海食堂の定食は1万ウォン(日本円で約千円)です。これは一般的な定食が3千から5千ウォンであることを考えると、かなりの豪華版なのです。
ビールを注文すると、OBビールと一緒にキムチが5種類ほど皿に盛られて出てきます。これはいわゆる突き出しです。韓国ではどんな店に入っても、キムチやナムルなどの小皿が5皿くらい出てきて、食事の最後にはテーブルの上が料理の皿だらけになるほどです。
食堂のテレビではサッカーの試合を中継していて、食堂の親父さんは熱心に見ています。私もサッカーを見ながらキムチでビールを飲みます。箸は平らな金属製で、慣れていないとつるつると滑って使いこなせません。そんなことをしているうちに定食が運ばれてきます。たけのこのてんぷら、魚のフライ、サラダ、チゲ鍋、ナムルいろいろ、などなど、十五皿くらい出ます。とても、食べ切れません。汗まみれになりながら定食と格闘し、「十日間のハングル」という本で覚えたばかりの単語「マシッソヨ(おいし)」を使って店の人にお礼をいいます。こうして韓国の旅は今日もまた一日過ぎていくのでした。 (続くかも)
慶州市内「東海食堂」の定食。「とても食べきれまへん」
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