@『20世紀末デカメロン』序章
2001.2.23
『読売新聞・歴史検証』:部分的な先行入力
「第11章:侵略戦争へと軍部を挑発した新聞の責任」からの抜粋
[中略]
戦争中に日本のメディアが果たした役割については、あの「大本営発表!」のNHKラディオ「臨時ニュース」の記憶が、いちばん強烈である。
わたし自身は、敗戦まで中国の首都、北京で、北支那開発公社 に徴用された父親の家族の一員として育った。まだ国民学校の低学年生で、新聞を読む習慣はなかったから、その頃の家庭では付けっ放しだったラディオ放送や、時折見た映画の影響力についての実感が強い。
ラディオの海外放送についても、いかにも後藤新平らしい「大風呂敷」型の侵略的発想が先行していた。東京放送局の初代総裁に就任早々、後藤は「東洋大放送局」の設置を提案していた。『後藤新平伝』には、この経過が、つぎのように記されている。 「伯の総裁としての方針は、かくして着々と実現した。しかしここに最も重大なる事項にして、しかも遂に実施に至らず中止されたものがある。それは東洋大放送局の設置案であった。
伯は東洋の文化を開発する目的を以て、満州及び北支を圏内とする大放送局を設置し、しかしてその創設費はもちろん、年々の維持費は日本における放送事業の収益中よりこれを支弁すべしと主張したのである」
映像メディアでは満州での映画作りもあった。だが、本書では、それらと並行しながら、同じくアジア侵略の思想戦の先兵としての役割を果たした大手新聞の、「海外侵略」ぶりを探る手掛かりの資料についてだけ、一言しておきたい。
すでに本書でも、元読売社長の松山忠二郎が『満州日報』社長に、元報知社会部長の御手洗辰雄が『京城日報』副社長に、それぞれ就任していた事実を記した。
務台光雄の伝記『闘魂の人』には、読売が『ビルマ新聞』に派遣されていた当時の思い出が記されている。務台は、占領地の日本軍当局から「将官待遇」を受けた。「一方に命がけの生活があり、一方に豪華な生活がありで務台には懐しい思い出になっている」というのだ。
どれだけ占領地での生活が「豪華」だったのかという判断の基準としては、フィリピンのマニラ支局にいた社会部記者、のちの副社長、原四郎が、『別冊新聞研究』(25号、89・3)の「聴きとり」に答えて、つぎのように正直に語っている。
「……当時は日本よりもマニラの方が生活はよかったんじゃないですか。
ええ、よかった。まだ物資はあったしね。ウイスキーなんかもいっぱいあったし何でもあった。あんないい時はなかったですね」
原は、読売のマニラ支局から『ビルマ新聞』に移る。しかし、その頃には、「これはもう、ひどかった。日本が逃げ出す末期で、[中略]物はない、まことに惨澹たるもの」だったという。務台のビルマでの「豪華な生活」の結末は、現地経済の崩壊に終わっていたのだ。ただし、務台の能弁の記録には、『ビルマ新聞』による思想侵略戦争への反省は、一言も記されていない。
大手新聞社系列による海外メディア支配は、朝鮮、満州、中国全土へと広がった。
一九四二年(昭17)一〇月には、「南方占領地域」に関して、陸軍が「新聞政策要領」を各社に発した。前出『日本戦争外史/従軍記者』の表現を借りれば、「地域別に新聞発行業務を割りあてた」のである。「通告」の内容は、次のようであった。
「一、南方における本邦新聞は『朝日』、『毎日(東日)』、『読売』の三新聞ならびに同盟通信社および数新聞社の合同提携によるものとして現地軍の管理下にこれが経営を行わしめる。
二、現地に設立されるべき新聞社の担当地域は、(イ)『朝日』はジャワ方面、(ロ)『毎日(東日)』はフィリピン方面、(ハ)『読売』はビルマ方面、(ニ)同盟通信社その他の提携による新聞社はマラヤ、シンガポール、スマトラ、北ボルネオである。
三、南方における既存邦字新聞は逐次前記四社に包括せしめられる。
四、各種の土語新聞その他外字新聞の指導運営は現地軍で決定するか、あるいはこれを独立せしめ、または前項邦字新聞をして運営に当らしめるなど各地域の実情にもとづき処理する。
五、内地新聞社の総支局もしくは通信部の設置については、陸軍省で統制する」
同年一二月には、海軍も、『朝日』にボルネオ、『毎日』にセレベス、『読売』にセラムを、それぞれ担当地域として割り当てた。
この『日本戦争外史/従軍記者』には、「セラム新聞社長兼バリ新聞社長」として現地に派遣された梅津八重蔵の回想録、「大東亜戦争下における南方新聞設営余話」が収録されている。初代社長に任命された村上正雄以下一四名が乗船を潜水艦に襲われて「撃沈し、戦死をとげた」ため、梅津が後任に指名される。ところが、またもや梅津らの乗船も潜水艦に襲われ、「五日間、救命ボートに揺られながら、漂流をつづける」という具合だった。
そこで物語は、筆者の梅津いわく、
「道草を食った話」から始まる。最後には捕虜物語となるが、いささかでも思想侵略の反省を示す実感のこもった部分だけを紹介すると、つぎのようである。 「占領中日本軍にいじめられた町の青年たちが、『バッキャロー』(馬鹿野郎)と、自分たちが日本の兵隊にいわれた言葉を、私たちにぶっつけて来たことも何回かあったが、あまりいい気持ちではなかった。[中略]自分たちが新聞記者であることも、南方で新聞を発行していたことも一切おもてに出さないようにつとめ、一般商社員のような顔をしていた。というのは、もし新聞記者であることが英印軍の当局にわかれば、戦犯として収容所から連れ出され、軍事裁判にかけられることがないとはいえないという予感がしたからであった」
『読売新聞百年史』でも、「南方地域で新聞発行」「悪条件下でビルマ新聞の創刊」「犠牲者十四人を出したセラム新聞」と三つの項目を立てて、九頁にわたる詳しい経過を記している。セラム新聞の項目には、梅津八重蔵も登場している。しかし、さきのような「思想侵略」の実感のこもった部分は、まったく出てこない。逆に、「深まったビルマとの友情」とか、「現地人から慕われ」たとか、我田引水の「涙ぐましい」物語に終始しているのである。
それどころか、写真版の頁には、「暴戻・米英に対して宣戦布告/畏大詔渙発」で一面を埋めた読売の本紙(41・12・9)と、やはり一面を「慶祝ビルマ国建国/ビルマ国・堂々独立を宣言」で埋めた『ビルマ新聞』の紙面を、見開きで飾っている。これは、密かな「務台王朝史」でしかない。
ほかにも日本人側の苦労話はあるが、現地に与えた被害や侵略行為の反省はゼロである。さきに紹介した『日本戦争外史/従軍記者』は、『読売新聞百年史』より一二年も前に発行されている。梅津の回想録、「大東亜戦争下における南方新聞設営余話」が、『読売新聞百年史』の執筆者たちの目にふれなかったとは考えにくいのだが、わたしがもっとも興味を抱いたような反省的な記述の部分は、まったく見当たらない。
もしも、梅津の回想がなかったとしても、反省は、当然の作業なのではないだろうか。反省が欠如した社史、『読売新聞百年史』の存在そのものが、読売の社内でいまだに大東亜共栄圏思想が継続しているという事実の、なによりの証明になっている。
なお、『週刊金曜日』にも四回の連載記事、「大新聞・通信社によるアジア侵略」(浅野健一、95・9・1~22)が発表されている。現地で使われた側の記者たちからの批判には、やはり、胸をえぐられるような鋭さがある。読売ばかりではなく、他の大手紙、通信社(同盟通信は、戦後、共同通信と時事通信に分割された)、および同盟通信と提携した各地方紙の社史も、こうした批判に応えて、全面的に書き改められるべきである。