2001.10.22.(月)(2019.8.7分離)
2001.10.24. 訂正と若干の増補。
私が「テロを装った戦争挑発の謀略」と疑い、「9.11.アメリカ重大事件」と名付けた事件の直後から、米軍放送は事件関係の報道と論評だけになった。音楽も冗談も完全に消え失せた。私は、普段から時事論評を録音しては、英語の聞き取り訓練を兼ねて、アメリカの報道状況を知る手掛りにしているので、手持ちの録音テープを総動員し、続けて録音したが、仕事と日常生活の些事の合間に全部を聞き直すのには膨大な時間が掛かる。10.22.現在、ウォークマンに入っているのは10.11.分だから、まだ11日前までしか聞き直していない計算になる。追い付くにはまだ10日は掛かるだろう。
事件後、まる1週間を経て9.18.----ブッシュが議会で大演説をしていた。クリントン時代にも、ユーゴ戦争に際して同じような演説を聞いた記憶がある。当然、下書きの熟練者がいて、「国際音痴」とかのブッシュ坊やが、一生懸命、テキサス訛りのせかせかで練習を重ねたのだ。力んで喋ると、満場総立ちの拍手喝采、しばし鳴りやまずで、昔のヒトラーなどの演説風景とまるで変わりがない。ゲルマン型の習慣であるが、世界中の人間集団が似たような儀式を続けている。
動物行動学的に観察すると、チンパンジーの群れが猛獣に襲われる可能性が高い恐怖の夜を迎える前に、横向きの木の枝に並んで立って、一斉に唸り声を発する習慣が、この儀式に連鎖しているものと判断できる。恐怖から怒りへ、攻撃へ、いわゆる出陣の雄叫びの典型的な儀式である。
面白かったのは、「アメリカ人は今、なぜ自分達が憎まれるのかと考え始めている」という台詞だった。ここをブッシュは、非常に慎重に、重々しく、ゆっくりと喋った。あの不良坊やも、これが非常に重要な台詞だと認識しているのだ。議場は静まり返った。これはまた当然、当時の多くのアメリカ人による論調に表れていたことを意識して、工夫に工夫を重ねた台詞なのである。私は「憎まれ」問題の自覚に関しては同主旨の電網記事を沢山見ている。だから、次に何を言い出すかと興味津々、耳を澄ますと、「彼らが憎むのはアメリカの民主主義と文明である」と、と、と、おいでなすった。さすが見事な切り返しのデマゴギーである。
東京裁判でアメリカ人のキーナン検事は、あの勝者が敗者を裁く猿芝居のことを「文明の断固たる闘争」と称したのだそうである。「文明」か、なるほど、明治維新の後、「ちょんまげ頭を叩いてみれば、因習姑息の音がする。ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と謳われたあの同じ言葉である。だから、明治時代以後の日本人は、この言葉に弱い。「民主主義」の方は、敗戦後に叩き込まれたから、これにはもっと弱い。
私は昨年、パレスチナ内戦勃発と同時に、東京は港区赤坂のアメリカ大使館前にて、わざとアラブ訛りの英語で演説をした。その時に、私は敗戦国の少年としてアメリカ民主主義を教え込まれたが、それが真っ赤な嘘だと知ったとして、アメリカ民主主義については「デモクラシーよりも同じギリシャ語源のデマゴギーの方が相応しい」、とぶっぱなし、何度も繰り返してやった。
ギリシャのデモクラシーそのものについても、実態は人口の10分の1の支配部族の内部の政治方式でしかない。「軍事民主主義」という解釈も読んだことがある。言葉の構成は「デモス」の「クラトス」(権力)なのだが、「デモス」の語源を辿ると、「民衆」ではなくて「身体」などとあり、どうやら部隊の兵士の集団的な権力と理解した方が、歴史的実態に合っているようである。
欧米語の「文明」の語源は、ラテン語のcivitas(市民権)などの語群にあり、都市を意味する英語のcityと同じ語源から発している。つまり、「文明」という言葉を使うにしても「都市文明」の方が実態に近い。ラテン語の語幹のciviはcieoと同じ意味とされており、cieoには「召喚する」の意味がある。これもどうやら、兵役義務を負う「市民」に由来するのではないかと考えると、非常に分かりやすくなってくる。つまり、軍事的な征服集団の基地と財産こそが、英語のcivilization なのだ。文字による「文」とはまったく違う意味なのである。
さて、そこで、軍事基地または砦としての都市こそが、日本では民主主義とか文明とか漢語で訳される欧米の言葉の根底に潜む無気味な何かなのだと考えると、辻褄が合ってくるのだが、この際、突如、いや、実は、かなり前からのことだが、私の脳裏には『七人の侍』の構図が浮かんでくるのである。あの映画では、山賊が農民を襲うのであるが、山賊も侍も似たような無頼のたかり屋である。農民に侍が加担するというあり得ない筋書きの裏に、あの映画の欺瞞の構造が透けて見えるのだが、それだけでなくて、都市、当時なら京都などを軍事基地とする自らは働かざる暴力団が、常に農民などの働き手を支配していきた歴史的な構図が、背景として浮かび上がってくるのである。
この構図を古今東西の歴史の温故知新により、現状に当てはめてみると、「天が下に新しきもの無し」とした古代の警句が生きてくる。所詮、裸の猿の所業は、自己中心の遺伝子に数十億年前から仕込まれ続けた情報に操られるまま、あがいても、あがいても、変わりようがないのである。