木村愛二の生活と意見 2001年6月 から分離

アメリカ独立の聖書『コモン・センス』の著者トマス・ペインはフランス国王の処刑に反対した

2001.6.12.(火)(2019.8.7分離)

 前回、「トマス・ペインに関しては、すでに拙著『電波メディアの神話』に記し、ワープロ原稿があるので、その部分を、次回に引用する」と記した。

 ところが、これが、かなり長くて、日記風に収める量ではない。そこで、関連の部分の抜粋を、下記に入れた。

 以下、ここでは、そのまた抜粋のみを紹介する。


市民トム・ペインと『コモン・センス』の時代

 アメリカ独立革命の思想的支柱となった『コモン・センス』の著者、トマス・ペイン(一七三七~一八〇九)も、民衆の側に立つプレスマンの典型だった。というよりはむしろペイン自身が、もともと階級差別のきびしいイギリスの下積みの民衆の一人だった。

『コモン・センス』は何十頁にもならないパンフレットだが、アメリカ独立革命の最中に出版された。『史料が語るアメリカ史』には「三ヵ月で一万二千部の当時では空前のベストセラー」などと書かれているが、どうやらこれは一桁違いで「一二万部」だったらしい。『市民トム・ペイン』では、印刷屋が「悪夢を見ているような」気分で夜を日についで 刷りまくり、「おそらく十万冊以上」出したとある。そのほかに二種の海賊版がでたこともたしからしい。

『評伝トマス・ペイン』では全体で五〇万部という推定の数字をあげている。ワシントン将軍がひきいる民兵の総数は、冬は数千、夏は数万と、季節によって変動した。「どの兵士の雑嚢にも一冊、ページのすみの折れた、汚れた『コモン・センス』が入っている」(『市民トム・ペイン』)という状況だとすると兵士だけで数万部だから、大体の勘定はあってくる。

 ペインはみずからマスケット銃を肩にかついで兵士と行動をともにした。それがペインの主義だった。

[中略]

 イギリスでも危険をおかして共和革命の思想をもりこんだ『人間の権利』第一部、第二部を出版する。最初は権力のすきをねらって少部数の上製本をだし、それをうけいれさせる。ころあいをみはからって廉価版を一万、二万、五万部。やはり三万部の海賊版がでた。

 だがやはり、名誉革命、ピューリタン革命と、二度の革命をのりこえた経験をもつイギリス王政の壁はあつかった。ペインを中心にあつまりつつあった非公然の組織には一斉に官憲の手がまわる。ペインは逮捕直前に忠告をうけいれて、革命がおきたばかりのフランスにのがれる。

 ドーヴァー海峡の対岸では「海峡名物の嵐」にもかかわらず「カレーの市民は、ほとんど総出でペインを歓迎した。軍楽隊が、ラ・マスセイエーズを、それからヤンキー・ドゥードルを演奏した」(同)。

 ペインはカレー選出のフランス国民議会議員にえらばれた。議会ではわれかえるような拍手喝采でむかえられる。だがフランスでも、間もなくジャコバンの恐怖政治がはじまる。ペインはいわゆる穏健派のジロンドにくわわっていた。フランス国王の処刑には反対した。ジャコバン独裁の時期には発言もままならない。パリ郊外で『理性の時代』 [聖書の非科学性を批判し、下記の「裏切り」の理由の一つ] を執筆中に反逆罪の名目で逮捕され、ながらく投獄の浮き目をみる。いつギロチン台にのぼるかもしれない獄中の恐怖のなかでも『理性の時代』の執筆をつづける。

奴隷制反対の筆をふるったペインの葬列に二人の黒人

 一八〇九年、ペインの葬列にしたがったのはたったの六、七人だったが、その列のなかには二人の黒人がいた。もう二、三人がまわりにいたという説もある。奴隷制が公認されていた時代になぜ黒人たちが「裏切り者」の葬列にしたがう危険をおかしたのか。ペインは独立戦争以前から奴隷制反対のためにも、するどい筆をふるいつづけていたのだ。

[中略]