木村愛二の生活と意見 2001年4月 から分離

承前:「単なるサイバーテロか否か」民衆のメディア連絡会電子手紙広場小規模戦闘の発言禄

2001.04.06(金) 電子手紙の一部訂正、増補。編集。(2019.8.7分離)

経過説明の追加部分は、ここと同色太字
(2019.8.色変更・太字を解除、メールに番号追加)

1.

送信日時 : 2001年 4月 2日 月曜日 11:15 PM
件名 : [pmn 14130] サイバーテロの是非再論

 今朝送ったわが電子手紙、「単なるサイバーテロか否か」の時点では、『日本経済新聞』(2001.4.1)記事しか情報源がなかったので、下段に引く安田さんの御意見の「攻撃プログラム」の実態が不明でしたので、この点に関する私見は差し控えました。

 夕刻、わが電網宝庫読者が、同日の『朝日新聞』記事の切り抜きを提供してくれたので、以下のことが分かりました。「韓国メディアによると、1回のクリックで6ヵ所のHPに2,3秒間隔で接続を続けるプログラムが事前に広く出回って」いたというのです。

 以下、安田さんの電子手紙のその部分を全部再録します。

「5つめに、攻撃プログラムの使用の問題があります。個人的にはこれは完全なルール違反であり、攻撃プログラムを使用した攻撃は非難されるべきだと思います。ただし、攻撃プログラムの利用をもって、単に違法と決めつけるのではなく、そのような攻撃プログラムの組織的な運用を問題とするべきです。また、攻撃プログラムには、ネットワークの弱点を利用した致命的な攻撃プログラムと、単に通常のプロトコルの上で一定のコマンドを繰り返し自動的に発行するものがあります。前者の利用はネットワーク管理者にとっては脅威になりますが、後者の利用は(設計にもよりますが)あまり目くじらを立てるようなものではないでしょう」

 私は、以上の内、「ただし」以下には猛反対します。組織であろうとなかろうと、この種の狂気の凶器を使って狂喜することを、侠気であるかのように誤解すると、いわゆる右も、きっとやるでしょう。収拾が付きません。もしかすると、私の意見に反対の方も、正義の名において、お使いになるかもしれません。

 ですから、目くじらどころの話ではありません。私には、日本の馬鹿官庁の味方をする気は、さらさらありませんが、昔から、「正義の名」による愚行の数々を繰り返してきたのが、この、この、何とも、どうしようもない自己中心の裸の猿の実態なのです。せめて、違法と決めたり、そう思えることぐらいは、しないようにしましょう。もっとも、立ち小便ぐらいは、とも思いますが、それも、関係のない他人の迷惑にならないようにすべきです。違法ではなくとも、煙草も同様です。

 なお、非暴力抵抗の限界に関しても、結構、難しい問題があります。たとえば、イギリスで原子力設備を破壊して無罪になった女性の例がありますが、この破壊行為では、普通の市民は迷惑していないはずです。しかし、私も、しょっちゅうやっていましたが、合法的なデモ行進でも、一般市民には迷惑を掛ける場合があり、主催者は、損をすることもあるのです。常に、広く理解を求める気持ちが大事でしょう。

2.

送信日時 : 2001年 4月 3日 火曜日 8:13 AM
件名 : [pmn 14148] Re: インターネットを用いた抗議運動

「インターネットを用いた抗議運動について」の題名で、民衆のメディア連絡会の事務局の中心、松原さんが、韓国有志の行動を支持しましたが、私は、その内の次の部分のみに異義を唱えました。以下、引きます。

「ごく最近(3月30日)では、広島で『君が代』の時に立席しないだけで、200人近くの教師が処分される事件が起きました。すごい事態ですね。
 私も他人事とは思えないのは、私がもし教師の立場だったら、立席しないので、処分されることは間違いないからです。国家が個人の思想・信条に手をつっこんで来ました。そこで「長いものに巻かれてしまう」のか、自分の意志を貫くのか。戦後民主主義が試されているのでしょう」

 松原さんは、私と同様、正当な労働組合活動で不当解雇されて戦ったのですが、私も今、教師だったら、同じことをするでしょう。しかし、それは、あくまでも平和的な行動なのです。勘違いしてはいけません。主張が正しくても、手段を間違えてはいけないのです。君が代斉唱拒否は、物理的に攻撃するのとは違います。

 もしも、私が、日本テレビに「読売進駐軍」が乗り込んきた時に、サイバーテロで対抗したとすれば、職場の仲間は、ああ、馬鹿な奴っちゃと思って、支援するどころか、嘲ったことでしょう。今回の韓国の「有志」の行動は、逆の効果を生むでしょう。

 私は、パレスチナ問題でも、たとえ小石であろうとも、人を傷つける戦法には、反対を表明しています。それを煽る指導者も、特攻隊を煽った連中と同様に看做しています。煽った連中は、自分の命を危険に曝していないのです。テロを礼讃しないまでも容認する連中は、面白いことに、ほとんど「ホロコーストの大嘘」を信じ込んだままなのです。この現象を、私は、戦前の陸軍士官学校の「思考停止教育」と同じものであり、その種の日本人をも、「偽の友」として、要注意の警告を発しています。

 興味のある方は、次の頁を御覧下さい。そこから4回の「偽の友」批判が続いています。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-46.html

 今回の議論での中心的な問題点を簡単に言うと、ソ連や中国の例を引くまでもなく、物理的な力で権力を握った「改革派」の政権は、例外無しに軍事政権になり、独裁化しています。その理由は、最初から存在していた暴力主義にあるのです。暴力主義者は、権力主義者でもあり、必ず不勉強になります。私の人類史観から見ると、いわゆる社会主義も、水滸伝と同様、野盗の群れが時を得て、中原の鹿を追う構造でしかないのです。違うのは振りかざす「正義の御旗」の色だけです。

 これ以上、この問題にかかずらわるのは、時間の無駄と思いますし、私の手紙の題名で挑んできても、相手によっては開けずに完全削除していますから、議論の行き違いを心配されないよう、お願いします。

3.

送信日時 : 2001年 4月 3日 火曜日 11:10 AM
件名 : [pmn 14154] Re: 防弾チョッキのスペック

 片仮名語多用情況からして、いかにも当世若者風の伊賀さんの以下の発言に便乗して、人類史的観点から論じ、軽く皮肉を飛ばしました。


「電子メールによる情報交換手段は安全でしょうか。

 MLに参加するという時点で何が起こっても自己責任だと思っていました。

 ML上で発言をする場合には何も起こらない方が不思議だと思っています。

 メールアドレス・転送システム・メーラーを複数用意しないと困ったことになっても全て自己責任だと思っています。対策をしたつもりでもそううまくはゆかないでしょうけれど。だから私のことは電子攻撃しないでくださいね。

  私はMLの相場は手に凶器を持ったシリアルキラーがうようよいる雑踏だと考えているのです。非暴力非武装の集団だとは思っていないのです。防弾チョッキを着込んでいないと怖いのです。できるなら市販の武器と防弾チョッキのスペックは調べておきたいと思いますよ。

 シリアルキラーの武器は核兵器かもしれないですよね」


 伊賀さんの主義は、非常に面白いものです。

 私は、近代の人権思想、社会契約説の発端を、イギリスのホッブズの至言、「人間はお互いに対して狼である」に求めています。そこからの再出発が、ジグザグを続けているのです。ところが、新しい技術、たとえば飛行機が出現すると、19世紀末には風船から爆弾を落とすことが国際法で禁じられていたのに、どんどん進んで、大陸間誘導核ミサイルにまで行き着くのです。インターネットも、再び、ジャングルの掟の世界を繰り返しているのです。

 もしかすると、この裸の猿は、永遠にその殺戮本能から逃れられないのではなかろうかとも思いつつ、しかし、裸で狼の群れの中に分け入るのも一興かな、と思い定めているのです。私は、言論の反撃はしますが、物理的な防御はしません。釈迦は、干戈無用、攻撃用も防御用も武器はいらない、と説きました。クラウゼヴィッツは、防御から戦闘が始まるとしています。負けるが勝ち、とも言います。

 しかし、人生は短いので、時間の無駄を省くため、本性が判明した人の電子手紙は 開封せずに、即刻、完全削除します。これが私の唯一の消極的防御行為かもしれません。

4.

送信日時 : 2001年 4月 4日 水曜日 8:47 AM
件名 : [pmn 14175] 正義の旗の下ならテロではないか

 専門分野の議論では、言葉の意味を、ひとつひとつ定義し直していかないと、まともな成果は得られません。電子手紙広場に、それを求めるのは無理でしょうが、試してみるのも一興でしょう。むしろ、このような混乱期だからこそ、集中的な面白い議論になるかもしれません。

 緊急事態ゆえ、駆け足になります。私は職人肌を自称しており、目の前の現実に遅れないように努めている積もりですが、この混乱期に、中東、ハワイ、武蔵野、すべてに自己満足できるような対応を続けるのは、これも、やはり、無理でしょう。実は、昨年から、カール・マルクスの暴力革命主義徹底批判を開始したのは、それらの全体的な情況を俯瞰しながらだったのですが、この狭い電子手紙広場においてだけでも、議論の前提条件として一番重要な鍵言葉の定義を一致させることが不可能であることが、早くも露呈されました。

 私の要約には、異義を唱える人も出るでしょうが、韓国有志vs日本文部科学省の電網空間戦争に関して、韓国有志支持派は、「正しい主張だからテロではない」と主張しています。パレスチナでは子供が抗議の小石を投げて殺され、その虐殺に怒る青年が銃を撃ち、偽イスラエル側がミサイルをアラファト事務所にぶち込みます。どちらも正義の御旗を振りかざしています。最悪の極右、殺戮者のシャロンは、「パレスチナ側がテロを止めない限り和平交渉には応じない」と居丈高に居直ります。拙訳『偽イスラエル政治神話』には、「イスラエル支持報道による事件の意味の逆転」(p.286)の項目があります。

 私自身は、韓国有志とパレスチナ側の主張が「正しい」と判断します。そう主張します。しかし、それだけで事態が解決するわけはありません。ここで一番重要な鍵言葉は「正しい」ですが、哲学などと言うまでもなく、論理的な議論では「善と悪」の方が便利でしょう。ここでも駆け足しますと、これは裸の猿が「お約束」として考案したものであって、遺伝子に組み込まれた本能ではありません。「お約束」を守らない大人の嘘を見抜いた子供が、暴力に憧れ、アメリカの子供の5人に1人が学校に拳銃を持っていく事実は、建て前と本音の混乱期、「何でもあり時代」の象徴です。

 ニヒリズム(虚無主義)が西欧の哲学に登場したのは、1799年、今から200年ちょと前とされており、ニーチェが、1881年にアレクサンドル2世を暗殺して処刑された若者の思想を、こう呼んで以後、近代哲学の中での定義が具体化したようです。今、ニーチェの予言の通りに、虚無主義思想が蔓延しています。「善と悪」の「お約束」を守る義務を感じない人々にとっては、「正義の御旗」はすべて「口実」でしかなくなるのです。しかも、それが、裸の猿の短い歴史の中でも、ずっと、そうだったのです。いわゆる教育の普及によって、大いなる錯覚の時代に育った大人たちは、17歳の若者から「なぜ人を殺してはいかないのか」と問われて、目を白黒させ、困ってしまっています。

 こんな時代、というよりも、裸の猿が、科学的な歴史認識、社会契約を、すべてやり直すべき好機に、「正しい主張だからテロではない」と主張し続け、結果的には、サイバー空間をジャングルの掟の世界にしてしまうことほど、愚かなことはないと愚考します。あえて、「汝の敵を愛せ」とまでは言いませんが。

5.

送信日時 : 2001年 4月 5日 木曜日 0:36 AM
件名 : [pmn 14194] terreo談義介入の種明かし

 相手の電算機を破壊しない戦法は「テロではない」との新解釈が、安田さんから出たので、もう、そろそろ、最後の締めにしようかと、種明かしをしました。

註:テロの語源のラテン語、terreoは、「嚇かす」ですから、機械を壊さなくても、テロ行為なのです。

 さてさて、そろそろ種明かし、などと言うと、またカンカンになって怒る人が出るかもしれませんが、私は、山中正剛さん(さすが戦前生まれ、凄い名前ですね)から見れば少年少女の世代でも、一応、甲羅に苔(萩谷さんあたりが蘊蓄を傾けたくなるでしょうが、毛の打ち間違えではありません)が生え始める年頃にはなったので、人も悪くなります。一説によれば、人を食うのが長生きの秘訣とか。

 私は、よせばいいのに、またまた、ついつい、サイバーテロ談義に介入し、どうせなら、悪役を一手に引き受けて、百人斬り(本当は歯こぼれ以前に脂が付いて不可能)でもして見せようかと思ったのですが、どうやら、サイバーテロ支持派の方が圧倒的多数ではなくなったようなので、少し寂しいくらいです。介入したきっかけは、このまま放置すれば、いつか来た道、反対派の坂本さんに集中攻撃の可能性あり、と憂えたからです。坂本さんとは、耳情報によれば、例会で同席したらしいのですが、面識があるとは言えない程度の関係です。

 で、結果として、御観戦の静寂多数派の皆さんにも、私を取り囲んだ剣士の面々(実は、ほとんど開封せずに完全削除組多数)の内の何人かが、この種の激動の場面の常連だということが、お分かりになったでしょう。私は、この電子手紙広場開設の以前も以前、ヴィデオが最先端技術の時代の民衆のメディア連絡会の創設組ですから、その後の参加者の内、東京での例会参加者は、ほとんど知ってます。皆さん、お若い。ジャン、ジャン、ジャンジャカ、ジャン、ジャン、「正義の剣士」型多数。すぐに、目を三角に吊り上げて、怨敵退散!

 で、私自身も経験済みなのですが、普通の人は、これをやられると、神経衰弱になります。このこともあって、楽しい隠遁生活から、あえて復帰したのです。これからは他人のことを名指すと、またまた、紛糾しますから、私自身の反省として、聞いて下さい。

 日本テレビ時代、私は、民放の首都圏の日本共産党組織の「最高幹部」(患部かも)でした。別に共産党だけを批判するわけではないのですが、組織というものは、古今東西、どこでも、似たり寄ったりの軌跡を辿ります。共産党の場合、職場や地域の支部とは別に、いわゆる「大衆組織」でも党員を3人以上確保して、「グループ」を結成し、これを「上級機関」が「指導」します。かなりの人数の組織でも、当時なら特に強固な既存の「社会党系」集団がいない場合には、3人がぐらいが「意志統一」をして会議に臨めば、非常に簡単に、反対派を沈黙させ、主導権を握ることができました。しかし、大抵は足元がお留守で、分裂攻撃、少数派転落の結果となりました。

 ここから駆け足になりますが、私は、この種の自分が長年やっていた組織活動が、根本的に間違っていたのだと、考えるに至ったのです。ですから、別の党派、流派だからといって、毛嫌いして対抗する気は毛頭ないのです。しかし、「正義の剣士」型の皆さんの肝を少しは冷やしてやらないと、まともな議論はできないな、と考えていたのです。

 特に名は挙げません。「被害者」も特定はしません。悪気があったに違い無いないなどとは言いません。別に示し合わせたのでもないでしょう。しかし、胸に手を当てて考えれば、思い当たる節がある人がいるはずです。この種の「寄ってたかって」集中攻撃の習慣を許せば、議論を喚びそうな問題を広場に持ち出すのが怖くなります。結果として、どこぞの職場の挨拶のように、無難な天気とか野球の結果とか、実に無意味な意見交換の場になってしまいます。これは止めた方が良いでしょう。お互いに攻撃本能を意識して抑制するか、気が付いた人が茶々を入れるか、すべきでしょう。

 terribilisは、畏敬すべき、であり、英語のterribleの俗な意味は、「最高に刺激的!」となります。今は夏山一回こっきりの山登りなら、剣が峰の刃渡りでしょうか。転落すれば即死の恐怖との心理的な戦いが、これまた堪えられない刺激なのです。

6.

送信日時 : 2001年 4月 5日 木曜日 8:23 AM
件名 : [pmn 14197] Re: 「日本では」の認識は逆です

 支持派の井口さんの発言の内、次の部分のみに、反論しました。

「日本では、抗議行動があらかじめ結果を予測してうまくいかないだろうとか考えて、自分で自分の首を絞めているようにみえます」

 歴史の認識は、経過の伝え手によって、真反対になることが多いのです。丁度手許に、「淀号」事件の赤軍派の継承組織、自主日本の会機関誌、春雷2001.3.26.号が届いたばかりでした。民衆のメディア連絡会で知り合った高弊真公さんの著書、『釜が崎赤軍兵士ー若宮正則物語』(彩流社、1800円)「遂に発刊!」の書評が載っています。

 書物の価値は、読んでないので差し控え、書評は矛盾だらけと表明するに止めますが、ここに興味深い歴史認識の例があります。現在の政治情況を、次のように記しているのです。

「全共闘世代の栄光と敗北のトンデモナサの後のペンペン草も生えない『過激派・テロリスト』というインチキ価値観が大手を振っているような世界で生きざるを得なかった世代には『こんな人もいたのか』と別の角度から赤軍派や新左翼の闘いを見直す機会となるであろう」「若宮は赤軍派の『異端児である』と同時に紛れもない『我々赤軍派の星』である」

 うむ、私は高弊真公さんを個人として知っていますし、心根の優しい方と理解しています。ですから、「ペルーで遭難した」「異端児」の墓碑銘は、読んでみたいと思います。

 それはそれとして、上記のように、「我々70年闘争を闘った同時代人」を自称する書評子自身が、「敗北のトンデモナサの後のペンペン草も生えない」という認識を持っているのです。私は、70年当時、職場の労働組合の役員でしたから、当時の学園闘争、さらにはそこから引火した労働戦線内の激突情況には、強い批判を持っています。私の歴史認識では、自ら「敗北」を認めている全共闘世代の闘い方が「過激」というよりも、1960年安保闘争の頃のブント(これも「敗北」自認)と同様に、若気の至りの傲慢な無茶苦茶で、「自分で自分の首を絞めて」しまったのです。

 最後の決め手が、「浅間山荘」事件でした。「新宿駅占拠」でした。あれで、いわゆる左翼、反体制運動のすべてが、普通の市民の目から見て、暴力主義集団としか看做されなくなり、地盤が崩壊したのです。もちろん、社会党も共産党も、議会政党に成り下がり、「安保闘争の遺産を食い潰した」と批判すべきでしょう。

 ということで、私は、過激という言葉で語るのであれば、70年前後の日本の運動が、左右の揺れもあって、一部が過激に突出し過ぎたために、結果として全体がガタンと落ち込んだのだと、考えています。ですから、なおさら、さらに今、ごくごく縮小版になっている市民運動が、蟷螂之斧を振り回す、いや、自らは振り回せないのに、過激な行動に憧れるのは、実に滑稽なことだと考えるのです。

 ああ、また怒る人が出るでしょうかね。呵々。

7.

送信日時 : 2001年 4月 5日 木曜日 11:55 PM
件名 : [pmn 14217] Re: どんな抗議運動の形態だったら

 再び井口さんの質問、「どんな抗議運動の形態だったらいいと思うのですか」をだしに使って、支持派も反対派も、あくまで言論により、まとめて挑発しました。

 すでにご存じの方も多いのですが、私は、むしろ、このところ呆れ果て、飽き飽きし果てた組織運動を、軒下に転がして、日本の昔の「乞食坊主の辻説法」を想起し、昨年夏から、地元では武蔵野市の税金横領事件に関わる政治犯罪批判、都心ではシオニスト『ガス室』謀略を含む偽イスラエルの思想支配下にあるアメリカ批判など、すでに、20回以上の単独かつ自転車で運搬可能の単1を10本使用の巨大「ドラム缶」の愛称の拡声器を平和的に使用、日本語と英語の街頭演説を行いました。

 これは同時に、電網高速化時代に電網宝庫時事解説者として、わが電算機編集の映像音声による自主規制なしの徹底批判を世界中に即時に送るための再訓練でもあります。

 いずれの場合も、最初は数人の警官と小競り合いになりましたが、長年鍛え上げた音量のある美声で説得を続け、最後はおおむね和気あいあいの成果を挙げています。つまり、日本には、この程度の言論の自由の余地が、まだあるのです。しかし、活用しないと、閉鎖される可能性もあります。詳しくは、わが電網宝庫、下記を御覧下さい。

 地元では、
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/hushou-11.html
 以下、hushou-14まで連載。

 都心では、
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-44.html
 以下、glo-46まで連載。

 ただし、現在は、杉花粉飛散の悲惨期間なので、原潜事故に関しての2月末緊急出動の実績以外は外出は控え、体力温存、準備活動に励んでいます。日本の教科書問題までは手が回り兼ねますが、アメリカ大使館と文部科学省は近所ですから、5月中旬、今度は、行き掛けの駄賃稼ぎに寄ってみましょう。英語の次に日本語だけで演説するのなら、ほとんど準備もいらず、何時間でも続けられますから、こんな楽な行動はありません。しかも、誰からも苦情の出ない立派な言論表現なのです。

 皆様におかれましても、この件では、かなり御憤慨の御様子と御見受け致しますので、韓国の有志の褌を借りての不精な電算機仮想空間闘争ごっこなどを火燵の中で力むよりも、青空の下で、天上天下云々とでも唱えて、唯の我独りで、おやりになったら、いかがでしょうか。呵々。