『読売新聞・歴史検証』(木村愛二、汐文社、1996)より抜粋
(第8章 関東大震災に便乗した治安対策より)
その1:「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力
正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。
興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の1960年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第12巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第1師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。
「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」
この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。論理的な解明は不可能ではない。ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると……⇒全文を読む
その2:東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見
各社は保存していたはずだから、9月1日から4日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。
ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「9月3日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。要点はつぎのようである。
「東京の鮮人は35名づつ昨2日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋……⇒全文を読む
その3:「米騒動」と「3・1朝鮮独立運動」の影に怯える当局者
「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、4年前の1919年3月1日にはじまる「3・1運動」以来、日本国内に氾濫していた。
しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。
戒厳令には「敵」が必要だった。警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、1918年の米騒動と1919年の3・1朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。⇒全文を読む
(第9章 虐殺者たちの国際的隠蔽工作より)
その4:留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件
「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。つまり、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。
元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。
関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。
だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の3文字は、これまで付け足りのようだった。とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。⇒全文を読む
その5:924件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視
さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の3大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。[中国人指導者]王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。
まずは前項の「まぼろしの読売社説」[王希天虐殺事件]の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの1行の記述もない。それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。⇒全文を読む
その6:後藤内相が呼び掛けた「5大臣会議」で隠蔽工作を決定
これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。
おりから新内閣の組閣中で、関東大震災発生の9月1日までは留任中の水野錬太郎(1968~1949)、2日からは再任の後藤新平(1857~1929)だった。つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、2度目の要職を引き受けていたのである。
後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に……⇒全文を読む