電波メディア「学界」批判

その3。周知の「ナレアイ性」

1998.4.30

 「学説公害」が温存され、新しく製造される続ける原因の一半は、その業界の前近代的体質にもある。

 マスコミ研究の業界にも、この種の「学説公害」やら「模範答案」がいまだにまかりとおる村社会的な「ナレアイ性」がある。

 私はドン・キホーテが大好きだから、この際、よろこんで恨みを一身にひきうける覚悟をした。ハッキリいうと、マスコミ研究業界は、まるでまともな議論をしていない。

 今から23年前の1971年という時期にも、「マスコミ研究者相互にかなり共通的にみられる″ナレアイ性″を指摘しておかねばならない」(『放送学研究』22号)という礼儀正しい表現で、その実状を告白する先輩がいたほどである。

 早川善治郎と小川肇の連名によるこの論文では、「ナレアイ性」の原因を「もしかすると、日本的思想風土の体質によるものかもしれない。あるいは、マスコミ研究者の層の薄さ(これによる研究史の浅さとも関連する)に起因するのかもしれない。また、″アンガージュマン″の欠如からくるのかもしれない」などと憶測する。両名の観測によると、日本のマスコミ研究者には「2つの流派(?)」がある。あえて名をつけると、一方は「社会心理学派」、もう一方は「史的唯物論派」である。ところが、両派ともに「論争のための多くの機会をもちながら、本格的かつ全面的な相互批判を展開してはいない」のだ。

 マスコミまたはメディア関係の世界は、意外にせまく、ナレアイ的風潮をそだてやすいのである。近代的なようにみえるがやはり、議論をきらう村社会ニッポンの風土を逃れられないのだ。

 私自身、十数年前にペンネームで、この種の「マスコミ研究者」の一人の見解にたいして批判的な文章を書いたことがある。その際、執筆者が私だということを知った別の「マスコミ研究者」から、「味方にすべき人だから、批判して敵に追いやってはいけない」という趣旨の忠告をうけて唖然としたものである。私はそれまで、世間一般の常識にしたがい、うすらぼんやりと、学者というものは理論をきわめるために厳しい論争をするものだと思いこんでいた。批判すると敵においやるというのなら、その相手が右であろうと左であろうと、隣の人をおいやらないため、そのまた隣の人、そのまた隣、そのまた隣と、とどのつまりは一番はしっこまでつづいて、金魚の糞のような無批判の連鎖ができあがってしまうではないか。それでは厳密な学問などができるわけがない。

 さらに、ここで指摘された「″アンガージュマン″の欠如」は決定的な問題点である。現場を知らず、またはそれを類推するにたりるような実践経験のない象牙の塔の住人には、電波メディアに対する権力支配の実感がえられるはずがない。しかも、マスコミ研究またはメディア論の「ナレアイ性」にはやはり、中央集権的な象牙の塔という決定的な震源地があるのだ。

 いわゆるメディア論に関して、日本で最も権威が高いのは、東京大学の社会情報研究所(下「研究所」)である。以前は新聞研究所といった。そのせいか、それとも当方のひがみのせいか、ここでも、放送の扱いは格がひくいような気がする。ともかくこの研究所で学んだ「模範的」優等生多数が推薦をうけて、日本全土の官学、私学をとわず、教授、助教授、講師として派遣され、日本のメディア学会の主流をなすしくみになっている。東京大学は実質的に帝国大学の伝統をつぎ、高級官僚と大学教員の育成を目的としている。だから学者先生にとって、この仕組みにさからい、あえて異説をとなえるのは、実質的な破門または社会的な破滅覚悟の反逆行為となる。

 もちろん個々の研究者が微妙に表現をかえて、いわば「奴隷の言葉」で自己主張をこころみてはいるようだ。しかし、公然たる論争には発展しないし、それゆえいまだに「学説」公害が除去されていない、だからここでは、研究所の代表的な見解のみを批判の対象としてとりあげる。それこそが、打破されるべき「学説公害」の汚染源だからだ。

 再検討をうながすために、「学説公害」に脳ミソを汚染された最近の若い大学教員の実例をしめしておこう。そのものズバリ『放送論』と題する博士論文に毛のはえたような本が数年前にでた。私は、めくってみて1頁目でアッとおどろいてしまった。「放送は制度として存在する」というのが冒頭の文句であって、その「制度」への疑問はおろか、まともな歴史の説明などはなにもない。これでは「朕思うに……」の時代とまったくかわらないではないか。「学説公害」は、こうした偏差値エリートの若い大学教員によっていまもなお、まきちらされてつづけているのである。