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その1。学界嫌い事始め
1998.4.30
私はもともと偉そうな権威的存在が嫌いで、教授などという存在に対しても、あまり深い関心を抱かず、ただ何となく「うさん臭い」気分で眺めていただけである。
大学では、この本を読めば某教授の単位を取れるなどと要領の良い同級生から教わり、素直に従って成功したものの、なんと黴臭い、つまらない本を書く人種なのかなという実感が強まり、ますます嫌いになっていった。
そんな私が、いわゆる「学界」なるものに対して、本格的な疑問を抱き、これは挑戦せざるを得ないかなという気になり始めたのは、最初の著書『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(鷹書房、1974)の執筆中であった。
この本の横帯には、次のように書いていた。
近代ヨーロッパ系学者による
“古代史偽造”に真向から挑戦!
この本の中心テーマは、古代エジプト文明の創設者が紛れもない黒人だったというセネガル人、ディオプの説の検証であった。この説は現在、ミイラのDNA調査で見事に証明されているが、「学界」との関係で私が痛感したのは、いわゆる先進国で大学にアフリカ史学科がないのは日本だけという実情だった。それがいまだに同じ状態なのである。東京大学を例に取ると、「アフリカの社会と文化」が歴史学部の共通講座になっているだけである。原因は実に簡単で「学閥」以外の何物でもない。明治以来、「国史」または「日本史」、「東洋史」、「西洋史」の縄張りが張り巡らされ、その学閥の系譜が延々と続き、その封建的末裔が、助手、講師、助教授、教授の階段を、右顧左眄しながら這い上るのである。
日本史でいえば、大和朝廷の天皇の墓と称されている古代遺跡を発掘せずに、「歴史」を教えているなどという破廉恥な国は、日本だけである。それなのに、大声を挙げて宮内庁を批判する教授がいたと聞いた試しがない。いわば腰抜けの集まりである。
あとは言わぬが花