赤狩りの時代にカザンの裏切りによって弾圧を
受けた映画界の人々が授賞を批判
(萩谷良・翻訳家 1999.3.26)
22日(米国では21日)に発表されたアカデミー賞の受賞者の中に、映画監督のエリア・カザンが名誉賞受賞者として名を連ねており、赤狩りの時代にカザンの裏切りによって弾圧を受けた映画界の人々が、この授賞を批判している。授賞式当日は抗議行動が行われたはずである(これは20日の毎日新聞で知った情報で、その後ニュースは見ていないので)。
私がこのニュースで気になったのは、アカデミー賞を検討する映画芸術科学アカデミーの理事が、「芸術に政治が入り込む余地はない。ならば、すぐれた作品をのこしたカザンは賞に価する」と述べたというくだりである。
カザン監督は、赤狩り協力を糾弾された(だからこそ、これまで芸術家としての実力にもかかわらず、受賞できなかった)あとも、映画を作っており、「波止場」(1954年)でアカデミー賞監督賞(2度目)を受賞したという。ならば、アカデミー賞受賞も含めて、芸術家としての社会的地位および生活の経済基盤はなんら脅かされることがなかったわけだ。他方、彼のために弾圧を受けた脚本家や監督らは、そのことさえなければ、その後、カザンに劣らず華やかな活動を展開していた可能性もある。
芸術に政治が入り込む余地はない、というのは、ナチスドイツや戦前の日本やソ連や中国で行われたように、芸術の内容に政治家がくちばしを挟んで、芸術家の作品発表の場を奪い、その経済的基盤を脅かすことについて、いわれるべきことである。その言葉だけを借りて、それをこのようにデタラメに意味を拡張して使うことに、私は腹が立ってならない。
守られるべき人の権利とはなんなのか、また、どういうものを権利の侵害と言うのかは、民主主義の根幹の問題である。そのけじめがわからないばか者が、アカデミー賞授賞を決定する機関の要職にあることは、米国民にとっても、また全世界にとっても、有害なことではないだろうか。
従軍慰安婦問題で櫻井よしこがフザけた発言をしたとき、人権団体が抗議すると、櫻井よしこの人権が抑圧されたと騒いだ人達がいたことを思い出す。あのときの櫻井よしこも、せいぜい抗議のファックスが殺到しただけで、脅迫電話もなく、方々で講演会がキャンセルされたかわりに、そのことを訴える講演や文筆で儲かりもしたのである。
余談だが、そんな人の被害妄想に同調したある一人は、同じ文面のファックスをおおぜいで送るのが怪しからんと書いた。私は、脅迫電話でなくてよかったね、みんな同じ文面ならいちいち読む手間が省けていいね、人に決めてもらった文面を送ることしかできない文章に自信のない人達にも抗議の権利はあるのではないかね、と反論したら、そいつはなんにも言えなかった。
犯罪者、どころか、単なる容疑者に対してさえ、人権を認めようとしない人々が、恵まれた身分にある強者の人権を擁護する。
そう、まるで「天皇様、おかわいそうに」といった人みたいに。民主主義とは、こういう具体的事実認識の積み重ねでできていくものだろう。なまはんかな精神分析もどきみたいなものをもちだして、日本人全体の精神史なるものを語り、戦後民主主義の陥穽などとほざく、岸田某だの河合某などの危険性は、民主主義がそういう地道なものであることを無視する点にあると思う。
以上。