「従軍慰安婦」問題に見る「メビウスの帯」断章(その6)
(2001.4.30のメールを収録)
歴史は物語か実録かNHK戦争裁判の喜劇に見る
「講釈師、見てきたような嘘を言い」の枠組
送信日時 : 2001年4月30日 月曜日 8:44 AM
件名 : 歴史は物語か実録かNHK戦争裁判の喜劇
今回で一応、NHK-ETV「戦争をどう裁くか」第2夜直前改変騒ぎに関してのわが電子手紙論評を閉じます。この件については、いわゆる自由主義史観の「教科書」問題にも論及しなければ、焦点が定まらないところがあるので、改めて振り返る予定です。
光陰矢のごとし、とか、この事件の関係者の年齢を考えると、ああ、やんぬるかな、民放労連で私が放送問題の中心的な担当者だった時代を顧みて、いかに経験の蓄積を伝えることが困難なのかを、深く実感せざるを得ません。欧米では医学の祖と位置付けられるヒポクラテスが、「経験は失われ易い」として、それを書き残す努力をしました。それに比較すると、偉そうなこと言うなと、足下を掻っ払う輩が出そうですが、当時でさえ、毎年、新入組合員相手に同じ議論を繰り返す必要があって、それを、「賽の河原の石積み」と嘆いていたのです。
その上に、このところ、民放でもNHKでも、労組の運動が沈滞していますから、いわゆる現場を知らない教授たちを招く原則論の勉強会だけで、実践が伴わず、市民層にも内部の実態が伝わり難くなっているです。だから、率直に言うと、唖然とせざるを得ない発言が相次ぐのです。
たとえば、歴史家でも評論家でもなく「ルポライター」と正直に名乗る旧知の西野留美子さんは『創』(2001.5)記事の中で、今回の事態を「放送の危機が叫ばれる事態にまでなっている」と書いています。私は、つい笑ってしまいましたが、顧みて、自らの努力不足の反省をせざるを得ません。私は、この同じ雑誌の今から丁度20年前の1981年6月号に、徳永正樹の筆名で「NHK民放電波利権肥大症の腐れ骨」と題する記事を寄せました。現在の状態は「危機」どころか、堕落し果て、悪臭すらも立たない死に体なのに、それが理解されていないのです。
先にも記しましたが、現在の私が末端組合員の出版労連までが、「東大助教授、高橋哲哉」を招いて、「教科書問題で学習会」(機関紙『出版労連』2001.4.16.)を開いた」のです。出版でも、労組の運動は沈滞の極にあり、労組の中でさえ政治的な議論が嫌われるほどの状態です。わずかに過去のしがらみを抜け切れない教科書出版社の一部の組合員が、「頑張ろう!」を歌ってはいるものの、先にも記したように、日本史ではなくて、「アウシュヴィッツ神話学」の狂信的「アカデミー業界の商売人」を呼んでしまうのですから、もう、呆れを通り越して、憮然とするのみです。
面白いのは、この助教授殿が、自由主義史観派に「物語性を取られた」という主旨の話をしたらしいことです。参加した組合員の感想には、それをもっと詳しく聞きたかったとあります。つまり、説明が舌っ足らずだったのでしょう。語った本人が歴史学の基本を理解していないことは、嘘っぱちのホロコーストを信じ込んで、自分のアイデンティティにしていることからも、断言できます。
私は専門ではありませんが、ヘーゲルの『歴史哲学』やクローツェの論考(手許にないので日本語訳題名不明)などの基本文献には、一応、若い頃、目を通しています。ここで面白いのは、ドイツ語の「歴史」には、二つの単語があり、Historchenは英語にstoryがあるように、歴史から小説までの意味を持ち、Geschichteは事実、事件を語源としながらも、やはり、歴史から物語に至るまでの意味を持つことです。ヘーゲルはGeschichteを使っていますが、『歴史哲学』における西洋以外の地域の叙述は、神話以外の何物でもない傲慢極まりない白人優越主義の権化です。
要するに、歴史なるものは、これが物語じゃ、これが事実じゃ、実録じゃ、と勝手気侭に、「講釈師、見てきたような嘘を言い」の枠から、未だに抜け切れないのが実情です。そんな実情を知らずに、欧米の巧みな言論操作に踊らされた「喜劇」が、今度の「事件」の「腐れ骨」だったのです。
以上で(その06)終わり。