送信日時 : 2001年 5月 16日 水曜日 9:06 AM
件名 :[pmn 14884] 犬も食わぬテロ論議に基本的な再論
自称糞爺の木村愛二です。
私が初期に参加していた文部科学省へのサイバーテロを巡る議論が、いわゆる揚足取りの典型となり果てています。静寂多数派から、「これでは困る」との耳情報意見も頂きました。いわゆる「犬も食わぬ夫婦喧嘩」、目を背けたくなる痴話喧嘩としか見えません。
その上に、私が発信者名を見ただけで即時完全削除することにしている某ホロコースト狂信者、または英語ではhatemonger(直訳は「憎悪商人」)と呼ばれる自称平和主義者の「でたがり」「下司の売り込み」の典型までが参入し始めたので、今後は、関係の他の方の分も、私は、すべて、同様の取扱いとします。
ここで再論するのは、善とか悪とか、裸の猿が偉そうに決めていながら、守るどころか欺瞞の材料でしかない基準を振りかざす議論ではなくて、あくまでも私の「好み」です。しかも、それは、どなたも、ご存じあるめえ、ではなくて、釈迦も、イエスも、その他諸々の思想家も、昔から唱えていたことなのです。
およそ、世に中を平和にしたいとか、楽しく一緒に暮らしたいとか、偉そうに提唱したいのであれば、裸の猿が社会の規範としてきた以上の水準の「衆生済度」(命あるものすべてを迷いをから救う)を目標とするのが、筋と言うものです。
私は鯨を食べたいので、「衆生」の全部を救う気はありませんが、少なくとも、自ら求めたわけではないのに仕方なしに「同類」として付き合うしかない裸の猿の社会を、少しでも居心地良くしたいのです。
法律だけでなくて、いわゆる節度を守れない自家撞着、独善、我侭、「いやがらせ」趣味の人とは、一緒に暮らしたくないと思うのが、普通の人の感覚です。私が、この電子手紙広場に我慢して参加しているのは、多分、私が、あまり普通ではないからと自覚しています。もしかしたら、深層心理では、hatemongerも含めて、「衆生済度」してみたいという野心を抱いているのかもしれません。
私が、「階級敵」という手前勝手な概念を普及させ、果ては、半気違いの赤軍派までも生み出したカール・マルクスの暴力革命思想への徹底批判を開始したのは、そういう主旨です。私は、極悪の資本家に対しても、物欲に支配された哀れな生き物として、憐れみの心を持つのが、一番筋の通った最も優れた思想であると考えます。
私は、日本テレビで16年半の不当解雇反対闘争を闘っていた当時にも、できるだけ個人的な怒りを昇華させるように努力しました。職場の仲間から、私の首を切った元内務官僚に対する気持ちを聞かれた時には、「憐れんでいる」と答えました。
いわゆる国家独占資本の牙城の中での鍔迫り合いの闘いの中で、私は、そういう「好み」の思想を練り上げました。その当時に、そこらの学生運動とか、神田カルチエラタンとか、気楽で阿呆みたいな街頭激発行動で暴れていた馬鹿どもとか、そこらの詐欺的自称左翼政党のピンハネ官僚などは、まるで相手にする気はありません。
水準の低い議論で肩を聳やかすのは、みっともないから、もう止めて下さい。
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